感想とかいう創作意欲に対する最強のドーピングを貰ったので初投稿です。
どちらが先に手を伸ばしたのか分からないまま指が絡まるみたいに、どちらが先に言ったのか分からないまま、気づけば二人の予定になっていることがある。
この話もそうだった。
昼食のあと、洗い終えた皿を水切り籠へ並べている彼女の背中を愛おしく眺めながら、私は何気なく言った。
「そういえば、前話したあの映画、まだ観てなかったよね」
彼女の手が、ほんの一瞬だけ止まる。
水道の音が細く続いている。泡のついた白い皿の上を、水が薄い膜になって滑り落ちていく。彼女はそれを丁寧に流し終えてから、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「この後観ますか?」
「うん。前からちょっと気になってたし」
「……そうですね」
彼女はそう答えて、少しだけ笑った。
その笑い方は、やわらかかった。
嬉しい、というより、どこかで長く待っていたものがようやく訪れたみたいな顔だった。
カーテン越しの陽射しは淡く、床に落ちた四角い明かりだけが、そこにまだ昼が残っていることを知らせている。
彼女はブランケットを持ってきて、ソファに座る私の隣へ腰を下ろした。
二人で使うには少し小さいブランケットで、しかし彼女は何も言わず、その小ささを当然みたいに二人の膝へ広げた。布の端が私の腿から落ちかけると、彼女の指がさりげなくなぞるようにして直す。
「……狭くない?」
「とても狭いですね」
「…もう一枚持ってこようか?」
「いいえ?」
即答だった。
「このままがいいです」
そう言って、彼女は肩を寄せてきた。
その重みがあまりに自然だったので、私は少しだけ笑ってしまった。彼女はそれに気づいて、こちらを見上げる。何か言いたげに眉を寄せて、それでも結局何も言わず、私の肩へこつんと額を預けてきた。
そして、映画が始まる。
部屋の照明を落とすと、画面の光だけが彼女の横顔を青白く撫でた。睫毛の影が頬に落ちて、瞬きのたびに小さく揺れる。
何度も彼女のほうを見てしまった。
彼女は真面目な顔で画面を見ていた。けれど、ときどき私の反応を窺うように、ほんの少しだけ視線を寄越す。そのたびに目が合うと、彼女は何も悪いことなどしていないのに、急いで画面へ視線を戻した。
「……ねぇ、いま、私のこと見てた?」
「見ていました」
「……目を逸らす癖にその即答具合はなんなの…?」
困惑するようにそう言うと、彼女は小さく笑った。
その笑い声が、映画の音にまぎれて、すぐに部屋へ溶けていく。けれど私は、それが消える前に拾いたくなって、彼女の手へ自分の指を滑り込ませた。
彼女は少し驚いたように指先を震わせ、それから何も言わず握り返してくれた。
画面の中では、知らない誰かが知らない街を、物語を、冒険を歩いている。
その人たちは、いつだって前へ進んでいた。
出会いがあり、別れがあり、昨日の失敗が今日の選択を変えて、今日の言葉が明日の誰かを救うのだ。
傷ついたことも、笑ったことも、何もかもがその人たちの中に積もっていって、やがてそれらは物語の輪郭になる。
それが、少しだけ、
…とても羨ましかった。
きっと、羨ましい、なんて思う相手ではないのだろう。画面の向こうにいる、誰かが作った架空の人たちだ。彼らに嫉妬するなんて、我ながら少し滑稽だと思う。
けれど、彼らには続きがあるんだ。
今日見た景色を、明日の彼らは覚えている。
今交わした約束を、次の場面の彼らは失くさない。
誰かを好きになったことも、誰かに手を伸ばされたことも、きっと物語の奥へ沈んでいって、それらは完全な空白には決して戻らない。
たまらなく羨ましかった。
この映画を見終わったあと、彼女と感想を言い合って、数日後にふと思い出して、あの場面よかったよね、なんて言えたのなら。
彼女が泣きそうになった横顔を覚えていて、次に似た映画を見つけたとき、これ好きそうじゃない?、と言えたのなら。
今日のことが、明日の私の中でちゃんと昨日になって、彼女との時間が、少しずつ私の奥に積もっていくのなら。
画面の中の誰かが、旅の途中で振り返って、そしてその視線の先にある過去が、きちんとその人のものとして残っていることが、どうしようもなく眩しかった。
私は彼女と繋いだ手に、ほんの少しだけ力を込めた。
羨ましいと思ったことを、知られたくなかった。
こんなふうに隣にいてくれる彼女の前で、まだ持っていないものを数えてしまう自分が、ひどく薄情な気がしたから。
それでも、胸の奥に沈んだ嫉妬は消えなくて、
誤魔化すように、彼女が用意してくれたポップコーンをひょいと食べた。市販の袋を開けただけのものだったけれど、彼女はそれを小さな器に移していて、それはわざわざ二人の間に置かれていた。
ひとつ摘まんで、口に入れる。
「……しょっぱい」
そう言うと、彼女もひとつ摘まむ。
けれどその直後、少しだけ眉を寄せた。
「……しょっぱいですね」
「……ね、ちょっと塩が強すぎだよね」
私が笑うと、彼女も笑った。
それだけのことだった。
ポップコーンが思ったよりもしょっぱかった。
二人で笑った。
それだけ。
それだけなのに、その瞬間の幸福は、なぜだか少し触れ方を間違えれば壊れてしまいそうなくらいに儚くて、でも絶対に壊したくなくて、私はしばらく何も言えなかった。
映画の終盤では、彼女がほんの少しだけ涙目になっていた。
本人は隠しているつもりだったと思う。画面を見たまま、指先で目元を軽く拭うだけだったから。
ただ、繋いでいた手に少しだけ力を込めた。彼女も、同じくらいの強さで握り返してくる。
映画の内容が悲しかったのかもしれない。
綺麗だったのかもしれない。
彼女の中の何かに触れたのかもしれない。
聞けば答えてくれたと思う。
でも、そのときの私は、理由を聞くより先に、ただ隣にいたかった。
画面が暗転し、エンドロールが流れ始める。
知らない名前たちが、夜空を流れる星みたいに下から上へと昇っていく。物語に関わった人たちの名前。私たちの今日には本当なら何の関係もないはずの名前。
普段は何気なく見ながら感想でも言い合う退屈の代名詞のようなそれが、妙に綺麗だった。
彼女は肩を寄せたまま、最後まで画面を見ていて、そして私はその横顔を見ていた。
「面白かったね」
そう言うと、彼女はゆっくりこちらを向いた。
「はい」
「また観たい?」
彼女は少しだけ目を細める。
「……はい。君となら、何度だって」
その言い方があまりに優しくて、重くて、
それで私は、なんだか照れくさくなってしまったから、さりげなく顔を逸らしながら言った。
「…じゃあ、また観よう」
「はい」
彼女は、ゆっくりと確かめるように、そう答えた。
日付も、時間も、次が本当にあるかどうかも曖昧な、ひどく頼りない約束。
でも、その頼りなさごと、私は大切にしたいと、そう思う。
夜、彼女がお風呂に入っているあいだ、私はノートを開いた。
今日のことを書かなければいけない。
明日の私へ、できるだけ丁寧に渡さなければいけない。
そう思ってペンを握ったのに、いざ書こうとすると、何を書けばいいのか分からなくなった。
映画のあらすじ。
登場人物の名前。
結末。
彼女が泣いた場面。
私が笑った場面。
しょっぱすぎたポップコーン。
ブランケットの狭さ。
繋いだ手の温度。
書こうと思えば、いくらでも書ける。
けれど、それはなんだか違う気がしたんだ。
映画の内容を細かく書き連ねて、明日の私に伝えることもできる。
でもそれは、今日の幸福を説明することとは少し違って。
きっと大事だったのは、物語の内容ではなかった。
彼女が隣にいたこと。
同じ画面を見て、同じ音を聞いて、同じタイミングではないにせよ笑ったこと。
彼女が泣いたとき、私は何も聞かずに手を握ったこと。
そしてそれを、彼女が握り返してくれたこと。
たぶん、今日の私はそれを残したいのだと思う。
私はしばらくペン先を宙で迷わせて、
…そしてノートに一行だけ書いた。
『今日、ふたりで映画を観た。幸せだった。』
それだけでは足りない気もした。
でも、それ以上を書く必要はない気もした。
だから私は、少しだけ考えて、もう一行だけ足した。
『また観たい。また、ふたりで。』
それからノートを閉じた。
浴室の向こうから、水音が聞こえる。
部屋にはまだ、しょっぱいポップコーンの匂いと、いつも通りの冷めた紅茶の香りが残っていた。
私はソファに背を預けて、さっきまで彼女が座っていた場所へ手を置く。
まだ、温かかった。
──────
君は、今日が初めてだと思っている。
「前から気になってたんだよね」と言って、少しだけ得意げに笑う。まるで、やっといい提案を思いついたみたいな顔で。
わたしはそのたびに、胸の奥がズキりと痛むのだ。
この映画を、君と観るのは、全く初めてではない。
二回目でも、三回目でもない。
数えるのをやめようとした。
数えても意味なんてないと思おうとした。
それでも、どうしても数えてしまう。
今日で、九十七回目だった。
九十七回、君は同じ映画を「初めて観る」顔で再生した。
九十七回、君は同じ場面で少し笑った。
九十七回、わたしが泣きそうなことに気づいてくれた。
九十七回、理由を聞かずに手を握ってくれた。
そして九十七回、また観ようと、そう言ってくれた。
君は、何一つ覚えていない。
君がこの映画を好いたこと。
君が同じ台詞で笑ったこと。
君がエンドロールの途中で「また観よう」と言ったこと。
君が、この映画を見て、ノートに同じような一行を残したことも。
君は覚えていない。
けれど、君はいつも、ちゃんと同じ場所へ、
必ず同じ場所へ辿り着く。
それがわたしには、少し怖く、
同時に、どうしようもない救いでも呪いでもある。
記憶がなくても、君の心には何かが残っているのだろうか。残っていてはくれないだろうか。
笑う場所。
泣きそうになる場所。
わたしの顔を見る場所。
わたしの手を握る場所。
細い糸みたいなものが、君の奥にまだ残っていて、
何度夜に切られても、その数本は、
きっと、残っているのだろうか。
…残ってくれはしないだろうか?
君は今日も、映画が終わったあとに言った。
「また観よう」
まるで初めて交わす約束みたいに。
わたしは少しだけ泣きそうになって、それでもいつも通り笑って答えた。
「はい」
と、何度も何度も。同じ声で。
…正直に言えば。
こんなことなら、わたしも忘れてしまえたらいいのに、と思うことがある。
君と同じように、わたしも何も知らない顔で朝を迎えられたなら。
この映画を本当に何十回も、ふたりで初めて観ることができたなら。
君がどこで笑うかも、どこでわたしの手を握るかも知らないまま、ただ隣で同じ物語に驚けたなら。
数えなくていい。
君が「また観よう」と言うたびに、それが前にも何度も聞いた約束なのだと、胸の奥で受け止めなくていい。
わたしだけが覚えていることは、どんなに取り繕っても、ひたすらに寂しい。
君が忘れた幸福を、わたしだけが覚えている。
君が忘れた約束を、わたしだけが覚えている。
君が忘れた優しさを、わたしだけが何度も何度も抱えている。
だから、いっそ全部一緒に失くしてしまえたらと、そんな酷いことを考える夜がある。
…それを酷いことと形容する時点で、わたしの中で答えは決まっているのだろう。
君が忘れてしまうからこそ、誰かが覚えていなければいけない。
君が今日を明日へ持っていけないからこそ、わたしだけは、君が確かに今日を生きていたことを覚えていなければいけない。
それをわたしまで忘れてしまったら、君が必死に紙へ残した幸福の行き先がなくなってしまう。
忘れられたら楽だなんて、本当だ。仰る通りで、全くもって否定のしようがない。
けれど、…わたしは君のことを、
何一つとして忘れたくないんだ。絶対に。
苦しくても、寂しくても、置いていかれるみたいでも。
君が失ってしまう一日を、君の歴史を、わたしだけは失いたくない。
君が何度でも初めての顔でこの映画を見るなら、
わたしは何度でも、初めての君を隣で覚えていたい。
それが少しだけ呪いに似ていたとしても。
君が風呂に入ったあと、わたしはノートを開いた。
今日の君の字がある。
『今日、ふたりで映画を観た。幸せだった。
また観たい。また、ふたりで。』
それだけ。
本当に、それだけだった。
あらすじも、結末も、登場人物の名前も、何も書いていない。
涙を堪えながら、すぐに、君の考えがわかる。
君は映画を覚えたかったのではなくて、
わたしといた時間を、どうにか明日の君へ渡したかったのだ。
その不器用さを抱きしめるように、わたしはノートの上へ指を置いた。
紙は冷たい。
けれど、そこに残った文字だけが、錯覚のようにまだ少しだけ温かい気がした。
九十七回目の初めて。
九十七回目の、また観たい。
数日、あるいは数週間後の君は、きっとまたこの映画を知らない顔で見るのでしょう。
前から気になっていたんだと言って、少し得意げに笑うのでしょう。
そしてわたしは、また知らないふりをして、隣に座るのでしょう。
けれど、それでいいんです。
だって、君は何度でも楽しそうに笑ってくれる。
何度でも優しくわたしの手を握ってくれる。
だからわたしも、何度でも、
同じ映画の再生ボタンを心底楽しみそうに、
何度だって押せるんだ。
たとえ結末を覚えていても。
君がどこで笑うかを知っていても。
それでも、君となら、何度だって。