ラスベガスの喧騒が遠ざかり、ロサンゼルスの質素なアパートに静寂が戻ってきた。
UFCデビュー戦での勝利。それは世界中に日本の怪物の名を轟かせたが、ゴリラ女本人の生活は、皮肉なほどに以前よりも孤独で、ストイックなものへと変貌していた。
UFC 247、そして格闘家人生の幕引きとなる最終戦まで、残り僅か。
朝、アラームが鳴る前に目が覚める。カーテンの隙間から差し込むカリフォルニアの強い陽光が、部屋の殺風景さを際立たせる。
「……今日、何曜日やったっけ」
独り言さえ減っていた。
キッチンには、使い古されたプロテインシェイカーと、スーパーでまとめ買いした鶏胸肉のパック。天王寺の実家であれば、今頃は母が作る朝飯の匂いと、姉妹たちの騒がしい声が家中を震わせているはずだ。
その「うるさいほどの日常」が、今の彼女には何よりも贅沢な宝物に思えた。
午前10時。ジムのマットに立つと、孤独は殺気へと形を変える。
次戦の相手は、彼女の柔道を徹底的に研究して来ることが予想された。
「More heavy! Don't let her breathe!(もっと重く! 息をさせるな!)」
コーチの怒声が飛ぶ中、彼女は自分より遥かに身軽な黒人選手を相手に、ケージ際での攻防を繰り返す。
今回のテーマは「執着」だ。一度捕まえたら、例え金網を突き破ろうとも離さない。
柔道の足技をMMAの打撃に混ぜ、一瞬の隙を突いて巨体を浴びせかける。
汗がマットを濡らし、滴り落ちる。
練習後のシャワーを浴びている最中、ふと自分の腕を見ると、あちこちに覚えのない痣が浮き上がっていた。
(これが最後や。この痣も、この筋肉痛も、全部もうすぐ終わる)
それは悲しみではなく、底知れない解放感への期待だった。
夕暮れ時、練習を終えた彼女は、重い足取りで近くのスーパーへ向かう。
すれ違う家族連れが、楽しそうに明日の予定を話している。言葉は完全には分からなくても、その幸せの形は伝わってきた。
彼女だけが、その輪の外側にいる。
200kgの巨体は、アメリカの雑踏の中でもなお異質で、人々の視線が突き刺さる。だが彼女は、ヘッドホンで『PRIDE』のテーマを流し、外界を遮断した。
アパートに帰り、静かな部屋でスマートフォンを開くのが、唯一の人間に戻れる時間だった。
家族のグループLINEには、相変わらず他愛もないメッセージが流れている。
猿女が検挙した犯人の愚痴をこぼし、チンパンジー女が「UFCのグッズもっと送って」とねだり、オランウータン女が季節の移ろいを写真で送ってくる。
『こっちは練習順調。あとちょっとや』
短く打って送信する。
すぐに「既読」がつく。その数字を見るだけで、喉の奥のつかえが少しだけ取れるような気がした。
寝る前、彼女は暗闇の中で天井を見つめる。
29歳。青春の全てを武道と格闘技に捧げてきた。
痛くない日なんて一日もなかった。常に誰かに狙われ、常に自分の限界を疑い、それでも立ち続けてきた。
(UFC 247が終わったら、全部置いて行く)
その決意は、アメリカの乾いた夜風に吹かれても揺らぐことはなかった。
孤独であればあるほど、彼女の技は研ぎ澄まされ、精神は澄み渡っていく。
「世界一」という称号への執着よりも、「自分を待っているあの騒がしい食卓」への憧憬が、彼女を最強の戦士へと仕立て上げていた。
2020年2月。
引退試合に向けた最後の調整が、静かに、そして苛烈に、異国の地で続いていた。