2022年3月17日。長かった学生生活に真のピリオドを打つ、修了式の朝がやってきた。
会場はリッツカールトン大阪。大阪市北区梅田に位置するため、天王寺区から通うゴリラ女にとっては、大学の熊取町キャンパスへ向かうよりも遥かに近かった。
コロナ禍による厳格な入場制限のため、保護者の来場は禁止されておりオンライン配信での視聴のみ。午前と午後の2部制で執り行われることになっており、彼女は10時00分から10時45分の「大学院伝達式」、そして11時00分から11時35分の「大学院修了式・大学卒業式」の双方に出席する予定だった。
朝、目覚めた時の感覚は、いつもと変わらない至って普通のものだった。
洗面所で顔を洗い、母が作った山盛りの朝飯を胃袋へ流し込み、淡々と身支度を進める。この時点ではまだ、特別な日だという実感は殆ど湧いていなかった。
「今日修了式やろ? 遅刻せんようにな」
キッチンから母の声が飛ぶ。
「分かってる。梅田やしすぐ着くわ。大丈夫や」
そうぶっきらぼうに返した。
しかし、ハンガーに掛かっていた黒いスーツに袖を通し、鏡の前に立った瞬間、胸の奥にこれまでとは違う妙な感覚が湧き上がってきた。
袖を通すのは、柔道着ではない。激しい息遣いを伴う練習に向かうわけでもなく、殺気立ったケージでの試合に臨むわけでもない。
(……修了式か)
スーツに着替えると、じわじわと実感が込み上げてくる。
(これで、ほんまに学生が終わりなんやな)
ジャケットを羽織りながら、自らの足跡を断片的に思い返していた。
「結局、うちって何年この大学に通ったっけ。学部で4年、院で2年。トータル6年か。1度離れたのに、結局またここに戻ってきたんやな」
彼女が住む家の朝は、いつも早い。
警察官の猿女、ALSOKに勤務するチンパンジー女、大阪ガスでリモートワークをこなすオランウータン女、そして家族を支える母。武道と大企業、治安維持という、社会の骨組みを支えるような人間達が集まる我が家。その慌ただしい朝の光景の中で、ゴリラ女もまた、いつもとは違うスーツ姿で静かに並んでいた。
その瞬間、言葉に出来ない奇妙な違和感が彼女を襲った。
普段の自分と言えば、年中ジャージかトレーニングウェア、あるいは白く分厚い柔道着姿だ。それが今日は、世間一般の会社員と寸分変わらないフォーマルな格好をしている。
姉妹達がそれぞれの仕事場へ向かう準備を進める中、自分だけは修了式という特殊な目的地へ向かっている。
(……うちだけ、なんか全然違う道を歩いてるな)
姉妹達の背中を見送る瞬間にそう思ったが、直後に小さく自嘲気味な笑みが浮かんだ。
(まあ、昔からそうやったか。うちだけプロレス行ったりアメリカ行ったり、まともなレールなんか歩いたことないわな)
玄関で靴を履き、家を出る。
手に持つのは、分厚いプロテクターや重い道着が詰まったスポーツバッグではなく、書類用の小さなカバンだ。いつもの練習に向かう朝のような、「これから戦いに行く」という張り詰めた殺気はどこにもなかった。
近所の鶴橋駅から大阪環状線へと乗り込む。
車内の窓から外を流れる景色を眺めながら、通勤する社会人や通学する学生達の群れを目にする。
(うちは今、どこの分類に属してるんやろな)
学生としては今日が最後の日。かといって、4月からどこかの会社組織に所属する新社会人になる訳でもない。自分は再び、何者にも縛られない「柔道家」という孤高の競技者に戻るのだ。
そんな不思議な浮遊感を感じながらも、大阪駅が近づくにつれて彼女の心は完全に定まった。
「まあ、今日はとにかく、あの2年間をちゃんと終わらせる日や」
かつてないほどに落ち着いた、静かな覚悟の朝だった。
大阪駅で下車し、御堂筋周辺の都会の空気に身を浸す。
朝の梅田は、リクルートスーツを着こなしたサラリーマンや、華やかな正装に身を包んだ他校の学生達で溢れかえり、街全体が独特のイベント感に包まれていた。林立する超高層ビル群の間を、歩き慣れないパンプスで一歩ずつ進む内に、「今日は本当に式なんだ」という現実味が急速に厚みを増していく。
ホテル街へと進み、リッツカールトン大阪の重厚なエントランスを潜った。
自動ドアが開いた瞬間、空気の密度がガラリと変わった。
足裏に伝わる毛足の長いフカフカの最高級カーペット、天井から静かに煌めく巨大なシャンデリア、洗練された静寂を保つロビー、そして隙のない所作で佇むスーツ姿のホテルスタッフ達。
(……すご。何やここ、歩きづら。床柔らか過ぎやろ)
率直な物理感覚と共に、強烈な「場違い感」が彼女の大きな身体を襲った。
周囲の学部生達は、豪華な内装をバックに写真を撮り合ったり、付き添ってきた親と笑顔で談笑したりと、最高級ホテルの空間を存分にはしゃぎながら楽しんでいる。
しかし、ゴリラ女はそんな喧騒から少し距離を置き、1人静かに歩を進めた。
内心中はかなりソワソワとしていたが、世界最高峰のケージを経験してきた彼女のポーカーフェイスが、その動揺を完璧に覆い隠していた。無言のまま周囲の配置を確認し、案内板に目を走らせ、落ち着いた足取りで受付へと向かう。
普段の熊取町のキャンパスは、土の匂い、流れる汗、冷たいコンクリートの階段移動、そして畳の擦れる音が日常の全てだった。それが今日は、高級な香水の香りと、静かで気品ある空気、豪華絢爛な内装に囲まれている。
(ほんま、別世界やな……)
格闘技の試合会場という殺伐とした緊張感には死ぬほど慣れている彼女だったが、こうしたお上品でフォーマルな「格式ある空間」には、どうにも勝手が違って落ち着かない。
しかし、持ち前のタフな適応力がすぐに頭をもたげた。
(まあ、どうせ今日だけのことやしな。大人しく椅子に座っとけば終わるやろ)
そう気持ちを切り替えると、彼女は深く息を吐き、堂々と会場の奥へと入っていった。
9時45分。静寂に包まれた広間で、まずは大学院の学位記伝達式が始まった。
集まった院生達が1人ずつ名前を呼ばれ、壇上で重みのある学位記を受け取っていく。ゴリラ女もその巨体を揺らしながら登壇し、丁寧に頭を下げて証書を受け取った。
席に戻り、そっと学位記を開いてみる。そこには、力強い文字で「修士(スポーツ科学)」と刻まれていた。
30歳を過ぎてから死に物狂いで英語の論文を読み漁り、数式と格闘し、データ分析に頭を悩ませた2年間の結晶が、確かにその1枚の紙に凝縮されていた。
伝達式が滞りなく終了すると、11時00分から、大学卒業式と合同の「大学院修了式」が華やかに幕を開けた。
会場の座席配置は、前方ブロックに大勢の学部卒業生達が詰めかけ、大学院生達は自然と後方のブロックに集められる形になっていた。
31歳になった彼女の周囲を見渡せば、居るのは20代前半の若い学部生ばかり。色鮮やかな袴姿の女子学生や、まだスーツを着慣れない男子学生たちが、嬉しそうに肩を寄せ合っている。
ゴリラ女は、その後方ブロックの席から、前方の賑やかな光景を静かに見つめていた。
(若いなぁ。みんな元気やし、ほんま楽しそうやわ)
そこには、純粋な客観の視点があった。
前の席ではしゃぐ学部生達は、これから初めて本格的に社会へと飛び出し、就職し、新しい生活をスタートさせる。希望と少しの不安に満ちた、まさに人生の旅立ちの瞬間だ。
しかし、後ろに座るゴリラ女という人間の人生の段階は、彼らとは全く異なっていた。自分はすでに一度社会へ出て、プロレスやRIZIN、世界最高峰のUFCという過酷な戦場を生き抜き、一度は引退という終止符まで経験している。その上で、もう一度自らの意志で学び直すために、この大学院へ戻ってきたのだ。
博士課程へと進み、学問の道を極める極一部の人間を除けば、多くの人にとって学校という場所はこれで本当の最後になる。
(学生っていうより、うちは完全に『戻ってきた側』やな……)
式の最中、前方の学生たちがヒソヒソと楽しそうに私語を交わし、スマホで写真を撮ろうとソワソワしているのを、彼女は微動だにせず、静かに見守り続けた。
(これで、学校っていう場所にはもう二度と戻ることはないんやろな。ほんまに、完全に終わりや)
ふと、女手一つで自分達4姉妹を育て上げてくれた母の顔が浮かんだ。
母子家庭という決して裕福とは言えない環境で育ち、力だけを頼りに生きてきた自分が、今、このリッツカールトンという格式高い超高級ホテルの広間に立ち、修士の学位を授与されている。
胸の奥で、誇らしさと、ほんの少しの照れ臭さ、そして未だに残る不思議な違和感が、複雑に入り混じっていた。
(……うちが、こんな場所に居るんやもんな)
若い学部生達の後ろ姿を遠くから見つめながら、彼女は自分が歩んできた道程の長さを、その胸の内で静かに、しかし深く噛み締めていた。
式典の全行程が終了した後、彼女は共に修羅場を潜り抜けた研究室のメンバーや、厳しくも温かく指導してくれた先生達と梅田の街へ繰り出し、細やかな飲み会を開いた。2年間の苦労を笑い飛ばし、互いの未来を祝し合う温かい時間。お世話になった教授から激励の言葉を受け、深く感謝を伝えて固い握手を交わした。
すっかり夜も更けた頃、ゴリラ女は天王寺の実家へと帰宅した。
カバンには修士の修了証書、手にはお祝いの小さな花束や紙袋。身体からはほんのりと、居酒屋の酒の匂いが漂っている。普段の、汗と道着の匂いに塗れた柔道帰りの姿とは、何もかもが違っていた。
ガチャリと玄関のドアを開けて家に入る。
「おかえり。終わったん?」
リビングの奥から、母のいつも通りの平淡な声が聞こえてきた。あまりにも自然な、日常のトーン。
「おう、終わったわ」
彼女の返事も、相変わらず短かった。
リビングへ入ると、テレビがいつも通りの音量でついており、姉妹の誰かが風呂上がりの姿でソファでくつろいでいる。どこにでもある、我が家のありふれた夜の光景。
しかし、家族全員が「今日はこの家にとって、少し特別な日だ」ということを、言葉にせずともちゃんと理解していた。
まず口を開いたのは、長女の猿女だった。
「おいおい、修士様のお帰りやん。えらい格好やな」
警察官らしいぶっきらぼうさでニヤリと軽く弄ってきたが、すぐにビール缶を片手に短く付け足した。
「まあ……お疲れさん。ようやったな」
不器用ながらも、妹の偉業をしっかりと認める言葉だった。
続いて、三女のチンパンジー女が興味津々といった様子で身を乗り出してきた。
「なァなァ、飲み会どうやったん? 先生とか泣いてへんかった? 写真とかないん?」
「別に。普通や。みんな淡々と飲んでただけやわ」
ゴリラ女は相変わらず素っ気ない態度で応じる。
そんな姉達のやり取りを見ながら、四女のオランウータン女が一番素直な笑みを浮かべて歩み寄ってきた。
「おめでとう、お姉ちゃん。明日、証書見せてね」
その様子を静かに見守っていた母が、ふと、お茶を淹れながらぽつりと本音を漏らした。
「……長かったなぁ、ほんまに」
その一言には、大学入学からの4年間、3年間の会社員生活、プロレスの解雇、先が見えなかった無職、MMAでの命懸けの激闘、突然の引退、そこからの大学院への挑戦、そしてこれからの柔道復帰。娘が歩んできた、波瀾万丈過ぎる全ての道のりに対する、母としての深い思いが込められていた。
自室に戻り、窮屈だったスーツを脱ぎ捨て、着慣れたいつものスウェットとTシャツに着替えた瞬間、彼女の胸に最も強い実感が押し寄せてきた。
(終わった。ほんまに、全部終わったんやな)
研究室の仲間達との別れを告げ、学生、修士、院生という全ての肩書が、今この瞬間に完全消滅したのだ。
しかし、一歩部屋を出れば、そこには温かい飯があり、温かい風呂があり、下らないことで騒いでいるいつもの家族が居る。
立場は変わっても、自分の帰るべき場所は何一つ変わらないまま、そこにあり続けている。その圧倒的な事実が、今の彼女をこの上なく安心させていた。
深夜、布団に入って部屋を暗くした後、彼女は枕元に置いた修了証書の入った筒と、クローゼットに掛けられたスーツをぼんやりと見つめた。
(ほんまに終わったんやな……。明日からは、またただの柔道家や)
静かな余韻が心地よく身体を包み込んで行く。
人生の大きな、本当に大きな区切りの日。
しかし、家に帰れば変わらない日常が待っている。その絶対的な安心感を背に受けながら、学問という無敵の鎧を纏った200kgの柔道家は、1年後の畳の上での大暴れを夢見ながら、深く、静かな眠りへと落ちていった。