2020年2月末。ロサンゼルスの空は、相変わらず抜けるように青かった。
UFC 247を一本勝ちで締めくくり、Instagramで現役引退を表明したゴリラ女。そのスマートフォンの画面を閉じると、彼女を包み込んだのは、かつて経験したことのない奇妙な空白だった。
「もう、次の試合はないんやな」
格闘家を定義する「次」という言葉が消えた日常。しかし、世界は彼女が足を止めるのと入れ替わるように、目まぐるしく動き始めていた。
新型コロナウイルス。
最初は遠い国のニュースだと思っていた。だが、2月末のロサンゼルスの街には、確実に異変が混じり始めていた。
スーパーの棚から消え始める除菌剤。増え始めたマスク姿。そして、アジア系である自分に向けられる、刺すような視線。ニュース速報が流れるたび、国際線の運行状況や渡航制限の単語が踊るようになった。
ジムの空気も数日で一変した。
「You should probably go home early.(早めに帰った方が良い)」
いつもは「もっと練習しろ」と笑っていたコーチが、真剣な眼差しで告げた。
「Flights might get restricted soon.(近い内に飛行機が止まるかも知れないぞ)」
その言葉に、彼女の判断は早かった。
「帰れるうちに、帰っとくか」
既に引退を発表し、春からは大学院での研究も決まっている。ここで無理をして異国に取り残される理由は、どこにもなかった。
3月1日の帰国を決め、航空券を手配した。
その瞬間、これまで戦場でしかなかったロサンゼルスが、初めて街として彼女の目に映り始めた。
これまでは練習と試合、格闘技のことしか考えていなかった。
残り少ない数日間、彼女は初めて「普通にロサンゼルスを歩く」ことを自分に許した。
サンタモニカの桟橋を歩き、太平洋を眺める。ハリウッドの雑踏を通り抜け、巨大なスーパーマーケットを目的もなく彷徨う。
しかし、観光客が減り始めた海辺の空気は、どこか寂しげで、「なんか変やな」という不穏な予感を孕んでいた。
夜、静まり返ったアパートの部屋。
英語の洪水に疲れ果てた彼女がスマートフォンで再生するのは、決まって関西のお笑い動画だった。
(……あかん、この喋り方落ち着くわ)
画面越しに聞こえる芸人達の怒鳴り合いや、コテコテのイントロネーション。それが今の彼女にとっては、どんな高価なサプリメントよりも心の栄養になった。UFCファイターとしての緊張が剥がれ落ち、自分の中の「大阪の次女」が少しずつ目を覚ましていく。
食事も、身体が日本を求め始めていた。
「寿司なら行けるやろ」と入った店で出てきたのは、カリフォルニアロールと、甘いソースのかかった創作寿司。
(……違う。これじゃない。食べたいのはこれやないねん)
求めているのは、母が作る茶色いおかず、湯気の立つ味噌汁、そして炊き立ての白い米。スーパーで醤油のボトルや日本のカップ麺を見つけると、それだけで救われたような気持ちになった。
帰国の日時を知らせると母から「帰り気ぃ付けや」と返信が来た。
短いが、暖かく感じられた。
「早く大阪に帰りたいなぁ」
独り言が漏れた。
彼女はアメリカで孤独な寂しさ、総合格闘家を引退した安堵、連日の練習の疲労、大阪に帰りたい気持ちが混ざり、複雑な感情が渦巻いていた。