DEEPのベルトを腰に巻き、チャンピオンとしての誇りに胸を膨らませていたゴリラ女。だが、喜びに浸っていたのも束の間、現実的な問題が彼女の前に重く立ち塞がった。
1年前、プロレス団体を突如解雇され、5ヶ月ほど無職として先行きの見えない日々を過ごしていたからこそ、今のプロ団体の王者という称号は心から嬉しかった。
しかし、プロの格闘家にとってファイトマネーこそが命綱であり、主な収入源だ。チャンピオンになったからには定期的に防衛戦をこなして稼ぎ続けなければならない。
(……そろそろ次の試合の予定、確認しとくか)
そう思い立ち、運営に問い合わせの連絡を入れた。
しかし、返ってきた回答は思ってもみないものだった。
「次の試合は、8月ですね」
「……は?」
思わず携帯を握り締める手に力が入る。
確かに、2月にタイトルマッチを制して王者になったばかりで、翌月や翌々月にすぐ防衛戦を組めない事情は分かる。だが、次の試合が8月ということは実質半年間も試合がないということだ。
(半年間、試合なし……? つまり半年間、無収入ってことか?)
ゴリラ女のファイトマネーは、1試合あたり数十万円。
年間で計算しても、これではフリーターの年収と大差ない。いや、遠征費や練習環境の維持費を考えれば寧ろカツカツだ。
「これが日本の格闘技界の現実か……」
苛つきを隠せないままゴリラ女は呟いた。順風満帆に見えた格闘家人生に、一気に暗雲が立ち込める。折角無職を脱出したのに、27歳にして再び先行きが怪しくなるのは到底納得がいかなかった。
不機嫌な雰囲気を醸し出しながら自宅で黙々とトレーニングのケアをしていると、母が心配そうに声をかけて来た。
「次の試合、いつ頃になりそうなん?」
「……8月や。」
短く答えると、母は少し意外そうな顔をした。
「8月? 格闘家って、思ったより試合少ないんやね。」
「……そりゃチャンピオンになった翌月にすぐ防衛戦とか、あり得へんからな」
苛立ちを抑えながら淡々と返すゴリラ女に、母が更に問いかける。
「それでお金、足りるん?」
「……足りん。うちのファイトマネー、1試合で数十万やぞ。これまで5試合やったけど、それでも年収300万届かへんわ。」
「そっか……格闘技業界って、ほんまに厳しいんやな。」
「チャンピオンになっても、格闘技一本で食えてへん奴なんかザラにおるからな。副業せな生活成り立たん奴も多いし割に合わんもんやで」
言葉数は少ないものの、その語り口には格闘技界の構造に対する強い不満と焦燥感が滲み出ていた。
苛々を練習のエネルギーに変え、地元大阪のジムで体を追い込み続けること半年。
遂に2018年8月26日、『DEEP 85 IMPACT』の日を迎えた。
鬱憤を晴らすかのように王者の証である赤コーナーから堂々とケージイン。桃色のリストテープが誇らしかった。
試合が始まると、半年の間溜め込んだストレスを爆発させるように相手を圧倒する。テイクダウンから完璧にバックを奪うと、極太の腕を相手の首元へ深く叩き込んだ。
リアネイキッドチョークで一本勝ち。
圧巻の強さで初防衛を果たした。
バンテージを解きながら、ゴリラ女は控室へやって来た代表に向かって、隠すことなく直言した。
「……代表。正直言って、試合数が少な過ぎてお金が全然足りません。それに、日本の重量級は選手層が薄すぎて相手もおらん。次は他団体の強い奴とやらせて下さい」
代表は一瞬驚いたような顔をしたが、彼女の切実な怒りと圧倒的な実力を前に、少し考え込んでから答えた。
「分かった。他団体の選手とやるとなると……RIZINとかはどうだ?」
「是非、お願いします」
間髪入れずに即答した。
『RIZIN』──団体を超えた選手が集う中立的なフェデレーションであり、間違いなく日本最高峰の格闘技イベント。ファイトマネーの規模も、注目度もDEEPの比ではない。
「次はRIZINデビューか……」
東京からの帰り道、新幹線の車窓を眺めながら、ゴリラ女はポツリと独り言を呟いた。半年間の苛々が一気に吹き飛び、胸の中に熱い高揚感が込み上げて来る。
停滞していた時間が動き出し、ゴリラ女はいよいよ日本最高のビッグステージへと躍り出る。
DEEPでの初防衛を果たし、遂に夢のビッグステージRIZINへのデビューが決定したゴリラ女。
他団体王者の参戦ということで契約の難航も懸念されたが、中立的なフェデレーションであるRIZINの柔軟さもあり、交渉は驚くほどすんなりと纏まった。
実家に帰り、リビングで寛ぐ家族に向かって短く告げた。
「今年の大晦日、RIZIN出るで」
その一言に、母も姉妹達も目を見開いて大歓声を上げた。今や大晦日のRIZINはテレビ生放送もお馴染みの風物詩だ。
「マジで!? 凄いやん!!」
「絶対テレビの前で応援するわ!」
家族の興奮を他所に、ゴリラ女は静かに拳を握り締めていた。
平成最後の大晦日。会場は格闘技の聖地、さいたまスーパーアリーナ。
これまで経験してきたどの会場とも違うスケール感。眩い照明、腹に響く大音量のスピーカー、そして超満員の観客が発する熱気。間違いなく日本最高の舞台だった。
控室で準備を整え、RIZIN特有の深い緑色のグローブを装着する。
両拳をグッと握り込んだ瞬間、格闘家としての血が沸き立つような実感がじわじわと湧き上がってきた。
青コーナーから、独特の凛とした佇まいで花道を歩き、巨大なリングへ足を踏み入れる。
「只今より、本日の第2試合! RIZIN女子MMAルール、100.0kg契約ワンマッチを行います!」
場内アナウンスに観客のボルテージが一気に跳ね上がる。
「青コーナー! 180cm、100.0kg! プロ5戦5勝! 大阪府大阪市出身、DEEP第2代女子無差別級王者! 天王寺の最恐グラップラー──ゴリラー! おーんなー!」
コールと同時にスクリーンへ映し出された彼女のあまりに規格外な体格と圧倒的な威圧感に、超満員の客席からどよめきと歓声が沸き起こった。
── 試合開始
1R、序盤から圧力をかけて優勢に試合を進めるものの相手は粘る。焦ることなく一瞬の隙を突いて力強いテイクダウンに成功。
そこからはゴリラ女の独壇場だった。
一気にマウントポジションを奪うと、逃げ場を失った相手に向かって重厚なパウンドを雨霰と振り落とす。
ドスッ! ドスッ!
圧倒的な火力の差にレフェリーが慌てて割って入り、試合ストップ。
パウンドによるTKO勝ち! プロ無敗の6連勝を飾った。
リングを下り、セコンドから「滅茶苦茶ええやん!」と肩を叩かれると、ゴリラ女は「……まあ、こんなもんです」とクールに返した。だが、この大歓声に包まれた大舞台で完勝できたことが、内心堪らなく嬉しかった。
年が明け、次なる舞台は『RIZIN.15』。
勢いに乗るゴリラ女は、ゴングと同時にパンチの連打で怒涛の突進を仕掛け、一気に距離を詰める。
相手が体勢を崩した瞬間に一転して力強く抱え込み、マットへ叩き付けるテイクダウン。
完璧なグラウンドの攻防から隙を与えず腕を奪うと、柔道時代から磨き抜かれた必殺のアームバーを一閃!
1R、鮮やかな一本勝ち。
RIZINのリングに突如現れ、並み居る相手を蹂躙する怪物。
一躍格闘技界の注目の的となったゴリラ女だったが、あまりの圧倒的な強さと、世界的に見ても希少な女子重量級という環境が、彼女に再び皮肉な現実を突き付けることとなる。
試合後、控室で運営スタッフに次回大会の打診をした。
「……次、いつですか?」
スタッフは困ったように眉を顰め、申し訳なさそうに言葉を濁した。
「……それが、ゴリラさんの相手になる選手がなかなか見つからなくて。次回は未定ですね」
「…………」
彼女は悔しそうに固く唇を噛み締めた。
試合に出なければファイトマネーが入らず、収入が途絶えてしまう。強過ぎること、そして階級の層が薄すぎることが完全に裏目に出ていた。
次回大会の『RIZIN.16』への出場を泣く泣く断念したゴリラ女は、試合機会と収入を確保するため、ホームである『DEEP 90 IMPACT』での防衛戦に回る決断を下す。
帰りの新幹線、窓の外を流れる景色をじっと見つめながら、彼女は静かに独り言を漏らした。
「……やること、限られて来るな。」
圧倒的な強さを持ちながらも、戦う場所と相手を探し続けなければならない過酷な宿命。
最恐グラップラーの胸中には、勝利の余韻とともに消えない葛藤が渦巻いていた。
(このままでええんか?)
そんな不安が脳裏を過った時、不思議と頭に浮かんだのは、かつて自分を形作った柔道だった。
2019年6月。RIZINという日本最高峰の華やかな舞台を経験したゴリラ女は、一度ホーム団体であるDEEPのリングへと戻ってきた。
強過ぎるが故にRIZINで対戦相手が見つからないという、皮肉な現実が生んだ帰還だった。
6月29日、東京都文京区。伝統ある格闘技の聖地、後楽園ホール。
『DEEP 90 IMPACT』の会場へ足を踏み入れたゴリラ女は、懐かしさと同時に、ある種の違和感を覚えていた。
(……小さく感じるな。)
さいたまスーパーアリーナの巨大な空間と数万人の観客、爆音の演出を経験した後では、格闘技の聖地ですら小ぢんまりとして見えた。
いや、DEEPはパンクラス、修斗と並ぶ日本の総合格闘技団体「御三家」の一つだ。ここが決して小さい訳ではない。RIZINという舞台が、あまりに規格外に大き過ぎただけだ。
ホームの観客からの声援を受け、いつものようにケージに入る。
目の前の相手を倒す。やることは何も変わらない。
── 試合開始
カァァァン!
防衛戦に挑む相手も必死で食い下がってくる。
疲れの見える相手を一気にテイクダウンし、グラウンドで完全にコントロールする。
抵抗する相手の背後に回ると、柔道とプロレスで鍛え上げた極太の腕を、その首元へ深く深く滑り込ませた。
力を込めて締め上げると、相手はたまらずタップ。
リアネイキッドチョークで一本勝ち。
圧倒的な実力差を見せつけ、見事に2度目の防衛に成功した。
腰に再びDEEPのベルトを巻き、ファンの声援に応える。だが、リングを下りた彼女の胸の内に、高揚感は殆どなかった。
(……正直、モチベーションが上がらん。)
DEEPでは、防衛戦を淡々とこなし、ベルトを守り続けるだけの日々。負ける気はこれっぽっちもしない。
一方で、刺激的な強豪が集うRIZINへの参戦は切望しているが、次の試合予定がいつになるのか、誰が相手になるのか、全く不透明なままだ。
そして何より、試合をしなければファイトマネー、即ち収入が途絶えるという現実が、重くのしかかる。
試合で負ける心配はない。だが、生活のために戦い続けなければならないのに、戦う場所が安定しない。それは正に、強過ぎる者だけが抱える、贅沢で切実な悩みだった。
「……どうすっかな。」
控室でバンテージを解きながら、ポツリと独り言が漏れた。
その時、携帯電話にDEEPの代表から連絡が入った。
「ゴリラちゃん、お疲れ様。今さっきRIZINから連絡があってさ……来月の『RIZIN.17』、オファー来てるけど、どうする?」
「……! やります。お願いします。」
間髪入れずに即答した。
思わぬ早さで舞い込んだ、再びのビッグステージへのチャンス。
「……考えても仕方ないな。今は、与えられた仕事をきっちりこなすだけや。」
悩んでいた霧が晴れた訳ではない。だが、目の前にやるべきことができた。
ゴリラ女は気持ちを切り替え、天王寺のジムで再び己を追い込む日々へと戻っていく。
次なる獲物は、夏のRIZINのリングで待っている。
2019年7月28日、再びやってきたさいたまスーパーアリーナ。
『RIZIN.17』の舞台で、ゴリラ女は飢えた野獣のように飢餓感を爆発させた。
カァァァン!
ゴングが鳴ると同時に、圧倒的な体躯と圧力で相手をじりじりとロープ際まで追い詰める。
相手が圧に耐えかねて打撃を振るった瞬間、その腕を潜り抜けて強烈にロック。そのまま力任せに豪快に抱え上げると、キャンバスへ重音と共に叩き付けた。
トップポジションを完全に奪うと、馬乗りの体勢から容赦ないパウンドの雨を降らせる。
「ドスッ! ガツッ! ドスッ!」
最早競技を超えた暴力の域に達した連打。相手が防御不能となったのを見定め、レフェリーが慌てて間に割って入った。
1R、TKO勝ち。
RIZINの舞台で3戦全勝。圧倒的な強さを見せ付けた。
しかし、試合直後に勝利の余韻の中で運営に次戦の打診をすると、返ってきたのはいつもの言葉だった。
「……次は、未定ですね。」
プロ格闘家の命綱は、試合のファイトマネーとスポンサー収入だ。どれだけ強くても、どれだけ圧勝しても、試合が組まれなければ預金残高は目減りしていく一方だ。
(このままでええんか……?)
控室でバンテージを解きながら、重い不安が脳裏を過る。そんな時、彼女の頭に不思議と浮かんだのは、かつて己の骨肉を形作った柔道の畳の感触だった。
2019年末。彼女は脚が自然と向かうまま、母校である大阪体育大学の道場を訪れた。
「久しぶりやな。今、何してるんや?」
恩師からの問いかけに、彼女は偽らざる本音を漏らした。
「総合格闘家です。でも……試合が少なくて不安定で……」
「……柔道に戻りたいんか?」
「やりたいです。」
即答だった。しかし、そこには厚い壁が存在した。全日本柔道連盟の規定により、プロ格闘家としての契約実績がある選手は、引退後3年間は柔道界に復帰出来ない。
「なら、大学院に来るか? バイオメカニクスを学び直せ。身体の使い方を学問として突き詰めれば、将来柔道に戻った時、お前の強さはもっと理にかなったものになる。」
【運命の決断:UFCへのカウントダウン】
柔道への復帰、大学院での学問、そしてMMAでの手詰まり。
進路に揺れる彼女の元へ、マネージャーが思いも寄らない巨大なオファーを持ち込んで来た。
「海外からオファーが来てる。アジアの雄『ONE』か、世界最高峰の『UFC』か。ONEの方がファイトマネーの条件は良いが……」
マネージャーが最後まで言い切る前に、ゴリラ女は言葉を遮った。
「……UFCは、世界一ですよね?」
「せやな。あそこが世界の終着点や。」
迷いは一瞬で霧散した。
「UFCに行きます。最後なんで、世界最高峰の舞台で全部出し切って終わります。」
【DEEP王座返上と、世界への挑戦】
UFC──かつてPRIDEが崩壊して以降、世界中の化け物たちが集う最高峰のMMA総本山。
2019年末。ゴリラ女は日本人女子として極めて稀有なUFCとの正式契約を勝ち取った。
RIZINでの3戦全勝という圧倒的な戦績が評価された瞬間だった。そして彼女は、1年10ヶ月に亘って保持し続けたDEEP女子無差別級のベルトを清々しく返上した。
しかし、この契約は同時に「プロ格闘家としての現役生活のカウントダウン」が始まったことを意味していた。UFCでやり切り、その先に待つ3年間のブランク期間を経て柔道へ戻る──。
柔道への未練、大学院での学び、そして世界最強のケージ。
かつてプロレス界を追われ暴風と呼ばれた彼女は今、一人の表現者として己の命の輝きを世界に叩き付ける準備を整えた。
次は、世界。
そしてその先にある、本当の結末へ──