降りしきる雨は、世界から色を奪い去る。
アスファルトに跳ねる水音だけが、耳障りなノイズとして鼓膜を叩く。
「俺は何がしたかったんだ…?」
四十二歳。独身。無職。かつて抱いていたはずの僅かな希望は、長すぎる停滞の中でとうに腐り果てた。社会という巨大な歯車から零れ落ちた自分に残されたのは、この身を焦がすような願望だけだ。
「……死ぬ前にさ。一回くらい、誰かに愛されるような、可愛い女の子になってみたかったな」
その言葉が、路地の暗がりに溶ける。
手の中には、先ほど「売人」を名乗る男から譲り受けた銀色の錠剤があった。刻印も名前もない。だが、男は言った。「人生を二十四時間だけ上書きし、あなただけの異能を引き出す」と。
まともな人間なら、違法薬物か何かの勧誘だと疑うだろう。
…ただ、僕はそれを受け取った。こんな世界に、希望はないから。
僕は震える指でその銀色を口に放り込み、一気に飲み下した。
刹那、胃の奥から得体の知れない熱気がせり上がってくる。血流が沸騰し、脳の奥底で眠っていた「願望」が形を得ようと暴れ出した。
(ああ……なんてことだ。僕の体が、僕の意志に、従おうとしている)
何かのスイッチがカチリと押されたような気がした。僕の「異能」が手に取るように把握できる。
【
それは、肉体という不変の概念を、思うがままに改変する非日常。
「――変われ」
意志を込めた瞬間、僕の「形」が劇的な崩壊を開始した。
ブヨブヨと締まりのなかった腹の肉は、信じられない速度で収縮し、しなやかな曲線へと再構成される。加齢で濁っていた瞳は水晶体から改変され、磨き上げられた宝石のような輝きを放つ。骨を削り、皮を張り、内臓すらも置き換えられる。
数分後。路地裏に立っていたのは、金髪碧眼、一人の美少女だった。
「……あはっ! すごい、本当にできるなんて…!」
漏れた声は、美しく澄んだ旋律となって夜に響いた。
自分の中に、底抜けに明るい太陽が昇ったような、圧倒的な万能感。
彼女は、軽やかな足取りで雨の街へと駆け出した。
駅前の喧騒を抜けた暗がりで、その怒声は響いていた。
数人の男たちが、白杖を手に立ち尽くす老人を取り囲んでいる。近頃問題になっているジジイ狩りだろうか。かつての自分なら、震えながら足早に通り過ぎていただろうその光景。
「そこまでだ。その手を離せ。」
凛とした声に、男たちが振り返る。
一人が、鼻で笑いながら彼女の肩に手を伸ばした。その瞬間、彼女は己の異能を解放した。
彼女の指先が、不自然に
自身の体を再構成し、鞭のような形状へ変化させる。それは、まともな神経を持つ人間が見れば、悲鳴を上げて逃げ出すようなおぞましい「理外の化け物」の姿だった。
指の鞭は男たちの正気を削り取る。男たちは指の鞭が自身に辿り着く前に、目の前の少女が隠し持っていた異能に腰を抜かし、一目散に逃げ去っていった。
指が元に戻り、人の姿を取り戻す。
彼女はふと、恐怖した。もし、助けたこの老人に今の姿が見えていたら。きっと彼は、感謝するどころか、自分を拒絶しただろう。
「……大丈夫、ですか?」
恐る恐る、老人の手を取る。老人は、閉じられた瞼をかすかに震わせ、彼女の手を握り返した。
「……ああ、ありがとう。顔も知らぬ人。あなたは、なんて……なんて温かくて、強い人なんだ」
その瞬間、彼女は息を呑んだ。
老人の瞳には、彼女の黄金の髪も、狂気の変貌も、何も映っていない。彼が感じているのは、ただ自分を救ってくれた手の温もりだけだった。
「君のような優しい人がいてくれるなら……この世界も、まだ捨てたもんじゃないね。……ありがとう」
四十二年間、誰にも必要とされなかった法華津 希が、初めて心から「肯定」された瞬間だった。
それからの彼女は、まるで何かに取り憑かれたように街を歩いた。
次に遭遇したのは、大型犬に追い詰められ、泣き叫んでいた迷子の子供だった。
彼女は躊躇なく駆け寄り、自身の腕の筋肉を瞬時に増幅させ、壁となって犬の突進を受け止めた。驚いた飼い主が駆けつけ、子供が親の元へ帰るまでその手を離さなかった。「お姉ちゃん、魔法使いなの?」と笑う子供の純粋な瞳が、彼女の胸の奥に残っていた最後の「汚れ」を消し去っていく。
商店街の入り口では、強風で崩れかけたアーケードの看板を、自身の皮膚を硬質化させた盾で支え続けた。駆けつけた店主たちが「あんたがいなきゃ死ぬところだった、ありがとう」と口々に叫ぶ。
公園では、木の上から降りられなくなった猫のために、足の骨構造を組み替えて跳躍力を爆発させた。
踏切で立ち往生した車を、背中の筋肉を鋼のように硬めて押し出した。
暗い夜道で、不審者に怯える少女の横を、ただ寄り添って歩いた。
その度に感謝され、その度に「私」という存在が世界に刻まれていく。
最初は震えていた足取りが、いつしか軽やかになっていた。異能を使い、他人を救うことが、食事や呼吸と同じくらい自然なことに変わっていく。
そして最後の一人。
道端でうなだれる若者に、彼女はただ、太陽のような笑顔で一言かけた。
「きっと、明日は晴れるよ」。
それだけで、若者の顔に生気が戻るのを彼女は見届けた。
深夜。自室の鏡の前に、彼女は立っていた。
二十四時間が経過し、体内を駆け巡っていた異能による万能感は、静かに消えていく。
腕を伸ばし、肉体を変形させようとしても、もう何も起きない。
だが、彼女は、微笑んでいた。
能力は消えても、黄金の髪と宝石のような瞳はそのままだった。
売人が言っていた。「人生を上書きする」という言葉の意味を、彼女は今、魂で理解した。
彼女は、細い指で自分の頬に触れた。温かい。生きている。
もう、あの雨の路地裏に戻ることはないだろう。もう、絶望を感じることも。
「……明日、何を着て出かけようかな」
彼女は、小さく呟いた。
窓の外では、いつの間にか雨が上がり、雲の切れ間から月が顔を覗かせていた。
それは、これから始まる新しい人生を祝福しているのか、静かな、それでいて存在感のある光だった。
性癖。
【異形編身】
詳細
・概念としての肉体を無制限に書き換える。
・能力使用者から切り離された肉体も対象として改変できる。
・あらゆる生物を対象に改変できる。
・肉が半分以上残っていれば死体も改変することができる。
・死んだ状態から生き返らせることはできない。、