[悲報]虎杖成り代わり、縄文時代に立つ[言葉が分からん]   作:夕暮れの家

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正直最初の彩葉の状態ってコミカルに描かれてるだけで滅茶苦茶まずいと思うんですよね。


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 先ほどまで乗っていた車が走り去った後も、その場に立ったまま街灯に照らされてぼんやりと光る我が家の入っているアパートを見上げていた。タクシーに乗ったのなんて何時ぶりだろうか。

 

 厳格な母は、ほとんどの事は自分でこなすことができるのでタクシーを利用した記憶などほとんどない。父が元気だったころに家族で行った旅行の時ぐらいだろうか。こちらに来てからは、お金を気にして使えるはずもなく。特有の車内の匂いだったり、少しずつ増えていくメーターの数字は私の目に新鮮に映った。

 

 随分と遅い時間。深夜故の静寂が辺りを包んでいる。住宅街であるこの辺りは、このくらいの時間になると車もほとんど通らない。壁が薄い家に住んでいる自覚はあるので、車通りが多くないのはありがたいことだ。いつもならこんな時間になったのならふらつく足に鞭打ちながら自室につながる外階段を鳴らしながら登っていたが、今日は一日の疲労を感じさせないほどに嫌に体は軽い。

 

「…なんだろ」

 

 かん、と一歩踏み出して、身体を持ち上げる両足の動きの滑らかさに首を傾げた。確か帰ろうと駅にたどり着いた辺りでは、外なのにも関わらず瞼が落ちてしまいそうなほどに疲労がたまっていたのではなかったか。先ほどまでは自分の身体の状態に気を回せるほどの余裕が無くて気が付いていなかったけど、今日の分だけではなく、今までの無理無茶が祟って体の奥底に泥のように積もっていた疲労がきれいさっぱり消えているような気さえした。

 

 それに、と確かめるように右肩を回す。絶対に暫くは動かせないくらいに痛めていたはずなのに、今はなんの痛みもない。もしかしたら病院にかからなければならないかもしれない。それに必要な費用を考えるだけで眩暈がするくらいだったのに、夢だったのではないかと思えるほど滑らかに私の右肩は平時のそれと同じ動きを見せている。

 

 一つ一つ、全ての事が不思議だけれど私にとってはありがたいことで。考えすぎても良くない、起こったことは起こったことだと割り切って自室のドアを開けて。入ってすぐの玄関で頭を抱えて座り込んだ。

 

「何をやっているんだ私は…」

 

 今日初めて会った男の人の前で急に倒れて、夜ご飯までご馳走になって。あまつさえ食べながら泣き出すなんて。あまりに迷惑をかけてしまった申し訳なさと羞恥が頭の中をぐるぐると回っている。

 

 頭を抱えてのたうち回りたくなるのをこらえて、靴を脱いで。布団を敷くこともせずに床に倒れこんだ。こんな深夜に転がりまわってはご近所さんへ迷惑がかかる。その代わりに両手で顔を覆った。限界まで声量を絞ったうめき声とも取れない自分の声が喉から響く。なんだ、あれは。私は何をやっているんだ。

 

「ぬ゛あぁ…」

 

 手の届くところにあった枕に顔を埋めて、羞恥で赤くなる頬をごまかすようにうつぶせに倒れた。それで何が起こるわけでもなく、外の道路を車が1台通り過ぎていく音が静かな部屋に響く。誰かに弱みを見せることなんて、自分は難しいと思っていたのに。

 

 

 ー泣くな、泣くんは楽をしてるだけや

 

 どこからか聞こえてきた母の言葉に、色々なことが重なって茹っていた脳が氷が差し込まれたように冷えていく。泣いては駄目だ。泣いては、駄目だったのに。限界で、辛くて。死んでしまいたくなっても、泣くことだけは最後の砦として残していたのに。なんで、あそこではあんなに簡単に泣くことができたんだろう。

 

 楽、私は泣くことで何かから逃げたのだろうか。楽な道を選んでしまったのだろうか。母の前であんな姿を見せてしまったら、それこそ食事を取り上げられての数時間に及ぶ説教コースが確定していたものだが。でも、でも。お父さんが生きていた頃なら、どうだっただろうか。

 

「お父さん…」

 

 何故だか、彩葉は偉いなと頭を撫でてもらった遠い日の記憶が蘇る。その時の私は何をしていただろうか。思い出せないな。きっとなんでもないことで、良くある我が家の日常の景色だった。私が満足そうに頬を緩めるのを見て、母も微笑ましそうにこちらを見つめていた。何でもないことなのに、どうしてこんなに脳裏に焼き付いて離れないのだろう。

 

 無性にあの景色が恋しくなって、少し目頭が熱くなる。ここでは、一人だ。一人なんだから、誰も慰めてくれないし、誰も心配してくれない。泣いてどうするんだ。泣いたって、どうにもならない。歯を食いしばって零れそうになるそれを何とか押しとどめて。私は弱くないんだ、と譲れぬ思いを心の中に一本芯のように抱えて。

 

そないな顔して、誰か助けにきてくれるとでも思うとるん?ここは現実や、あんたの大好きな物語の世界ちゃう

 

「うるさいな…」

 

 誰かに頼ろうなんて思ってない。小さい頃に心躍らせたおとぎ話に出てくるような王子様がある日突然手を差し伸べてくれるなんて、思ってない。だから、こうして一人で生きてるんじゃないか。それの、何が不満なんだ。なんでいつまでたっても私の頭から離れてくれないんだ。一人で、あなたの言うように強く生きてるじゃないか。何が足りないの。私の何が。

 

 揺らいでいく。こちらに来て、私は上手くやれているはず。自分の力で学費を稼いで、生活費を稼いで。それでも学校の全ての授業をおろそかにすることなく、1番を取り続けることができている。それでも母からかけられる言葉の温度は家にいたころと何一つ変わらなくて。

 

 時折かけられてくる電話を取るたび、私の成績を確認して「ふぅん」と一言興味なさげに呟いて。そんなことよりもと私の声に滲む少しの疲労に目ざとく気が付いて「そろそろ帰りとうなってきた頃やない?」とチクリと刺してから会話を終わらせようとするその態度に、何回目かもわからないその台詞に、毎回馬鹿みたいに傷ついて。

 

 その度、私はどこかで期待していた私に気が付いて自分の事が嫌になる。あと何回、こんなことが繰り返される。いつになれば、私はあの人の中で子供ではなくなるのだろうか。どんどんと思考が悪い方悪い方へと傾いていく。これでは駄目だと思いながらも、こんな時に限って変に回りの良い脳は思考を止めなくて。

 

 私の足が動かなくなっていく。自由だと思って一歩踏み出して、次の一歩と思うとどこからか生えてきた蔦に絡めとられて踏み出せなくて。転びそうになって手をついて、低いところから見上げた先には、いつも母が辿ってきた足跡があった。

 

 ー無理は怠けもんの言い訳や。私は私の出来たことしかいうてへんよ

 

 あぁ、そうだ。母ならきっとこんな境遇でも、変わらず、曲がらず歩いて。母の歩いた道に後から正しさという名前が付けられる。母なら間違えない、母なら迷わない。母なら、私よりも、もっと先にいる。なら、私は。母のようになろう、母の満足する結果を見せてやろうと身の丈に合わない道のりを這いつくばりながら進んでいる私の道には、なんという名前がつくのだろうか。

 

 -彩葉は甘ちゃんやから

 

 うるさいな、と反抗する気力すら湧かなくて。幾度となく掛けられたそんな言葉に、今更頬を張られたような気持になった。父がいたころは、あの頃は。優しい娘だと褒めてもらったことが何度もあった。誇らしげに掲げて見せた賞状も、首に掛けた銀のメダルも、父に見せればその目が細められて、凄いな、偉いなと喜んでくれたのに。母も、それを見て笑っていたのに。ある時から、努力も、挫折も。そんな過程には意味はなくなった。

 

 -なにわろてはるの

 

 笑うな、結果の伴わない努力になんて意味はない。満足するな、何も成し遂げてないくせに。楽しむな、遊んでるだけなら全て無駄になってしまう。立たなければ、立たなければと震える足に鞭打って、拳で叩いて。進まなければと下げてしまいそうになる顔を無理やり持ち上げて。勢いよく振り下ろした足によって跳ねた泥が、私の視界を塞ぐ。

 

 両手で荒く顔を拭って、未だ万全とは言い切れない視界で前に進もうとして。ふと、私の両目が暖かいもので包まれた。

 

『頑張り屋だな、嬢ちゃん。えらいな』

 

 かけられた言葉が、何時かの日のように頭の上に乗せられた大きな手が。何一つ同じな筈がないのに、幼い頃の記憶と被って見えて。ほんの少し、笑える気がした。全然似てない。顔も、声も、仕草も。全部全部、似てないのに。目だけが、優しさをいっぱいに湛えた目だけが私の記憶とおんなじで。

 

「えらいな、ね」

 

 心がほんの少し軽くなったことで思うように動くようになった体を起こして鏡で自分の顔を見る。泣いて泣いて、絶対に赤くなっていると思っていた目元は存外そうはなってなくて。安堵のため息と共に、今日はもう寝てしまおうと決意した。元々は少し勉強しようと考えていたけど、随分と遅い時間になってしまった。それに、先ほどよりもずっと心が軽い今ならば寝ることができると思ったから。

 

 一人の時間は好きだ。静かな空間、私だけの部屋。ここなら誰も私の事を勝手な言葉で勝手な枠組みに押し込んだりしないから。でも、一人だと考えすぎてしまうから、悪い方に転がっていってしまうのも一瞬だ。幸い明日は休日だし、バイトもない。一日勉強に充てることができるし、気分も軽い。時刻はもう日付を超えてしまっている。タクシーを出してもらえなかったら、どんな時間に家に帰ることになってしまったのか考えるだけでも嫌になる。

 

 あんな褒められ方をしたのは何時以来だろうか。布団をかぶって横になってみても、今日の出来事が頭の中から離れなくて、何故か疲労を訴えてこない身体と脳は睡眠に入ろうとしない。いつもだったら布団に入ればすぐに意識は途切れて、気づけば朝日が部屋に差し込んできているのに、今日に限って。色々と考えすぎて、もう寝てしまいたい今日に限って。

 

 泣いて、弱音を吐いて、脈絡もなく怒って、また泣いて。腹の奥に溜まったものを思う存分吐き出して。疑いようもない自分の弱みを他人に晒してしまった。一度零れだしてしまったそれは、箍が外れたように後から後から自分でも気が付いていなかったところまで溢れてしまって。

 

『なんで、私ばっかり、こんな』

 

 口に出した自分が驚いてしまうほどに、その声は震えていた。あんな言葉、口に出すつもりなんてなかった。私は、別に自分の事を不幸だなんて思っていない。誰かに同情されたいなんて、思ってない。可哀そうだと思われることなんて、まっぴらごめんで。だってそうだろう、私は、私が望んでいることなんて最初から単純で。

 

 ただ、認めて欲しいだけ。

 

 その為にやるべきことだって目の前に具体的に見えていて。歩くべき道も母がその身をもって示してくれている。それ以上に、何を望むのか。何が欲しい、何が不満なんだ、私は。

 

 ため息をつく。やっぱりどうにも眠れそうにない。部屋の電気はつけないまま、カーテンを開けてみた。薄布が取り除かれて、既に見慣れた外の景色が私の目に映る。少し視線を上げると、元々薄いカーテン越しでもうっすらと見えるほどに明るく輝く満月が私の目を焼いた。

 

「綺麗」

 

 今夜は満月だったんだ、と今更ながらに気が付く。外を歩いて帰っていたはずなのに、全然気が付いていなかった。それに、最後にこうやって空を静かに見上げたのはいつのことだっただろう。外と中の空間を隔てるガラスに何とはなしに触れてみて、その予想外の冷たさに体が震える。そうだ、今は、冬だったな。外の空気は、刺すようなという表現がぴったりな程に冷えていた。

 

 最近の記憶を探っても、帰り道の記憶はいつも足元ないし暗闇に光るスマホの画面ばかりで。そこで初めて、自分がいつもいかに俯きながら歩いていたかという自覚を持った。少し見上げてみるだけで、こんなにも綺麗なものが空にあるのに。

 

「…明日」

 

 そうだ、明日。お礼を言いに行こう。助けてもらって、介抱してもらって。更にご飯までごちそうになった上に、帰りのタクシー代まで出してもらったのに、それでおしまいでは人としてあまりにも失礼が過ぎる。誠心誠意頭を下げてご迷惑をおかけしました、とありがとうございましたを言わなければ。

 

 何か、お礼の品も買っていった方が良いだろうか。常に寒風が吹きすさんでいるような私の財布にとっては打撃だけど、それでもこんな時にまで貧乏性を発揮していてはかけてしまった迷惑の大きさに対してあまりにも申し訳ない。

 

 何がいいだろうか、何なら、喜んでもらえるかな。年上の男の人の知人なんて、バイト先の店長くらいしかいない私には、全く予想がつかなくて。仕方なくスマホで調べようとも思ったけど、布団に入る前に電源を切ってしまったことを思い出してため息をついた。

 

 ふと、昔の事を思い出す。昔は食卓になくならないように何時も幾つか置かれていた、父の好物。父は、羊羹がとても好きだったな。

 

 よし、それにしようと一人で頷く。明日行きがけに買っていこう。幾らなら余裕があっただろうか。ありがとう、と言って微笑んでくれる様子が目に浮かんできてほんの少し救われたような気持ちになった。虎杖さん、だったっけ。名乗るのも最後になってしまって、最後の方まで私の呼びかたは“嬢ちゃん”だったな。今思い返してみると少しむず痒い。

 

 タクシーが来る直前になって、ようやく名乗った後からは酒寄ちゃん、だったな。それで、そうだ。私はうちで働かないか、と誘ってくれたあの人に何と返したのだったか。突然のことで、予想外だったので少し言葉に詰まってから、少し考えてもいいですか、と答えたのだった。

 

「駄菓子屋、かぁ」

 

 上げてもらった座敷から見えた店内は、古き良き駄菓子屋とでも言うべき光景で。整然と、とまでは言わないでもある程度整えられた店の光景は、どの棚も小さな子供が手に取りやすく他の店よりも低く置かれていて、店主の人柄が見える様だった。

 

 きっと、今バイトをしているカフェよりも忙しくない。きっと、静かな場所なんだろうな、とか。バイト中は、虎杖さんがずっといてくれるのかな、とか。少し考えてもいいですかと答えたにしては浮かんでくる考えは肯定寄りの物ばかりで。

 

 ー都合の良い話は毒や、一番くってかからなあかん

 

 記憶の中の母がこちらに人差し指を向けている。そうだ、母はいつも正しい。母が言ったことが間違っていたことなんてなくて。でも、私の事を助けてくれた虎杖さんの善意も、今日の出来事も何もかも疑ってかかることはどうしてもできなくて。“甘ちゃん”だなんて言われても、私にはあれが嘘だなんて、思いたくなかった。

 

 バイトに入れる時間が減るかもしれない、時給が下がるかもしれない、と精いっぱいのマイナスを頭に思い浮かべて。煮詰まってきた頭を枕に投げて、全ては明日、お礼を言ってからもう一度話を聞こうと明日の自分に丸投げすることにした。

 

 すぐに意識がなくなる、というほどではなかったけれど。今度は少なくとも眠れないとすぐに上体を起こすなんてことは起こらなかった。

 

 

 

 

 

 

「う゛…」

 

 片手に出来るだけ奮発して買った羊羹の袋をもって、出来るだけ大人に見えるような私服を着て。昨日の駄菓子屋がもう視界に入るくらいには近くに来ているのに、その段階で私は二の足を踏んでいた。先ほどまではこの手に持ったものを渡せば喜んでくれるかな、と足取りはむしろ軽かったのに、店が目に入ったとたん昨日の自分の痴態が頭に浮かんできて急に恥ずかしくなってしまったからだ。

 

 嗤われるなんて思ってない。そんなことをする人ではないと分かっている。でも、そこではない。これは私の問題だ。昨日あれだけの事をやらかした私は、どんな顔をしてあの店の扉を開ければいい。大人っぽい服装で来たのが仇となってしまった。何より自分が、大人ですか、立派なものですねと脳内で鼻で笑っている。

 

 大きく息を吸って、吐く。大丈夫、何でもないことだ。今日は、この手に持ったものを渡して、昨日はありがとうございましたと改めてお礼を言って。それと、アルバイトさせてもらえるのなら、その話を詳しく聞かせてもらうだけ。別におかしいところなんて何もない。大丈夫だと言い聞かせて、普段学校で被っている優等生の仮面を被って。大人なら皆この顔が好きだから。

 

 失礼します、とガラリと引き戸を開けて店内に入って、何度も頭の中で反芻した言葉をそのまま口に出そうとして。目に入ってきた光景に喉元まで出かかっていたその言葉は引っ込んでしまって、代わりに困惑の声だけが私の耳に届いた。

 

「なぁ悠仁ー、これ、これ仕入れようぜ」

 

「いやぁ場所がなぁ」

 

「そんなのお菓子どかしゃいいじゃん」

 

「本末転倒なんだよ、それじゃ」

 

 2~3人の小学校低学年くらいの男の子に集られて、スマホの画面を見せられながら何事か強請られている虎杖さんの姿が目に入る。カウンターに座っているのにもかかわらず。一人には肩によじ登られているし、5秒に一回くらい被ったフードをもぎ取られてはすぐに被りなおすということを繰り返してるし。あまりにも予想していなかった光景に言おうとしていたことも忘れてしまい、目が点になる。

 

 そのまま入り口で立ち尽くしていた私の事に、虎杖さんの視線が向けられる。私の事を視線に収めて、次にその目が細められて。こちらにおいで、というように手招きされる。しかし、虎杖さんが気が付くということは彼に纏わりついていた子供達もこちらに気が付くということで。3対の小さな目がこちらにぐりんと向けられる。

 

「誰ー?」

 

「しらない人だ」

 

「悠仁の知り合い?」

 

 知らない人という割には無警戒によって来て3方向から次々に質問を投げかけられて、服の裾を引っ張られて。早々関わることの無い子供たちのエネルギーに圧倒されてしまい目を白黒させていると、質問攻めはこら、という一言でおわりを告げることとなった。

 

「困らせるんじゃない」

 

 これでも食べてなさい、と手に持ったお菓子をぽいぽいと皆に渡して。喜んで外にあったベンチに座って食べ始めた様子を見送ってから、こちらに向き直った。

 

「いらっしゃい、酒寄ちゃん」

 

 よく眠れたみたいでよかったよ、と微かにほほ笑む虎杖さんの視線は私の顔に注がれていて。昨日は目元の隈迄ばれていたのか、と思わず空いた片手を目元にやる。そうじゃない、私が今日来たのは雑談をするためじゃないんだ。

 

「あの、昨日。本当にありがとうございました」

 

 深々と頭を下げて、それと一緒に手に持っていた袋を前に差し出す。喜んでくれるかな、と頭を下げながら薄目で相手の様子を盗み見て。でも、私の目に入ってきたのはきょとんと眼を瞬かせる虎杖さんの姿。

 

「…くれるのか?」

 

「え、えぇ。はい」

 

 そうか、と一拍置いて。優しい娘だなぁ、という言葉が私の耳朶を打つ。ありがとう、とこちらに差し出された手が、私の姿だけが反射するその瞳が、やっぱり昔の記憶に被って。目を瞑った私と、受け取られて手から離れていった袋と。ほんの少しだけ時間がたった後。頭の上になんの感覚もないことに不思議に思った自分に驚いた。

 

 頬が熱くなる。私は今何を期待したんだろうか。見知らぬ人に、昨日会ったばかりの男の人に。でも、袋を見て羊羹か、と緩められるその口元も、外で騒がしくお菓子を食べる男子たちをちらりと見て内緒で食べようか、暖かいお茶を入れようと少し悪戯気に手招きするその姿も、私の記憶の中のそれにそっくりで。

 

「はい、店長」

 

 信じてもいいかな、信じたいなと思ってしまった。ほんの少し、驚かせたいなという悪戯心から放たれたその言葉は、あなたに届いただろうか。

 

 

 

 




辛い、苦しいって書けばいいだけの心理描写に5000字もかけたらしいですよ。

ifの扱い

  • このまま最後まで書く
  • 普通の後日談も交えつつ書く
  • 書かんでいいから後日談だけ書く
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