2003年3月。小学校の卒業式を終え、そのまま春休みに入った。
中学校への入学を控えた春休み。世間の同級生達が塾の春期講習や新しい部活動への期待に胸を躍らせる中、彼女の日常は、道場と自宅を往復するだけの単調なものだった。
そんなある日、長女の猿女が唐突に言った。
「あんた、中学校入るんやろ?祝いや。食いに行くぞ」
連れて行かれたのは、近所の回転寿司だった。
母子家庭の食卓は、いつも質素な野菜炒めや安価な鶏肉が中心だった。魚と言えば、焦げた塩鮭か、特売の干物。生魚という選択肢は、彼女の12年間の人生において、どこか遠い世界の食べ物だった。
「これ、食べてみ。美味いぞ」
猿女が差し出したのは、鈍い光沢を放つ赤い身が乗った一皿だった。
「何やこれ」
「鮪や。ええから黙って食え」
一切れ、口に放り込む。
瞬間、彼女の脳内で何かが弾けた。それまで食べてきた食事とは明らかに次元の違うものだということを感じた。
「……美味いな」
その一言が、彼女の飢餓感に火をつけた。
それからの彼女は、取り憑かれたように食った。一皿、また一皿。重なる皿の山は、彼女の骨格を更に太くし、筋肉に密度を与えていった。
身体が大きくなる。力が漲る。
柔道の練習でも、それまでは「重い」と感じていた相手が、まるで紙切れのように軽く感じられるようになっていた。彼女の肉体は、この味を知ったことで、真の意味でのゴリラへと進化を始めたのだ。
2003年4月。大阪市立高津中学校の入学式。
校門の前には親に付き添われた新入生達が、まだ身体に馴染まないぶかぶかの制服に身を包んで並んでいた。
その整然とした列の中に、明らかに異質な存在が一つあった。
白い道着。腰には使い込まれた黒帯。そして、アスファルトを直に踏みしめる、大きな素足。
鞄すら持たず、彼女はただ道着を着たまま、堂々と校門を潜った。
「……何や、あれ」
「柔道部の子か? でも、何で道着なん」
新入生も、保護者も、受付の教師たちも、一様に言葉を失った。
「制服はどうしたの?」
一人の先生が恐る恐る声をかけるが、彼女は止まらない。
「制服? 窮屈やし、これでええやろ。すぐ練習できるし」
悪びれる様子もなく、彼女はそのまま体育館の最前列へと進んだ。
この日を境に、彼女の「伝説」が始まった。そして、そのスタイルは卒業までの3年間、一日たりとも崩れることはなかった。
中学校生活が本格的に始まっても、彼女は周囲と同化することを拒んだ。
それどころか、彼女はある習慣を放棄した。
風呂に入らなくなったのだ。
理由は特にない。ただ毎日道場で汗を流し、疲れ果てて帰宅する中で、湯船に浸かったり身体を洗ったりする工程が、あまりにも非生産的な作業に思えただけだった。
「別に、誰かに迷惑かけてる訳やないしな」
それが彼女の言い分だった。
しかし、現実は残酷だった。
数ヶ月もすれば、彼女の道着は汗と皮脂を吸い込み、独特の重みと色を帯び始めた。白かった布地は襟元からじわじわと黒ずみ、帯は幾千回もの組み合いを経て、白く色褪せて行く。
彼女が廊下を歩けば、獣のような野生の匂いが漂う。
クラスメイトたちは、いつしか彼女の周囲に目に見えない境界線を引き、彼女が近づくと静かに道を空けるようになった。
授業中、彼女が椅子に座っていることは稀だった。
「はい、教科書開いて」
数学の先生が黒板に向かった瞬間。
「ブッ」
野太い放屁の音が響く。
「……おい! 誰や今の!」
先生が振り返る。彼女は平然としていた。
「何でもないです。生理現象やし」
「廊下に出ろ!」
そう怒鳴られると、彼女は待ってましたと言わんばかりに立ち上がる。だが、向かうのは廊下ではない。教室の後方、掃除用具入れの前の僅かなスペースだ。
彼女は腕立て伏せを始めた。
ドン、ドン、ドン。
「お前、何してんねん!」
「練習です。受身やらないと身体が鈍るんで」
「ここは教室や! しかも授業中やぞ!」
「知りません」
どんなに叱責されても、彼女は止めなかった。彼女にとって学校のカリキュラムなど、柔道の合間の休憩でしかなかった。
当然、成績は壊滅的だった。
テストの時間は、彼女にとっての睡眠時間だ。
名前だけを書き、残りの時間は机に突っ伏して眠る。答案用紙を返される際、そこに並ぶ0の数字を見ても、彼女の心は一ミリも動かなかった。
「お前な……やる気あんのか?」
「ないです。柔道以外興味ないんで」
担任の溜め息は、3年間で数えきれないほど積み重なっていった。
そんな彼女を変えたのは、当時日本中を熱狂させていた格闘技ブームだった。
当時MMAの世界最高峰と呼ばれた日本の団体『PRIDE』のテレビ放送。
ヴァンダレイ・シウバの狂気的なラッシュ。アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラの、魔法のような関節技。
「これや……」
彼女の目が輝いた。
講道館柔道が教える「美しき一本」など、彼女にはどうでも良かった。
相手を壊し、沈め、屈服させる。その純粋な暴力性に、彼女は己の魂が共鳴するのを感じた。
道場での練習スタイルも一変した。
立ち技の攻防を早々に切り上げ、自分から床に飛び込む。
相手の腕を掴み、脚を絡め、関節を極めに行く。
「おい、それは柔道じゃないぞ!」
指導者達の批判は耳に入らなかった。
反則でなければ、何をしてもいい。勝てばいい。
彼女は柔道のルールという名の檻の中で、可能な限り「野性」を爆発させる方法を模索し始めた。
2005年、3年生の夏。彼女は全国中学校柔道大会に出場した。
会場となる大きな体育館。全国から集まった猛者たちの熱気。
しかし、彼女の心は凪のように静かだった。
試合前、対戦相手の目をじっと見る。
(これは、勝てるわ)
小学校時代の根拠のない自信ではない。
3年間、風呂にも入らず、授業も受けず、ただひたすらに自分の肉体を鍛え上げて来たという自負があった。
試合が始まる。
「始め!」
審判の合図と同時に、彼女は弾かれたように前に出た。
相手が組もうとする手を叩き落とし、強引に襟を掴む。
力だけではない。そこには、練習の中で密かに磨き上げて来た、相手のバランスを崩す「技術」が備わっていた。
一瞬の隙。彼女は腰を深く沈め、相手を宙に舞わせた。
一本。
勝ち進む度に、観客席からはどよめきが上がった。
「あの黒ずんだ道着は何だ」
「あんなスタイルの柔道、見たことがない」
決勝戦。
息は荒く、全身から汗が噴き出している。だが、彼女の足は止まらなかった。
相手を寝技に引きずり込み、万力のような力で絞め落とす。
審判の手が上がった。
全国優勝。
日本一の称号を手にした瞬間、彼女が最初にしたことは、歓喜の咆哮でもガッツポーズでもなかった。
ただ、静かに立ち上がり、汗を拭い、道着を正したことだった。
「……腹減ったな」
その時、彼女の頭に浮かんだのは、中学校入学前に食べた、あの寿司の味だった。
全国優勝という実績を提げても、彼女の学校での扱いは変わらなかった。
「優勝したからって、勉強しなくて良いと思うなよ」
教務室で、担任が分厚い補習プリントを突き出す。
「……必要ないんで」
「阿保か! 義務教育やぞ!」
ゴリラ女は渋々とプリントを進めた。
大会が終わると進路について耳にすることが増えた。
彼女は敬愛女子高等学校、三田松聖高等学校、夙川学院高等学校を検討していた。
三者面談で担任が資料を広げる。
「実力的には、どこでも選べる。お前、どこに行きたい?」
「敬愛女子です」
「……敬愛女子か。確かに強いが、お前ならもっと上の、寮がある名門でも……」
「寮は嫌です。集団生活なんか出来へんし、家から近いのが一番ええ」
「毎日続けられるんはどこ?」と母が聞くと、彼女は迷わず答えた。
「敬愛女子。30分で行ける」
「まあ、三田松聖も夙川学院も兵庫県にあるし遠いよな。確かにお前の性格的に家から通える学校の方が親御さんも安心するな」
担任も同調した。
2006年3月。卒業式。
彼女は3年間着古した、最早灰褐色に近い道着を纏い、素足で壇上に上がった。
校長から手渡された筒を、大きな手で掴む。
「お前はほんまに、最後までお前やったな」
担任の言葉に、彼女は少しだけ口角を上げた。
「そうですね」
校門を出る時、一度だけ振り返った。
鉄筋コンクリートの校舎。あそこで流した汗。
だが、感傷に浸る時間はなかった。
ゴリラ女としての本番は、これから始まるのだ。