2020年3月。ロサンゼルスでの最後の一日が始まった。
午前中、ゴリラ女は3ヶ月間通い詰めたジムへと向かった。コーチや仲間たちに最後のアナウンスをするためだ。
「日本に帰ったら、また柔道を頑張ります」
そう告げると、コーチは力強く彼女の肩を叩いた。「お前ならどこへ行ってもやれる。柔道でもトップを目指せ」という励ましが、胸に熱く響いた。
総合格闘家としての荷物しか持っていない彼女に柔道着はない。しかし、彼女はスポーツウェアのまま、マットの上で基礎の再確認を始めた。打ち込み、足捌き、組み手の入り。
(ああ、これや。自分の身体に染み付いてるのは、これなんや)
寝技の形作りや体幹トレーニングを軽く行い、彼女は格闘家としての自分を、一歩ずつ柔道家へと引き戻していった。
昼過ぎにアパートへ戻り、部屋の掃除を始めた。
ゴミを出し、床を拭き、何もなくなった殺風景な部屋を眺める。夕方には、UFCグローブや練習着を詰め込んだ重いスーツケースの整理を終えた。
夜、シャワーを浴びながら、彼女は独り言を漏らした。
「明日帰国か。……前よりタフになれたわ」
鏡に映る体躯は、アメリカの強豪達と渡り合い、更に研ぎ澄まされている。シャワールームを出ると、バルコニーでロサンゼルスの夜景を眺めた。乾いた夜風が火照った肌を撫でる。この景色とももうお別れだ。
翌朝、身支度を済ませてスーツケースのハンドルを握る。
「よし、行くか」
大家に鍵を返却し、ドアを閉める。その「カチリ」という音と共に、3ヶ月の記憶が部屋の中に閉じ込められたようで、少しだけ名残惜しさがこみ上げた。
アパートの前には、ジムの仲間が車で迎えに来ていた。
「空港まで送るよ」
トランクに荷物を積み、後部座席から流れる景色を眺める。窓の外では、現地の人々が当たり前のように日常を過ごしている。
(この人達にはここが日常でも、うちは日本に帰るんやな……)
空港のターミナル前で車を降りると、仲間が右手を差し出してきた。
「日本に帰っても、俺たちは仲間だからな」
差し出された手を握り返し、彼女は別れの寂しさを飲み込んで、ロサンゼルス国際空港の喧騒の中へと進んでいった。
搭乗までの待ち時間、彼女は空港の椅子に座り、家族へビデオ通話をかけた。キャップを深く被り、パーカー姿の彼女の顔には、少しの疲労と大きな安堵が滲んでいた。
画面が繋がった瞬間、次女のチンパンジー女が叫んだ。
「おー! 終わった人や!」
「……終わったわ」
ゴリラ女は力なく笑った。その顔を見て、母が真っ先に身を乗り出す。
「怪我ない? ちゃんと五体満足か?」
「大丈夫や。ピンピンしてる」
短いやり取り。その背後で、長女の猿女が静かに、だが重みのある声で言った。
「……お疲れ」
UFCへの挑戦、引退の決断、異国での孤独。全てを見てきた姉からの、一区切りを認める言葉だった。
「飛行機いつ着くん? ちゃんと寝なあかんで」と現実的な心配をするオランウータン女。
「アメリカどうやった!? 肉デカかった!?」と相変わらずのチンパンジー女。
「……デカかったわ。肉も人も」
雑な返答をしながら、彼女の頬は緩んでいた。
「帰ったら何食べたい?」という母の問いに、彼女は少しだけ考えて答えた。
「……味噌汁。母ちゃんの味噌汁がええ」
「分かった。気ぃつけて帰っておいで」
母の優しいトーンに「うん」と短く返し、通話を切った。
チェックインカウンターでスーツケースを預け、保安検査場でリュックや携帯をトレーに乗せる。アメリカには出国審査がない。「去る者は追わず」と言わんばかりの合理さが、今は心地良かった。
JAL69便。大阪行き。
「3年後は全柔連に復帰して、柔道家や」
意気込みを胸にボーディングブリッジを渡る。機内に入り、日本人CAの「ご搭乗ありがとうございます」という言葉を聞いた瞬間、全身の緊張が解けた。
離陸の瞬間。エンジンの轟音と共に機体が宙に浮く。
その頃、空港の展望台では、ジムの仲間が太平洋の向こうへ消えていくJAL機をいつまでも静かに見送っていた。
機内での12時間、彼女は眠る間を惜しんで柔道の動画を見返し、大学院の入学案内を確認した。
やがて窓の外に、夕日に照らされた日本列島が見えてきた。
関西国際空港に着陸し、機内から出た瞬間、耳に飛び込んできたのは懐かしい関西弁の案内。
「……帰ってきた」
特急はるかに揺られ、見慣れた景色の中を天王寺へと向かった。
実家の玄関のドアを開ける。
「ただいま」
あまりにも普通に、昨日までそこに居たかのようなトーンで言った。
「お帰り!」
オランウータン女が穏やかに迎え、チンパンジー女が「土産は!?」と空気を掻き回す。
母は、無事に帰還した娘の姿を見て、言葉にならない安堵を噛み締めていた。
「早かったな、3ヶ月」
猿女がぶっきらぼうに言うが、その目は妹の完遂を祝っていた。
荷物を置き、実家の匂いを嗅ぎ、家族の騒がしい声を聞く。
「戻ったな……」
数時間前までUFCファイターとして異国にいたことが、まるで遠い夢のように思えた。
風呂に入り、念願の味噌汁と晩飯を食べ、テレビを囲む。そこにはもう、世界最高峰の戦士の姿はなく、ただの「大阪の家の次女」がいた。
時差ボケを感じる間もなく、彼女は数ヶ月ぶりに自分の布団に潜り込んだ。
明日からは、また新しい道が始まる。
天王寺の夜は、どこまでも静かに、彼女の帰還を包み込んでいた。