浪速のボスゴリラ   作:五十嵐 響

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マスターティグリー

2022年3月。大阪体育大学大学院。

修士課程修了の正式な通知を受け取ったゴリラ女は、2年間通い慣れたバイオメカニクスの研究室に居た。

UFCでの激闘に終止符を打ち、30歳という節目を目前にして再び足を踏み入れたキャンパス。そこでの生活も、今日で一つの区切りを迎えようとしていた。

荷物の片付けは淡々としたものだった。

デスクに山積みになったスポーツ科学の専門書を段ボールに詰め、数式やデータがびっしりと書き込まれたボロボロのノートを整理し、ロッカーの私物を空にしていく。

(もうここに来ることもないんやな……。意外と長かったわ)

一息ついた時、隣のデスクで黙々と顕微鏡と格闘している博士課程3年生の背中が目に入った。

(まだ続けるんやな。ほんまに研究が好きなんやろな……)

彼女は、その一途な情熱に対して素直に敬意を抱いた。自分もこの2年間で学ぶことの面白さを知ったが、人生のすべてを研究に捧げる覚悟があるかと言われれば、答えは明確に「否」だ。

自分にとっての主戦場は、やはり畳の上。それを再認識するための2年間でもあった。

「お疲れ様です」

熱心に研究を続けている修士1年生の後輩から声をかけられ、彼女は「おう、頑張りや」と短く返して研究室を後にした。

 

研究室を出ると、満開に近い桜の下を歩いた。

キャンパスには、4月から2年生への進級を控えた1年生達が溢れていた。

キャッキャと騒ぎながら次の教室を探し、サークルの勧誘チラシを物珍しそうに眺める彼らの姿は、あまりにも眩しく、そして若い。

「若いな……。体細いし、何考えてるか丸見えやん」

ふと、18歳当時、この大学の正門を潜ったばかりの自分を思い出す。

あの頃の自分は、ただ強くなること、柔道のことしか頭になかった。将来の人生設計など曖昧で、ましてや自分がプロの格闘家になり、アメリカのUFCのリングに立つなんて1ミリも想像していなかった。

「あの頃には戻れへんな」

ぽつりと呟いたが、そこには感傷も後悔もなかった。むしろ、あの頃に戻りたいとも思わない。

RIZIN、UFC、そして引退からの大学院生活。詰め込めるだけの経験をこれでもかと詰め込んできた、今の自分の人生の密度の方が、余程気に入っていた。

昼時、彼女は学生食堂の凄まじい喧騒の中にいた。

券売機で選んだのは、学生時代から何も変わらない大盛りカツ丼と味噌汁だ。

周囲は新歓の話題や恋愛、バイトの話で盛り上がる若者たちで埋め尽くされている。

(元気やな……。1限から授業出るの、ほんまにめんどかったわ。単位もギリギリやったしな)

断片的に思い出すのは、勉強よりも練習に明け暮れ、泥のように眠っていた10代の記憶。

すると、隣のテーブルの男子学生から、遠慮がちに声をかけられた。

「あの……もしかして元総合格闘家のゴリラ女さんですよね?」

彼はかなりの格闘技ファンらしく、興奮を隠せない様子だった。

「あー、はい。そうですけど」

「やっぱり! UFCの試合、めちゃくちゃ見てました!」

「あーよう知っとるな。ありがとう」

彼から「今は何をされているんですか?」と聞かれ、修士2年生で丁度修了するところだと答えると、更に修了後の進路を尋ねられた。

「4月からは、柔道家に復帰するで」

学生は驚いた顔をしたが、すぐに「応援してます! 頑張ってください!」と握手を求めてきた。

今の自分は、彼ら若い学生から見れば「デカくて落ち着いた、どこか近寄りがたい年上の女性」に映っているだろう。だが、彼女はそんな周囲の視線すら全く気にならなかった。

「色々あったけど、まあ、今は柔道や」

カツ丼を豪快に口に運び、身体にエネルギーを充填する。かつて何者でもなかった時期を経て、今、確固たる自分としてここに座っている。その「時間の重み」を、彼女はサクサクとしたカツの衣と一緒に噛み締めていた。

 

食べ終え、大きな荷物を持って正門へ向かう。

一人で歩く道すがら、体育館や教室棟を一つひとつ見上げた。

柔道の練習での血を吐くような苦しみ、連戦の疲労、引退直後の先の見えない不安、そして大学院での研究の苦悩。その全ての記憶が、このキャンパスの地面に刻まれている。

「まあ、ようやったな。自分」

それは、激動の20代を駆け抜けた自分自身に対する、短くも最大の賛辞だった。

校門を出る直前、彼女は一度だけ立ち止まり、数秒だけキャンパスを振り返った。

学部生としての4年間、そして院生としての2年間、合計6年通ったキャンパス。しかし、それは青春を懐かしむような甘い未練ではない。ただ、自分の人生の確かな一区切りが、ここに刻まれたことを確認しただけだ。

前をしっかりと見据え、彼女は再び歩き出す。

そこには、学問という新たな鎧を纏い、精神的にも肉体的にもより強くなった一人の「柔道家」の背中があった。

 

それから数日後。世間の騒がしさとは裏腹に、ゴリラ女は連日、修道館クラブでの柔道の練習に明け暮れていた。頭の中は既に1年後の完全復帰に向けた身体作りのことでいっぱいで、正直、式のことは完全に意識から抜けていた。

「あんた、明日は修了式やで。ちゃんと準備してるん?」

家に帰宅した際、母からそう言われて初めて思い出した。

「あ、そっか。明日で学生も終わりか」

修了式前日の彼女は、普段より少しだけ落ち着かない雰囲気を醸し出してはいたものの、表面上はいつも通り、至って普通に振る舞っていた。ただ、見守る家族の側には「流石にこれで一つの大きな節目やな」という独特の空気が漂っていた。

リビングに重い道具袋を置き、クローゼットから黒いスーツを引っ張り出す。サイズを確認し、大学院から届いていた修了式の案内状に目を落とす。普段の、道着とプロテインに囲まれた柔道中心の生活とは全く違う実務的な作業。

「明日で完全に終わりか。朝早いの嫌やな。スーツも窮屈で面倒くさいわ」

口から出るのはそんな愚痴ばかりだったが、その実務感覚の裏側には、「これで本当に、学校と呼ばれる場所に行く生活が完全に終わるんだ」という静かな実感が、じわじわと胸に広がっていた。

台所から母が声をかける。

「スーツ、ちゃんとシワ伸びてる? 明日寝坊せんようにしや。あと、式が終わったら写真くらい撮るん?」

あれこれと口うるさく生活面を気にしてくる母の顔は、どこか嬉しそうだった。

長女の猿女は、警察官らしい厳格さを崩さないまま、お茶を啜りながら言った。

「よう2年間で修了したな。結局、ちゃんと最後まで学校卒業するんやな、あいつ」

猿女の脳裏には、ゴリラ女の大学4年後期に起きた「20単位ギリギリ事件」の記憶があった。あの綱渡りだった妹が、今や修士論文を書き上げて卒業しようとしている。不器用ながらに、少しだけ感慨深そうだった。

三女のチンパンジー女は、相変わらずの調子で茶化してくる。

「修士とかほんまようやるわ。てか、まだ学生やったんか感あるな」

言葉は軽かったが、UFCという世界の頂点を見た直後に、全く未知の大学院という環境に飛び込み、やり切った妹のことを、内心では普通に尊敬していた。

四女のオランウータン女は、一番穏やかな笑みを浮かべて彼女を見た。

「おめでとう。明日はちゃんと写真撮ろうよ」

その日の夕食の空気は、普段と変わらない大盛りの食卓でありながら、どこか特別なイベント前の高揚感に包まれていた。もちろん、この武道一家のこと、感動的に涙を流すような湿っぽい演出などあるはずもない。

食後、ゴリラ女は自室でスーツの準備を整え、明日の会場の場所と提出書類を確認した。

「あー、やっぱりスーツ着るんめんどいな……」

ベッドの上に広げられた黒い服を見ながら、少しだけ本音を漏らす。

しかし、夜、布団に入って部屋の明かりを消した時、天井の暗闇の中に、様々な景色が断片的に浮かんでは消えた。

大学での柔道漬けの日々、プロレスラー時代、無職、RIZIN、ロサンゼルスの乾いた風、UFCの金網の感触。そして、この2年間の講義と道場通い。その全てが、明日という日で完全に過去のものになる。

「……まあ、寝るか。明日は明日や」

ごわごわとした使い慣れた布団を被り、彼女は目を閉じた。

家族が抱く少しの特別感と、本人が胸に抱く静かな区切りの予感。

天王寺の夜は、世界を渡り歩いた戦士の最後の学生生活を、静かに、優しく締め括ろうとしていた。

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