浪速のボスゴリラ   作:五十嵐 響

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浪人柔道家

2022年4月。大阪体育大学大学院スポーツ科学研究科の前期博士課程を修了した彼女は、再び何者でもない日常へと戻った。

学生という便利な肩書きは消え去った。しかし、彼女の手元には30代にして血の滲むような努力で手に入れた最強の武器――バイオメカニクスと解剖学の緻密な知識が、確かな財産として残っていた。

 

全日本柔道連盟が定めたプロからの復帰制限が完全に解けるまであと1年。

彼女は引き続き大阪市中央区、大阪城の袂にある修道館クラブの練習生として、日々黙々と畳に向き合っていた。公式戦にはまだ1試合も出られない。だが、周囲から見れば一見不毛とも思えるこの最後の空白の1年こそが、彼女を真の怪物へと変貌させる決定的な時間となった。

 

「出稽古、行かしてもらうで」

公式戦への出場を禁じられている彼女は、溜まり続ける戦闘衝動をぶつけるように、近隣の大学柔道部から実業団、更には地元の強豪道場まで手当たり次第に様々な道場を渡り歩いた。

7年という途方もないブランクがありながら、彼女が何より重視したのは、20代の頃のような力任せの強引な制圧ではなかった。大学院で叩き込まれた「技の再現性」と「運動効率」の徹底的な追求である。

乱取りの最中、彼女の脳は常にフル回転していた。

相手が引く。その瞬間に生じる重心の移動ベクトル、支点の位置、そして崩しの角度。

(……今や。ここが一番効率ええ)

以前の彼女なら、強引に組んで圧倒的な腕力だけで振り回していたであろう場面。しかし今の彼女は、最小限の力で相手のバランスを完璧に奪い去り、骨組みの連動を利用した絶妙なタイミングで足を払う。

「大学院の経験、ほんまに活きとるな……」

組み合った瞬間に相手の身体の構造が、強さの底が透けて見える。100%の力が必要なのは、最後のトドメを刺して畳に叩き付ける一瞬だけで良い。効率を極限まで突き詰めたその動きは、無駄な体力の消耗を劇的に減らしていた。

更に世界最高峰のケージで培ったMMAの経験が、彼女の寝技を完全に異次元の領域へと押し上げていた。

腕挫十字固を仕掛ける際、どの角度で、相手のどの位置に支点を置けば、最小のエネルギーかつ最短の軌道で肘関節が伸び切るか。大学院で修めた解剖学的な理解が、極めの精度をミリ単位で高めていく。

首を狩る裸絞(リアネイキッドチョーク)は、頸動脈への圧の入り方を精緻に意識し、腕力ではなく「人間の身体の構造」によって、音もなく相手を落とす。

 

「……何か、柔道が変わったな」

出稽古先の現役学生や実業団の選手達が、恐怖を通り越して驚愕する。かつては荒々しい野生のゴリラそのものだった彼女の柔道に、今は冷徹な科学の計算が宿っていた。

それでも、技術の蓋を外せば最後は規格外のパワーで強引にマットへ叩き付ける。その冷徹な知性と、圧倒的な野生のハイブリッドな融合こそが、修士を経た今の彼女の真骨頂だった。

 

2023年3月。遂にその日がやって来た。

プロ格闘家を引退してから丁度3年。全柔連への復帰申請が正式に承認されたのだ。

32歳。今が全盛期だ。肉体の生体力学をコントロール出来るようになった今の彼女は、柔道家として正に今が全盛期だと確信していた。7年のブランクがあるものの、寧ろプロレスやMMAで身体を酷使し、精神的に擦り切れて一度引退を選んだ25歳の頃の自分より、何倍も強い気がしてならなかった。

 

修道館クラブの選手として登録された日、彼女は復帰戦に向けて新しい柔道着を新調した。

これまでは所属も名前も何も書かれていなかった、無機質な真っ白の道着。その胸元に「JOS」の力強い刺繍が美しく入った時、胸の奥から言葉に出来ない熱いものが一気に込み上げて来た。

(やっと戻って来た。うちの居るべき場所に、やっと……)

 

鏡の前に立つ。

32歳の柔道家。

中学校時代は道着を着たまま登校して周囲を呆れさせ、高校では授業中に爆睡し、大学では4年後期の土壇場で留年の危機に直面した。社会人になってからは関西電力を経験し、そこからレールを外れてプロレスで暴れ、MMAのリングで世界一を目指してアメリカへ渡った。

その全ての破天荒な道程、流した汗と血の全てが、今のこの分厚い胸板と、獲物を捉えるような鋭い眼光に凝縮されている。

 

復帰第一戦は、6月の実業団の大会に決まった。

見据える目標はただ一つ。全日本選抜体重別選手権、そしてその先にある世界の頂点だ。

「待たせたな」

誰もいない夜の道場で、彼女は裸足で畳を力強く踏みしめた。

32歳の新人。かつて柔道界の問題児と呼ばれたあの暴風は、大学院という知性の檻を経て、今、最も理性的で、最も危険な「柔道家」として、再び戦場へと解き放たれる。

公式戦のゴング……いや、審判の「始め!」の声が、今から楽しみで仕方がなかった。

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