浪速のボスゴリラ   作:五十嵐 響

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第1章 生い立ち〜会社員
長い旅路


1990年8月10日。大阪市天王寺区に1人の怪物が産まれた。

真夏の深夜、産婦人科の分娩室に響き渡ったのは、赤ん坊のそれというよりは、生命の塊が爆発したような野太い産声だった。

彼女は、後に「ゴリラ女」と呼ばれることになるその肉体を、この世に現した。

 

出生時の体重は標準をやや上回る程度だったが、その骨格の逞しさと、何かに抗うような力強い手足の動きは、立ち会った看護師たちに一瞬の沈黙を強いるほどだった。

 

家庭環境は、お世辞にも平穏とは言えなかった。

父親は幼少期に離婚しており彼女が幼稚園に入園する頃には既に不在だったため父の記憶はない。

母子家庭だが、活発な四姉妹のお陰で家はいつも賑やかだ。

長女の猿女、次女のゴリラ女、三女のチンパンジー女、四女のオランウータン女と1年おきに産まれた。

 

母親が冗談めかして名付けたその名前は、決して蔑称ではなかった。それは、狭い公営住宅の中で、誰にも頼らず、食うか食われるかの勢いで生きて行く姉妹達への母なりの愛称だった。

 

家の中に貧困を思わせる要素はなかった。

あるのは、一つの皿を奪い合う箸の音、狭い畳の上で繰り広げられる姉妹喧嘩の地響き、そして絶えることのない笑い声だ。彼女たちは、世間が定義する「女の子らしさ」という概念を教わる暇もなく、野生の群れのように成長していった。

 

1997年4月。彼女は大阪市立味原小学校に入学した。

桜の花びらが舞う校庭に、真新しいランドセルを背負った子供たちが並ぶ。しかし、彼女の心に高揚感は微塵もなかった。

姉の猿女から学校という場所の仕組みは聞き飽きていたし、周囲の顔ぶれも幼稚園の同級生や近所の幼馴染ばかりだ。彼女にとって学校とは、単に家よりも広い遊び場に過ぎなかった。

しかし、その遊びの質が入学早々から問題となった。

彼女の肉体は、同年代の女子とは明らかに異なっていた。肩幅は広く、足の筋肉はバネのように引き締まっている。そして何より、自分の中に渦巻くエネルギーの制御方法を、彼女はまだ知らなかった。

 

暴風。低学年の頃、先生達が職員室で彼女を評した言葉だ。

休み時間のチャイムが鳴り終わる前に、彼女は教室を飛び出している。戦場は運動場だ。

ドッジボールをすれば、彼女が放つボールは男子の顔面を捉え、泣かせることなど日常茶飯事。鬼ごっこをすれば、獲物を追い詰めるそのスピードと威圧感に、周囲は恐怖すら覚えた。

「ちょっと、やり過ぎやで」

担任が注意しても、彼女は不思議そうな顔をするだけだった。

「だって、全力でやらんと面白くないやん」

彼女にとって、手加減とは嘘と同義だった。本気でぶつかり、本気で勝つ。その原始的な喜びこそが、彼女のアイデンティティの根源となっていった。

 

学年が上がるに連れ、周囲の視線は驚きから畏怖、そして微かな拒絶へと変わっていった。

運動会のリレーでは、常にアンカーを任された。彼女が砂煙を上げて前の走者を追い抜く姿に、観客席からは歓声が上がる。しかし、その歓声の裏には「女子なのに……」という、透明な壁が存在していた。

組体操では、彼女の定位置は常に一番下の中心だった。

何人もの同級生を背中に乗せ、歯を食いしばって支える。

「重ないか?」と聞かれれば、「全然」と笑ってみせる。

その土台としての役割は、彼女の誇りでもあったが、同時に支える側として固定される寂しさも、幼い心にわずかな棘を残していた。

「強いなあ」「ほんまに女子か?」

男子たちが冗談混じりに投げるその言葉を、彼女は鼻で笑い飛ばしていた。だが、鏡を見る度に、自分の身体が、教室にいる他の「女の子」たちとは別の進化を遂げていることを痛感せずにはいられなかった。

 

彼女の暴力的なまでのエネルギーが遂に学校という枠組みを逸脱し始めたのは4年生の頃だった。

喧嘩を止めに入った先生を、反射的に突き飛ばしてしまったのだ。

事態を重く見た担任は、ある日彼女を放課後の教室に残した。叱責されると思っていた彼女に、先生は意外な言葉をかけた。

「お前はその力をちゃんと使う場所を見つけなあかん」

彼女は大新柔道会という家から近くの道場に入ることを勧められた。

「柔道ならどれだけ暴れても文句は言われん。礼儀も学べるし、お前には向いてる」

戦うことが許される場所。

その響きに、彼女の胸は高鳴った。

 

数日後、彼女は大新柔道会へ足を運んだ。入ると決して広くない一室に試合が1つ出来るくらいの畳があり、立ち込める汗と畳の匂い。白い道着に身を包んだ門下生達の気迫を感じた。

彼女は、自分が漸く「呼吸が出来る場所」を見つけたことを直感した。

最初は遊びの延長だった。

 

道場で一番大きな体格を誇っていた彼女は、技など知らなくても、持ち前の怪力で相手を薙ぎ倒すことが出来た。とにかく前に出て、力でねじ伏せる単純明快なスタイルで、彼女は瞬く間に道場内で頭角を現した。

 

しかし、柔道の世界は彼女が思っていたほど単純ではなかった。

初めて出場した地域大会。

対戦相手は、自分よりも二回りほど小柄な女子選手だった。

(あんなチビ、一瞬で投げれるわ)

そう高を括って畳に上がった瞬間、視界が反転した。

相手の鋭い踏み込み。自慢のパワーを逆手に取った、鮮やかな背負投。

気がついた時には、彼女の背中は冷たい畳に叩きつけられていた。

「一本!」

審判の声が遠くに聞こえた。

完敗だった。力だけではどうにもならない技術という壁を、彼女は初めて目の当たりにした。

悔しくて涙が出るかと思ったが、出なかった。代わりに湧き上がってきたのは、畳の上でしか得られない、形容しがたい充足感だった。

 

その後、彼女が天才として開花することはなかった。

練習には真面目に取り組んだが、レギュラーと補欠を行き来する準レギュラー止まり。目立った入賞歴もないまま小学校時代の柔道生活は淡々と過ぎていった。

しかし、道場での日々は、彼女の鋭過ぎた角を少しずつ削っていった。

礼に始まり礼に終わる武道の精神が、彼女の野性を、少しずつ理性という名の器に収めていったのだ。

 

2003年3月。小学校の卒業式。

6年前よりも二回りは大きくなった背中で、彼女は卒業証書を受け取った。

将来の夢を書く欄に、彼女は柔道家と書いた。

ただ卒業式の帰り道、彼女は一人で道場に寄り、誰もいない畳の上に立った。

 

何かを成し遂げた訳ではない。特筆すべき記録もない。

けれど、彼女は知っていた。

負けてもなお、畳の上に立ち続けること。その泥臭い継続こそが、自分の生きる道であることを。

彼女は、中学校で結果を出そうと意気込んで家に帰った。

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