浪速のボスゴリラ   作:五十嵐 響

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最後のゴング

2020年2月。アメリカ・テキサス州ヒューストンで開催される『UFC 247』。

この日が、ゴリラ女にとっての現役最後の試合になる。地球の裏側にある天王寺の実家では、その勇姿を見届けるための準備が進んでいた。

 

「最後やし、ライブで見ようや。金は私が出すから」

言い出したのは、やはりチンパンジー女だった。

当初、猿女は「後で録画でええやろ、明日朝早いし」とぶっきらぼうに返していたが、試合時間が近づくにつれ、誰よりも早くテレビの正面、特等席に陣取っていた。

リビングには、飲み物と少しの軽食。しかし、誰もそれに手を付けようとはしない。

画面越しに伝わってくるヒューストンの熱気と、これから家族の一員が殺し合いに等しい戦いに挑むという事実。

「……始まったな」

猿女の低い声が響き、家の灯りを除いた全ての意識が、テレビ画面へと吸い込まれていった。

 

会場に『PRIDEのテーマ』が流れ、赤コーナーから日の丸の旗を肩にゴリラ女が姿を現した。

その見慣れた、だが一回りも二回りも険しくなった背中を見た瞬間、家族の間に「ああ、いつものやつや」という安堵と、言葉に出来ない熱いものがこみ上げた。

母はこの時点で、もう画面を正視出来ていなかった。

「勝敗なんてどうでもええ……とにかく五体満足で無事に終わって欲しい」

手を合わせ、祈るように画面を盗み見る。世界最高峰のリングという舞台の華々しさよりも、そこにある剥き出しの危険を、母は誰よりも敏感に感じ取っていた。

 

試合が始まると、家族はそれぞれの見守り方で画面に食い付いた。

猿女は完全に武道家の目になっていた。無言のまま、妹の足運び、組み手の角度、重心の移動を凝縮された視線で追う。表情は一切動かないが、その拳は膝の上で固く握りしめられていた。

一方、チンパンジー女はセコンドさながらに声を上げる。

「そこや! いけ! 組め! 首取れるぞ!」

彼女の叫びが、静まり返った天王寺の夜に響く。

オランウータン女は、あまりの緊張感に呼吸を詰め、ただ静かに画面を見つめていた。その瞳には、怪我を恐れる妹への深い慈しみがあった。

 

「決まった……!」

ゴリラ女の極太の腕が、相手の首を完璧に捕らえた。必殺のギロチンチョーク。

相手がタップし、レフェリーが試合を止めた瞬間、リビングには「うわ……決めた……」という、驚きと感嘆が混じった声が漏れた。

しかし、大歓喜の爆発はなかった。

歓喜よりも先に、家族を支配したのは、重く深い静寂だった。

(これで、最後なんやな……)

世界最高峰で勝ち名乗りを上げる彼女の姿を見ながら、全員が「戦うゴリラ女」の終焉を感じ取っていた。誇らしさと、そしてもう彼女が危険に身を晒すことはないのだという、巨大な安堵。

 

その頃、本人も珍しく緊張していた。

ゴリラ女は、その場所特有の無機質な空気の中に居た。

数時間前から続くメディカルチェック、テーピング、軽食の摂取。すべては手慣れたルーティンだが、今日という日だけは、その一つひとつに最後という刻印が押されているように感じられた。

 

パーカーのフードを深く被り、ヘッドホンから流れる音を遮断するように目を閉じる。

周囲のセコンド陣は彼女の殺気にも似た静寂を察し、必要以上に声をかけることはない。

頭の中にあるのは、純粋な技術のシミュレーションだ。相手のリーチ、打撃の軌道、タックルに入るタイミング。

しかし、思考の隙間にふっと「最後なんやな」という言葉が入り込んでくる。

PRIDEのテーマ、背負ってきた日の丸、そしてこれが終われば柔道に戻るという決意。

それらが混ざり合い、いつもより冷たく、澄み切った緊張感が彼女を包んでいた。

試合1時間前。アップを開始する。

シャドーボクシングからレスリングの打ち込み、首相撲の崩し。

「シュッ、シュッ」と鋭い呼気と共に放たれるジャブ、ロー、そしてレベルチェンジ。

真顔のまま身体を温める彼女の内部では、アドレナリンが急速に分泌され、全身の細胞が戦闘へと最適化されていく。

 

試合30分前。オープンフィンガーグローブを装着し手首に赤いテープが巻かれ、オフィシャルによるチェックを受ける。

ワセリンが顔に塗られる冷たい感触。

「もう、逃げられへん」

格闘家なら誰もが感じるその恐怖にも似た感覚を、彼女は正面から受け止めた。

「勝ちたい」という本能と、「これで終わる」という確信。

この入場を、この歓声を、この命を削り合う感覚を、もう二度と味わうことはない。

入場通路に立ち、遠くから『PRIDEのテーマ』のイントロが聞こえて来た瞬間、緊張は極限に達した。それはリングに対する恐怖ではなく、自らの「人生の一区切り」を目の当たりにすることへの震えだった。

しかし、歩き始めた瞬間、彼女は全てを捨てた。

感傷は重荷でしかない。勝って終わる。その一点にのみ集中を切り替えた。体格は恵まれているため自身はあった。

(もう考えてもしゃあない。やるだけや)

オクタゴンに足を踏み入れた時、彼女は最早引退する女性ではなく、ただの捕食者へと変貌していた。

 

試合は激闘となった。

世界最高峰の舞台、対峙する敵のプレッシャー。

しかし、ゴリラ女の集中は一度も途切れなかった。

そして、その瞬間が来る。

組み合いの中で生まれた、僅かな隙。相手の首に、自慢の太い腕が吸い込まれるように巻き付いた。

角度、腕の位置、体重の乗せ方、そしてロック。

長年培ってきたグラップラーとしての直感が、脳内で確信を告げた。

(あ、終わりや)

相手が必死に逃れようとする振動が腕を通じて伝わるが、それは既に無駄な抵抗でしかなかった。

渾身の力で絞め上げた瞬間、相手の手が彼女の身体を力なく叩いた。タップ。

レフェリーが間に割って入り、試合を止める。

その瞬間、会場を揺らす大歓喜の中で、ゴリラ女の聴覚から一瞬だけ音が消えた。

ピンと張り詰めていた心の糸が、音を立てて切れる。

 

勝った。UFCで勝った。引退試合を勝利で飾った。

そして何より――。

(もう、次の試合のことを考えんでええんや)

女子重量級という過酷な環境。決まらないオファーを待ち続け、不安定な未来に怯え、常に次を想定して心身を削り続ける日々。

その戦い続けなければならない緊張から今、この瞬間に解放されたのだ。

ケージの中で勝ち名乗りを受ける彼女の表情は、いつもより少しだけ柔らかかった。

号泣はしない。ただ、静かな達成感が胸を満たしていた。

(やっと、大阪に帰れる)

その頃、天王寺の居間で画面を見守っていた家族もまた、同じ解放感を味わっていた。

ギロチンが決まった瞬間の大歓声は、試合が終わると同時に静かな安堵へと変わる。

「終わったんやな……」

武道家として妹の完全燃焼を感じ取った猿女。

怪我なく、勝ち、そして格闘技という危険な道から生還した娘を見て、心の底から安堵する母。

ゴリラ女の心境は、単純な嬉しいでは言い表せなかった。

巨大な解放感、これから訪れる空白への予感、そして耐え難いほどの疲労。

彼女はセコンドと軽く頷き合い、ゆっくりとオクタゴンを後にした。

その足取りは、世界最高峰の戦士としての誇りと、平穏な日常へと戻る一人の女性としての安らぎに満ちていた。

 

インタビューを受ける彼女の様子を眺めながら、ようやく母が深く、長い息を吐き出した。

「……よかった。ほんまによかった。何日に帰ってくるんかな、あいつ」

母にとって、この数年間は「いつか取り返しのつかない怪我をするのではないか」という恐怖との戦いでもあった。その呪縛からようやく解放された瞬間だった。

猿女はテレビの電源を切り、立ち上がった。

「あいつ、ほんまにやり切りおったな」

同じ武の道を歩む者として、一つの「戦う人生」を完結させた妹への、最大級の敬意。

世界最高峰のオクタゴンで戦う次女を、天王寺の居間で静かに見届けた夜。

外は少しずつ白み始めていた。

数日後、海を越えて帰ってくる彼女を、どんな顔で迎えようか。

「お疲れ様」という言葉と一緒に、いつもの騒がしい夕食を準備しよう。

家族の心は、既にヒューストンから大阪へと戻ってくる彼女の背中を追いかけていた。

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