ゴリラ女がアメリカへ発ってから、天王寺の実家は奇妙な「静寂」に包まれていた。
元々、母と四姉妹が暮らす賑やかな武道一家。一人欠けた所でそれほど変わらないはずだったが、現実は違った。ゴリラ女という存在は、この家においてあまりにも物理的に大き過ぎたのだ。
まず、家の中が広い。
廊下を歩く際の地響きのような足音、洗濯機を占領する巨大な練習着、そしてキッチンに漂っていた常に何かを食べている気配。
食卓から彼女が消えただけで、用意する白米の量は劇的に減り、リビングの空気はどこか密度を失っていた。
母は家事の合間、ふとした瞬間に手を止める。
「……今、向こうは何時やろな」
時計を見ながら、無意識に時差を計算するのが癖になっていた。
「ハンバーガーばっかり食べてへんかな。ちゃんと野菜摂ってるやろか」
テレビでアメリカ関連のニュースが流れる度、それが政治の話であろうと気象予報であろうと、母は画面を食い入るように見つめた。そこには、世界一を目指す格闘家の母というより、遠い異国で暮らす娘を案じる一人の親の姿があった。
警察官として日々激務をこなす長女の猿女も、ふとした瞬間に妹の不在を実感していた。
夜勤中の書類作成、あるいはパトカーでの待機中。窓の外を眺めながら、ふと思う。
(ほんまにアメリカ行ったんやな、あいつ)
かつて問題児として暴れていた幼い妹が、今やUFCという世界最高峰のリングに手をかけている。警察の端末やニュースで格闘技関連のトピックが目に入ると、「……試合、もうすぐか」と、鋭い目つきでスケジュールを確認するのが日課になっていた。
三女のチンパンジー女は、恐らく家族の中で最も頻繁にゴリラ女のことを考えていた。
格闘技好きでテンションの高い彼女にとって、妹がUFCファイターであることは誇りであり、最大の関心事だ。
「見て、今日の練習写真! 向こうの選手、めっちゃデカいやん!」
職場の巡回中や休憩時間、彼女はSNSを隈なくチェックし、妹の動向を追いかける。
「今頃、必死にタックルの練習でもしてるんかな」
ワクワク半分、心配半分。彼女にとってのUFCは最早他人事ではなかった。
四女のオランウータン女は、静かに、だが確実に彼女を想っていた。
会社での昼休み。騒がしい同僚達の声を遠くに聞きながら、家族LINEの通知をチェックする。
「怪我、してないかな……」
大袈裟に騒ぐことはないが、試合の情報が出る度に、その華々しさよりも「無事に帰ってくること」を一番に祈っていた。
最も「不在」を実感するのは、やはり夕食の場だった。
いつものように4人で囲む食卓。
かつては、誰よりも大量に食べ、武道の技術論を熱心に語り、時には姉妹と騒いでいた主役がいない。
「……なんか、静かやな」
誰かがポツリと呟くと、全員が「今、あいつはアメリカにいるんだ」という事実を再確認する。
母の心境は複雑だった。
娘が世界一の舞台に立つことは誇らしい。けれど、それ以上に遠いこと、そして危険な場所にいることが、胸の奥をチリつかせる。
誇らしさと心配、期待と不安。その全てが、浅蜊の味噌汁の湯気と共に食卓に溶け込んでいた。
その頃、ロサンゼルスの名門MMAジム。
天王寺の静寂とは真逆の、不快なほど熱を帯びた「咆哮」と「打撃音」の中に、ゴリラ女はいた。
「Move! Move your feet!」
コーチの野太い声が、巨大なシーリングファンが回るジム内に響き渡る。
プロ4戦目にしてUFC 246という夢の舞台を提示された彼女の対戦相手は、自分より体格は劣るものの経験も実績も上である北米の強豪だ。
「……っ!」
スパーリング中、強烈なミドルキックが彼女の脇腹を叩く。日本での試合とは明らかに質が違う。骨に響くような衝撃、そして何より、相手の執念深さが尋常ではなかった。
ロサンゼルスのジムは、まさに弱肉強食の世界だった。
マットに転がれば、男も女も関係なく、汗が混じり合う泥臭いスクランブルが始まる。ゴリラ女は、得意の柔道仕込みの腰の強さを活かして耐えるが、ケージ際での「壁レスリング」の技術不足を痛感させられていた。
「もう一本や」
通訳を介さずとも、彼女の意志はコーチに伝わっていた。
ボロボロになったバンテージを巻き直し、再びケージの中へ戻る。
言葉の壁は厚い。だが、組み合った瞬間に相手の重心を読み、一瞬の隙を突いて投げ飛ばすその動きは、ジムのトップランカー達からも「あのジャパニーズ・ゴリラはヤバい」と一目置かれ始めていた。
極限の練習を終えた夜。
アパートの一室で、スーパーで買った安い赤身肉を焼きながら一人で食べる。
テレビをつけても何を言っているのか分からない。
(……日本食、食べたいな)
ふと、無性に実家のリビングが恋しくなる。
何気ない家族LINEのスタンプ、母が作った茶色いおかず、姉妹達の騒がしい笑い声。
(早く勝って、あの騒がしい食卓に帰りたい)
その素朴な願いが、異国の地で戦う彼女の、一番太い根っこになっていた。
UFC 246、ラスベガスのオクタゴンに立つ自分を想像する。
恐怖はない。あるのは、自分が選んだこの「最後の大勝負」を、家族が見守る中で完璧に終わらせたいという執念だけだった。
シャワーを浴び、鏡に映る自分の顔を見る。
少し痩け、眼光は更に鋭くなった。
天王寺の「次女」は、今、確実に「世界の戦士」へと脱皮しようとしていた。