2020年1月。ネバダ州ラスベガス。
砂漠の真ん中に突如現れる不夜城の喧騒は、UFCという世界最高峰の熱狂に包まれていた。
ゴリラ女にとって、そこは単なる憧れの地ではない。プロ4戦目にして辿り着いた、格闘家人生の「終わりの始まり」を飾る舞台だった。
会場入りした彼女を待っていたのは、見渡す限りのUFCロゴと、世界中から集まったトップファイター達の殺気だった。
「ほんまに、UFC来たんやな……」
耳に飛び込む英語の怒号、メディアのフラッシュ。だが、彼女には他の選手のような悲壮感はなかった。
通常、この時期の選手たちは水抜きで骨と皮になり、苛々を隠せない。しかし、彼女は「オープンウエイト特別マッチ」。減量は一切ない。
「……腹減ったな」
周囲がフラフラと歩く中、彼女はPerformance Instituteのロビーで堂々と水を飲み、軽食を口にする。その余裕に満ちた巨体は、海外メディアの目に「異様な怪物」として映った。
「200kg超えの日本人女性グラップラー。柔道とプロレスをバックボーンに持つ」
そのプロフィールは、格闘技のラスベガスにおいて、最高にエキゾチックで危険なスパイスだった。
記者会見当日。
登壇したゴリラ女の巨体に、会場が一瞬静まり返り、直後にざわめきが起きた。無表情で、それでいて落ち着き払ったその佇まいは、東洋から来た「静かな猛獣」そのものだ。
「本当に200kgあるのか?」
直球の質問に、彼女は淡々と答えた。
「今は、それくらいあります」
「なぜ減量しない?」
「今回はオープンウエイト。必要ないからです」
合理的な回答が続く中、一人の記者が「なぜその巨体で寝技スタイルなんだ?」と問うた。
彼女は少しだけ口角を上げ、こう返した。
「昔、柔道で小柄な選手に一本背負いで投げられて負けたので。……それで、寝技を研究しました」
会場にドッと笑いが起きた。挫折を認め、それを技術に変えた。その「本物感」に、ラスベガスのファンは一気に引き込まれた。
フェイスオフで、身長200cm、体重200kgの巨体が向かい合う。
凄まじい圧力が空気を震わせるが、ゴリラ女は相手を睨みつけたりはしなかった。ただ、深い霧の中から獲物を見定めるような、凪の視線を向けた。
試合当日の朝、彼女は驚くほど落ち着いていた。
減量苦がないため、しっかりと朝食を摂り、ホテルの周辺を散歩する余裕すらある。
「とうとう、UFCか……」
澄み渡るラスベガスの空の下、彼女は静かに実感した。これは引退という出口に向けた、最初で最後の大博打なのだと。
会場のバックステージ。UFC特有の緊張感が漂う中、アップを開始する。
ジャブ、ロー、そして鋭いレベルチェンジ。
「シュッ、シュッ」と空気を切り裂く音が、控室に響く。
実績で勝る相手が赤コーナー、初参戦の彼女は青コーナー。手首に青いテープが巻かれた瞬間、彼女の背筋が冷たく、熱く震えた。
「世界最高峰で、戦うんやな」
入場通路。
「Ready?」
スタッフの問いに、小さく頷く。
イントロが流れた瞬間、トヨタ・センターの空気が一変した。
往年の格闘技ファンを狂喜させる『PRIDEのテーマ』。
日の丸を肩に掛け、堂々と歩を進める彼女の姿に、アメリカの観衆が叫ぶ。
「PRIDE!?」「Huge Japanese fighter!」
ケージの入り口で、両手を広げてチェックを受ける。
一歩、中へ。足の裏でキャンバスの感触を確かめ、黒い金網に指をかけた。
(ここが、UFCか)
一瞬だけ感傷がよぎるが、レフェリーの前に立った時には、彼女の意識は完全に「捕食者」に切り替わっていた。
「Ready? Ready? Fight!」
ゴングが鳴り響く。
鋭いタックル、地響きを立てるような圧力。もつれ合い、グラウンドへと引きずり込む。
家族が、天王寺の居間で、息を呑んで画面を見守っている。
(勝って帰る。あのごっつい味噌汁を飲むために)
彼女の意識は、鋭利な刃物のように研ぎ澄まされていった。
試合後。
リアネイキッドチョークで極め、控室に戻った彼女がスマートフォンの電源を入れた。
通知の嵐が、画面を埋め尽くしていた。
『勝った! おめでとう! 凄かったやん!』(チンパンジー女)
『怪我ない? ちゃんと冷やしや。お疲れ様』(母)
『まあ、UFC初勝利やな。ようやった』(猿女)
『おめでとう。ゆっくり休んでね』(オランウータン女)
それらのメッセージを読みながら、ゴリラ女は小さく息を吐いた。
世界最高峰での勝利の味は、思っていたよりもずっと静かで、どこか温かい。
「……しゃあない、次は最終戦やな」
彼女は青いテープを剥がし、再び前を見据えた。
UFCデビュー戦。それは、彼女が最強を証明し、そして平穏を手に入れるための、完璧な一歩となった。