彼女が無限ループを諦めない理由   作:( 눈_눈)

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私たちが無限ループを諦めない理由

 

 

目を覚ました私は、まず自分の部屋に違和感を覚えた。

 

自分の部屋であることは勿論分かる。

天井の白さも、カーテンの色も、ベッド脇に置かれた小さな棚も、ちゃんといつも通りで、ちゃんと知っている。

知らない場所ではない。知らない生活ではない。

 

けれど、枕元に置かれたノートだけが、明らかに異質で、明らかに記憶にない存在だった。

 

黒い表紙。角の少し丸まった、厚めのノート。

その表面に、見慣れた字で付箋が貼られている。

 

私の字だった。

 

『たぶんびっくりするだろうから、まずは深呼吸をしてほしい。

そのあと、このノートを最初の三ページだけ読んでほしい。

まずは三ページでいい。』

 

寝起きの頭でその文を読んで、しばらく意味が分からなかった。

 

自分の字であることは分かる。

だけど、書いた覚えがない。全くもって。

 

その時点で、もう嫌な予感はあった。

胃のあたりがゆっくり冷えていく。胸が詰まる。手のひらだけが変に熱い。

 

水を飲んだ。

 

別に喉が渇いていたわけではない。

自分に命令されるのは妙な気分だった。しかも、書いた覚えのない自分から。

 

ノートを開く。

 

一ページ目には、やはり私の字で、ただ一文だけが書かれていた。

 

『君は前方性健忘症です。』

 

そこで一度、呼吸が止まった。

 

前方性健忘症。

 

文字の意味は分かる。

知識としては知っている。

事故や病気のあと、新しい記憶を長く定着させられなくなる症状。

昔のことは覚えていても、今日を明日へ持っていけない病気。

 

そんな、どこか遠い世界の言葉。

 

それが、あまりに当然のように、自分へ向けて書かれていた。

 

「……は」

 

声が漏れた。

笑うには喉が狭すぎた。

 

焦るように、私は二ページ目を開く。

 

『落ち着いて。無理だと思うけど。

でもここでノートを閉じると、余計に怖くなるでしょ?

結論から言うと、君は事故の後、とある日から先の記憶を定着できなくなった。

けれど昔のことは、君からすれば昨日までのことは、色んなことを覚えてるよね。』

 

そこまで読んだところで、視界が歪んだ。

 

ひどく生々しかった。

 

私は同棲相手について何もかも覚えている。

好きなものも、笑い方も、紅茶を淹れるときの癖も、少し得意げに人を甘やかしてくるところも。

 

忘れていない。

 

なのに、昨日を、随分昔までを忘れているらしい。

 

昨日の私が彼女と何を話したのか。

何を食べたのか。

泣いたのか、笑ったのか、眠る前に何を考えたのか。

 

何も分からない、ということ。

 

分からないのに、昨日の私だけが、こちらを見ている。

紙の向こうから、逃げるな、と言っている。

 

三ページ目には、少し乱れた字でこうあった。

 

『机の引き出しの青いファイルを出して、続きを書くこと。

ただし彼女にはまだ内緒。サプライズなので。』

 

最後の雑さに、私は少しだけ笑ってしまった。

笑ったあと、急に涙が落ちた。

 

怖かった。

怖くて、腹が立って、信じたくなくて、何もかも投げ出したくて。

 

それでも、昨日の私の字があまりに必死だった。

震えて、乱れて、ところどころ筆圧が深くて、紙の裏側まで跡が残っている。

 

そのくせ、「彼女にはまだ内緒」なんて書いている。

 

こんな状況で、サプライズをしようとしている。

馬鹿じゃないのかと思った。

きっと昨日の私も、同じことを思ったのだろうけれど。

 

青いファイルの中には、原稿が入っていた。

最初の一枚には、仮題が書かれている。

 

その下に、私の字で小さくメモがあった。

 

『これは病気の説明じゃない。

彼女が何度でも私の朝にいてくれる理由の話で、お返しになる証明の話』

 

私はその一文を読んで、しばらく動けなかった。

 

ファイルには、これまでのお話が順に入っていた。

彼女から病気を告げられ、絶望した日のこと。

彼女が問いを組み立て、私を答えへ導いた日のこと。

二人で映画を観た日のこと。

 

私は、自分で書いたはずのその小説を、初めて読むみたいに読んだ。

 

いや、実際に初めてになるのだろう。

今日の私にとっては。

 

そこにいる私は、紛れもなく私だった。

醜くて、怖がりで、どうしようもなく彼女を愛していて。

 

そして小説のなかの彼女は、私の知っている彼女より、少しだけ痛々しかった。

いつも穏やかで、余裕があって、私の手を取ってくれる彼女に、こんなに怯えた顔があったのだと、私は紙越しに知った。

 

彼女視点の章には、ところどころ注釈みたいなメモが挟まっていた。

 

『彼女の日記を参考にしている。

日記は本人に見せてもらった。

どうせ忘れるから、と見せてくれたっぽい』

 

「……日記…?」

 

そう呟いた声は、少しだけ震えていた。

 

彼女の日記。

 

彼女も書いていたらしい。

私がノートを書くようになってから、いつの間にか、彼女も。

見せても次の日には忘れるから、恥ずかしがることはないとでも思ったのかもしれない。

 

実際、私は忘れている。

けれど、忘れる私がいるなら、書き残す私もいるようで、

その私が、彼女の日記を読み、彼女の震えを拾い、少しだけ解釈を添えて、物語の中へ縫い込んでいた。

 

忘却の穴を、別の日の私が少しずつ埋めている。

 

それは決して綺麗な作業ではなかった。

縫い目はきっと、ひどく歪んでいる。

ところどころ、昨日の私と一昨日の私で解釈が違うことだってあった。

同じ出来事について、「比喩によって彼女の恐怖を強調する」と書かれていた次のページに、「感じていたのは恐怖じゃなくて焦りなんじゃないか」と訂正が書いてあった。

 

一人で書いた小説ではない。

昨日の私、一昨日の私、その前の私。

そして、彼女が眠れない夜に残したらしい日記。

 

みんなで少しずつ、彼女への手紙を書いている。

 

私は今日も全てを忘れる。

それは明日も、明後日も変わらない。

眠れば今日の私はいつも通り死んで、いま指先にある紙の重さも、朝には知らないものになる。

 

だから何だ。

 

乱暴な気持ちだった。

泣いているようだった。

怒っているようだった。

 

それでも、私はそう思ったんだ。

 

一日で愛を証明できないなら、何週間でも使えばいい、つまりはそれだけの話だったのだ。

 

私は机に向かい、ペンを取る。

 

新しいページを開く。

そこに、これまでの私達に倣い、今日の日付を書いた。

 

それから、ゆっくりと続きを書き始めるんだ。

 

──────

 

サプライズの日を決めたのは、五日前の私で、今日の私は朝からずっと落ち着かなかった。

 

何度も原稿の束を確認し、表紙を撫でた。

ページの順番を確認して、リボンの結び目を直す。

 

表紙には、過去の私が書いたらしいタイトルがある。

 

その下に、小さく。

 

『これは、つまるところラブレターです。

そして、これからも私が生き足掻くための証明になる。』

 

その文字を見て、何度も喉が詰まった。

 

こんな大げさなものを渡して、彼女は困らないだろうか。

重すぎると思わないだろうか。

いや、重いのは今さらだ。

そもそも私たちは、何回もの自殺未遂と九十七回の映画を抱えている。

今さら軽さを装える関係ではないだろう。

 

…そんなことをぐるぐると考えながら、どこか上の空に料理を食べ切り、食後、彼女が皿を流しに運ぼうとしたところで、私はその手を軽く掴んだ。

 

彼女が振り向く。

 

「……?…どうしました?」

 

私は一度、息を吸った。

ノートの中の私たちが、背中を押してくる。

 

「ちょっと、座ってて」

 

「…はい?」

 

「いいから。今日は私が片づける。……いや、片づけはあとで一緒にやろう。…今は座ってて」

 

彼女は不思議そうにしながらも、言われた通り椅子へ戻った。

 

私は寝室へ行き、机の引き出しから原稿を取り出す。

両手で抱えると、思ったより重かった。

 

紙の重さ。

文字の重さ。

何日分もの私の、忘れたくなかったものの重さ。

 

リビングへ戻ると、彼女は椅子に座ったままこちらを見ていた。

私が持っている束に気づいて、少しだけ目を細める。

 

「それは?」

 

「……えっと」

 

声が震えた。

 

情けない。

でも仕方がない。

数週間かけて準備したらしいのに、今日の私は今朝この計画を知ったばかりなのだ。

大仕事に対して、私の心はいつだって当日参加だった。

 

私は彼女の前に立ち、そして原稿を差し出す。

 

「これ、君に渡したくて」

 

彼女はまだ受け取らない。

ただ、表紙のタイトルを読んでいる。

 

その目が、ほんのわずかに揺れた。

私はその揺れを見て、余計に逃げられなくなった。

 

「…所謂、ラブレターです」

 

言ってから、自分で少しだけ顔が熱くなる。

 

「…まぁ、もちろん普通のラブレターじゃない。長いし、重いし、君の日記を読ませてもらった上で、私が勝手に解釈して書いてる部分もある。だから間違ってるところもあると思う」

 

彼女は何も言わない。

私は原稿を持つ手に、少し力を込める。

 

「でも、これが今の私にできる、一番まともな証明だった」

 

喉が詰まる。

そして、それでも言う。伝える。

 

「私は明日も、このことを忘れる。

今日、君にこれを渡したことも、君がどんな顔をしたかも、たぶん覚えていられない」

 

彼女の唇が小さく震えた。

 

「でも、そのたびに、毎回同じところへ戻るはずなんだ」

 

私は表紙を見下ろす。

 

「…君が好きだってところへ」

 

言った瞬間、息が苦しくなった。

だけど、もう止まれなかった。

 

「この小説は、君が私を愛してくれている証明で、……そして同時に、私が君を愛している証明でもあるんだ」

 

彼女の目に、涙が溜まっていく。

 

私は少しだけ笑おうとした。

うまく笑えていたかは分からない。

 

「だから、受け取ってください」

 

原稿を、もう一度差し出す。

 

「君が何度でも私の朝にいてくれるなら、私も何度だって、……これからも生き足掻きつづけるよって…そう、伝えたいから」

 

彼女は、ゆっくりと手を伸ばした。

指先が、原稿の端に触れる。

 

その瞬間、なぜか私は、初めて彼女と手を繋いだ日のことを思い出した。

 

どちらが先に手を伸ばしたのか分からないまま、気づけば繋がっている、ふたりの手。

 

私たちは、ずっとそうだった。

 

──────

 

わたしは最初、何も言えなかった。

 

目の前に差し出された紙の束が、ただの原稿ではないことは、すぐに分かった。

 

表紙のタイトルを見た瞬間、息が止まった。

 

『彼女が無限ループを諦めない理由』

 

その無限ループという言葉を、わたしはよく知っている。

 

いつか君が、初めて自分で答えへ辿り着いた日のことを思い出す。

公園の冷たいベンチ。

冬の空。

震える手。

君が自分の病名を認めた瞬間の、あまりに白い顔。

そして、わたしがようやく言えた言葉。

 

『君を、ずっと愛しているからです。』

 

受け取る前から泣きそうだった。

 

君の声は震えていた。

今日の君にとって、この計画は今朝知ったばかりのものなのだろう。

それなのに、君は。

 

何週間もかけて、昨日の君が、一昨日の君が、その前の君が、少しずつ書いたものを抱えて、今ここに立っている。

 

その事実だけで、胸が潰れそうだった。

 

原稿を受け取る。

 

重かった。

思っていたより、ずっと。

 

紙の束としての重さではない。

君が失ってきた日々の重さだ。

朝ごとに怯え、ノートを読み、泣きながら、それでも机に向かった君たちの重さ。

 

わたしは表紙を撫でる

涙が、そこで一粒落ちた。

止められなかった。

 

「……ずるい、です」

 

やっと出た声は、自分でも驚くほど掠れている。

君が困ったように眉を下げる。

 

「……ごめん」

 

「謝らないでください」

 

わたしは首を横に振った。

君は少しだけ不安そうな顔をする。

 

わたしは原稿を胸に抱いた。

紙の角が少し当たる。

硬くて、冷たい。

けれど、その向こうに、確かに君の熱がある気がした。

 

「……ずっと思っていました」

 

君が黙ってこちらを見る。

 

「君の今日を、わたしだけが覚えているんだって。

…君が忘れてしまうぶん、わたしが覚えていなきゃって。

…それは嫌じゃありませんでした。

もちろん、嫌じゃないです。今でも」

 

喉が詰まる。

 

「………………でも、…寂しかった」

 

ようやく吐き出した言葉は、あまりにも小さかった。

 

「全部全部、大事にしたいのに、

……わたしだけが覚えていることが、たまらなく寂しくて」

 

君は何も言わなかった。

ただ、こちらへ一歩近づく。

わたしは原稿を抱いたまま、泣きながら笑った。

 

「…でも、違ったんですね」

 

表紙を見下ろす。

 

「…君も、ずっと戦っていたんですね

……戦って、……くれていたんですね……」

 

忘れてしまうのに。

毎朝、最初からやり直しになるのに。

そのたびに怖がり、そのたびに傷つき、そのたびに昨日の自分に引っ張られながら。

 

君は、ずっと戦っていた。

 

わたしだけが覚えていたわけじゃない。

君も、覚えられないまま、それでも何かを残そうとしていた。

 

記憶ではなく、執念で。

たったそれだけを使って。

 

そして、ちゃんと。

君は、再びわたしを愛してくれた。

もう一度、わたしを選んでくれた。

 

「……読んでもいいですか」

 

そう聞くと、君は少しだけ目を丸くした。

 

「…今?」

 

「今です」

 

わたしがそう言うと、君は少しだけ笑った。

その笑顔を見て、胸の奥がまた痛くなる。

 

わたしは椅子に座り、表紙を開いた。

 

一ページ目。

君の字。

 

『彼女がそれを打ち明けたのは、朝食の皿を流しに運んだあとだった。

 

食後、なんとなくソファに身を預けた私の両頬に彼女は両手を添えて、そのままするりと頭を自分の膝へ導いた。』

 

たった100文字未満の書き出しで、あの日の朝が瞬くように鮮明に戻ってくる。

 

そこには、君から見たわたしがいた。

わたしよりずっと強く、わたしよりずっと優しく、少しだけ綺麗に書かれすぎたわたしがいた。

 

そして、ときどき、わたし視点の章がある。

わたしの日記をもとにしたらしい章。

 

自分の書いた短い記録が、君の言葉で膨らみ、形を与えられている。

あのときの水音。

冷たい書類の束。

九十七回目の映画。

 

わたしが誰にも見せないつもりで抱えていたものまで、君は拾おうとしてくれていた。

 

完全ではない。

ところどころ違う。

そんなに綺麗じゃなかった、と言いたくなるところもある。

わたしはもっと取り乱していたし、もっとずるかったし、もっと醜いことも考えていた。

 

でも、それでよかった。

 

これは記録ではなく、君が、わたしを知ろうとしてくれた跡なのだから。

 

わたしは原稿を抱きしめたまま、涙を誤魔化すように君の肩へ額を預ける。

 

君の手が、そっとわたしの背へ回った。

 

わたしが君を愛している、それだけの話で、

君がわたしを愛そうと足掻いた証明で、

忘却に抗うための、少し不格好で、どうしようもなく重いラブレター。

 

君が忘れる今日を、わたしだけに背負わせないために。たった、それだけのために。

 

何度死ぬように眠っても、何度でもわたしへの愛と執念だけで、わたしの傍に戻るために。

 

君はこのお話を書いた。

書いてくれた。

 

わたしは原稿を抱いたまま顔を上げた。

泣いているせいで視界が滲んで、君の表情が少しぼやけている。

 

原稿のいちばん後ろには、数枚の白紙が残されていた。

何も書かれていない、まっさらな紙。

 

君はいつも、完全な覚悟でここにいるわけじゃない。

毎朝、突然崖の前へ立たされて、

そのたびに怖がって、戸惑って、泣きそうになりながら、それでも昨日までの自分を信じて一歩を踏み出している。

 

「…………すこしだけ、書いてもいいですか…?」

 

「……うん」

 

「今日のことを。最後に」

 

わたしは少しだけ息を整えた。

 

「わたしも、書きたいんです」

 

そう言うと、君の表情がゆっくり崩れた。

泣きそうで、嬉しそうで、困ったような顔だった。

 

「……そっか」

 

「はい」

 

「……じゃあ、一緒に書こう」

 

君は机からペンを二本持ってきた。

一本をわたしへ渡す。

 

ペン先が紙へ触れる。

ほんの少し迷ったあと、君はゆっくりと書き始めた。

 

『目を覚ました私は、まず自分の部屋に違和感を覚えた。

 

自分の部屋であることは勿論分かる。

天井の白さも、カーテンの色も、ベッド脇に置かれた小さな棚も、ちゃんといつも通りで、ちゃんと知っている。

知らない場所ではない。知らない生活ではない。』

 

沢山の絶望と、勇気と、そしていざ渡す時に、君がどんなことを思い、そして考えていたのかを少しずつ書き連ねていき、わたしも、渡された時のことを、

 

そして、まさにここまでを必死に書いてきた。

 

君に倣って書くのなら、これは大袈裟な創作ではなく、

…今日までの君とわたしが描き連ねる抵抗の証。

 

そして、紛れもないふたりの愛情の証だ。

 

君となら、何をしたって、きっと幸せだ。

ふたりで出かけてもいい。家でのんびりしてもいい。

 

君が何度忘れ、何度死のうとも、

ふたりで生きよう。きっと、ふたりで。

 

そこには難しい理屈は必要なく、高潔な信念だって、あっても無くても、答えはきっと変わらない。

 

なぜなら、わたしがそう思えるのは、

とても単純に、ただひたすらに、

 

 

…君のことが、大好きだから。

 

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