2020年1月8日。
大阪の冬の朝は鋭く冷え込み、街全体がまだ薄暗い静寂の中にあった。
天王寺の自宅リビングには、いつもの生活臭に混じって、異質な光景が広がっていた。大きなスーツケース、サイドポケットに差し込まれたパスポート、そしてUFCのロゴが入った支給品の数々。
「ほんまに、アメリカ行くんやな」
言葉には出さずとも、家族の間にそんな空気が漂っていた。
ゴリラ女は、驚くほど平静を装っていた。無口なまま、何度も荷物のファスナーを開閉し、忘れ物がないかを確認する。
(パスポート、マウスピース、バンテージ……よし)
内心では、これまでのプロ格闘技人生で最大級の緊張が渦巻いていた。世界最高峰の舞台「UFC」。その重圧は、これまで戦ってきたどのケージよりも巨大な影となって彼女の心に落ちていた。
母は、一分おきにソワソワと彼女の周りを動き回っていた。
「パスポート、ほんまに持った? 鞄の奥入れたらあかんで」
「充電器は? 向こうのコンセント、形違うんちゃうん?」
「着いたらすぐ連絡し。LINEでええから」
甲斐甲斐しく世話を焼くその姿は、世界一を目指す格闘家の親というより、ただの心配性の母そのものだった。
長女の猿女は、ソファに座りながら表面上は至って普通を装っていた。
「まあ、気ぃ付けて」
短く、ぶっきらぼうな一言。しかし、その視線は妹の太い腕と、その腕が掴み取った「UFC」という現実を、しっかりと捉えていた。本当に世界へ行くんだな、あいつは――。少しの感傷と、大きな実感を噛み締めていた。
対照的に、三女のチンパンジー女は朝から賑やかだった。
「アメリカかー! 凄いなあ、UFCやもんなあ!」
ワクワクを隠しきれない様子で盛り上げていたが、空港へ向かう時間が近づき、ゴリラ女がジャケットを羽織る頃には、急に静かになった。遠くへ行くという実感が、寂しさとして追いついてきたようだった。
四女のオランウータン女は、そっと彼女の隣に立ち、優しく声をかけた。
「……体調、気を付けてね。無理し過ぎたらあかんで」
末っ子らしい、素直で現実的な心配が、ゴリラ女の張り詰めた心を少しだけ解きほぐした。
「……行くわ」
靴を履き、重いスーツケースのハンドルを握る。玄関のドアを開けた瞬間、冷たい空気が室内に流れ込み、空気が変わった。
「無理し過ぎんときや」
母が、ごく自然に、祈るように言った。
「ん」
短い返事。それが彼女なりの精一杯の言葉だった。
「行ってこい!」
「勝ってこいよ!」
「怪我すんな!」
背中に投げかけられる姉妹達の声を、彼女は両肩で受け止めた。
一歩、外へ踏み出し、ドアが閉まる。
その瞬間、彼女の脳裏には(もう戻れへんな)という感覚がよぎった。
単なる試合への出発ではない。これが、格闘家としての最後の大勝負。UFCでの2試合を経て、大学院へ行き、柔道に戻る。人生の大きな区切りを付けるための、片道切符に近い旅立ちであることを、彼女自身が一番良く分かっていた。
ドアが閉まった後のリビングは、驚くほど静かだった。
「……ほんまに行ったな」
母がポツリと呟く。数分前までの賑やかさが嘘のように、家の中には彼女の気配だけが消えていた。
猿女はテレビのリモコンを手に取り、いつもの番組をつけながら言った。
「あいつ、ほんまに行動力だけはあるな」
少しだけ感心したような、誇らしいような声。
世界最高峰、夢の舞台への出発。
けれど家族は、それをドラマチックな別れに仕立てることはしなかった。
大阪の、いつもの、普通の朝。
それが、彼女が守りたかった現実であり、帰ってくるべき場所だった。
静かな路地に、スーツケースを引く硬いキャスターの音が響く。彼女は29歳にして初めての海外だ。
天王寺駅のホーム。
滑り込んで来た特急はるかに乗り込むと、車窓には見慣れた大阪の街並びに素早く流れて行った。これまで何度も見た景色。
しかし、関西国際空港が近づくに連れ、胸の奥に形容し難い実感がせり上がってくる。
(ほんまに行くんやな……)
空港の電光掲示板に踊る「JAL60便 ロサンゼルス行き」の文字。
JALのチェックインカウンターで手荷物を預け、ベルトコンベアに乗って運ばれて行くスーツケースを見送った時、ふと不吉な考えがよぎった。
(戻って来んかも知れんな)
それは恐怖ではなく、ある種の覚悟に似た予感だった。
出発ロビーには、夢を抱いた留学生や浮き足立つ家族連れ、隙のないビジネスマンが溢れていた。その中で、彼女だけが異質な目的を抱えていた。
「たった2試合で引退するために、わざわざアメリカまで行くんか」
パスポートを申請し、航空券を予約する過程で、何度も自問自答した。しかし、格闘技に自分なりのけじめを付ける場所は、世界最高峰の舞台以外にあり得なかった。
10時間のフライトを経て降り立ったロサンゼルス国際空港。
(ここがアメリカか…)
そう思いながら下のフロアへ行き、入国審査へ歩いた。
厳しいと噂されるアメリカの入国審査。「訪問の目的は?」という問いに、彼女は拙い英語で「総合格闘家でUFCに出る」と答えた。審査官の鋭い視線が彼女の分厚い体躯を捉え、やがて無言でスタンプが押された。
空港の外に出ると、冬の大阪とは対照的な、刺すような眩しい陽光が降り注いでいた。乾燥した空気が鼻腔を抜け、遠くに見えるパームツリーがここが異国であることを主張している。手配していた送迎車に乗り込み、ハイウェイを走る。巨大なピックアップトラックが猛スピードで横を通り過ぎるたび、車体が小さく揺れた。
「ここやで」
ドライバーに促されて降りたのは、サンタモニカから少し内陸に入った、落ち着いた住宅街にある低層のアパートメントだった。3ヶ月の短期契約。練習拠点となるジムへのアクセスを最優先に選んだ、彼女にとっての拠点だ。
重いスーツケースを引きずりながら階段を上がり、鍵を開けて中に入る。
部屋は驚くほどシンプルだった。最低限の家具と、簡素なキッチン。窓からは隣の建物の壁が見えるだけだ。
「……狭いな」
思わず独り言が漏れた。天王寺のあの騒がしいリビングが急に遠い世界の出来事のように思えた。
荷物を解く間もなく、彼女はまず窓を開けた。湿気のない風が部屋を通り抜ける。
スーツケースから取り出したのは、家族と一緒に撮った写真でも、お守りでもなかった。使い古された練習用のバンテージとグローブ。それらを棚に並べた瞬間、ようやく自分の居場所が定まったような気がした。
生活を整えるために近くのスーパー「ホールフーズ」へ向かう。
陳列棚に並ぶ巨大な肉の塊、見たこともない色のプロテイン、そして何もかもがビッグサイズの洗剤。レジで「Do you want a bag?」と聞かれ、一瞬固まる。
(バッグ……袋か。そうやな)
「Yes.」
たった一言返すだけで、喉の奥が乾くような緊張感があった。アメリカでは、ただ生きることそのものが戦いの延長線上にある。
アパートに戻り、買ってきた赤身の肉をフライパンで焼く。味付けは塩と胡椒だけ。
一人でテーブルに向かい、肉を噛み締める。テレビをつければ、早口の英語が洪水のように溢れ出し、理解できない単語が部屋を滑っていく。
静かだった。
あまりにも静かすぎて、自分の咀嚼音だけが異様に大きく響く。
(天王寺やったら、今頃テレビの音と誰かの笑い声でうるさいんやろうな)
ふと、母の「着いたら連絡し」という言葉を思い出し、スマートフォンを取り出した。
『着いた。アパートも大丈夫や。』
家族のグループLINEに短く送る。すぐに既読がついた。
『怪我せんようにね!』『肉食え肉!』『夜道は気ぃ付けや』
次々と届く通知の振動が、掌を通じて孤独を少しだけ押し流してくれた。
翌朝、彼女は夜明けと共に目を覚ました。
カリフォルニアの青い空の下、アパートの周りを軽くランニングする。すれ違う人々は人種も体格も様々で、誰も彼女のことなど気に留めない。
(ここでは、誰も私のことを知らん)
それは寂しさでもあったが、同時に心地よい自由でもあった。大阪での実績も、日本での知名度も、ここでは何の意味も持たない。ただ一人の「ゴリラ女」という格闘家として、ゼロから自分を証明するだけだ。
練習拠点となるジムへ向かう道すがら、彼女は拳を固く握りしめた。
3ヶ月。たった90日間の滞在。
この乾いた街で、自分は何を刻めるのか。
UFCのオクタゴンに立つその日まで、この質素なアパートとジムを往復するだけの、ストイックで孤独な日々が始まる。
「しゃあない、やるか」
自分に言い聞かせるように呟き、彼女はジムの重い扉に手をかけた。
ロサンゼルスの強い風が、彼女の背中を後押しするように吹き抜けていった。