2023年6月。どんよりとした梅雨空の下、大阪市城東区にある講道館大阪国際柔道センターの門を、彼女は一人の選手として潜った。
総合格闘家としての狂騒と熱狂から離れ、全柔連への再登録が正式に認められてから4ヶ月。32歳になったゴリラ女が、遂に公式戦の畳へと戻ってきたのだ。
出場する大会は「第31回大阪府女子柔道体重別選手権」。同時に、第78回国民体育大会の大阪府代表選考会も兼ねた、関西のトップクラスが集う極めてレベルの高いトーナメントである。
彼女が挑むのは女子無差別級。そこには、彼女より一回りも若い20代前半の大学生や、大阪府警の警察官、実業団所属の現役バリバリの猛者達が、牙を研いで待ち構えていた。
選手控え室に入り、新調した修道館の刺繍が輝く白い道着に袖を通すと、独特の鋭い緊張感が肌を刺した。
ピンと張り詰めた空気、道着が擦れ合う乾いた音、そして張り詰めた審判の視線。
(……懐かしいな、この感じ)
プロのケージのような爆音の入場曲も、ド派手なライトアップもここにはない。あるのは厳かな静寂と、礼に始まり礼に終わる厳格な武道の規律。その静かな闘争の場に、彼女の魂は静かに歓喜し、打ち震えていた。
無差別級のトーナメントは、4回勝てば優勝となる。
初戦、畳の上に上がった瞬間、ゴリラ女の戦闘スイッチが完全に切り替わった。
「始め!」
審判の鋭い声と共に、彼女は低く、かつ地響きがするほど力強く踏み出した。相手は20歳前後の血気盛んな大学生。勢いよく組み付いて来る若き才能に対し、彼女は大学院の2年間で叩き込んだバイオメカニクスを即座に適用した。
崩しの角度、力学的な支点の操作。無駄な腕力を1ミリも使わず、相手の重心がほんの少し浮いた刹那、極太の腕で一気に引き付け、完璧な軌道で畳へ叩き付けた。
「一本!」
館内に重い衝撃音が響き渡る。続く2回戦も、アメリカのUFCで磨き上げたMMA仕込みの強烈な寝技でグラウンドへ引きずり込み、正確無誤な抑え込みで完勝。7年のブランクを一切感じさせない圧倒的なパワーと、かつての野獣時代にはなかった理知的な立ち回りに、会場の目の肥えた指導者たちの目が釘付けになった。
そして迎えた準決勝。相手は並み居る強豪を倒して来た大阪府警所属の現役選手だった。
ガッチリと組み合った瞬間、ゴリラ女の肉体に、これまでとは明らかに違う壁のような重い圧力が伝わって来た。
(……強いな。流石は毎日職務で鍛えとる警察官や)
一進一退の息詰まる攻防が続く中、彼女は大学院仕込みのロジックでチャンスを伺った。一瞬、相手の体勢が崩れたように見えたが、相手もまた大阪府代表の座をかけて死に物狂いで耐えて来る。
大学院でのトレーニングの成果もあり、スタミナ自体は全く問題なかった。だが、7年という公式戦の試合勘の差が、ほんの数センチの間合いのズレとなって現れた。その一瞬の隙を突かれ、技ありを奪われてしまう。
最後までそのポイントを取り返そうと、鬼気迫る表情で攻め続けたが、無情にもタイムアップのブザーが館内に鳴り響いた。
結果はベスト4。
関西電力の頃以来の復帰戦での優勝には、あと一歩届かなかった。
中央線から森ノ宮で乗り換えた帰りの大阪環状線。夕方のラッシュで混み合う車内、ゴリラ女は窓の外を見つめていた。
車窓の向こうには、夕闇に包まれつつある見慣れた天王寺の街並みが広がっている。
(ベスト4か……。あそこ、もう一歩引いて崩せばいけたな)
7年もの長いブランクを考えれば、初戦で一本負けして消えてもおかしくない過酷なトーナメントだ。その中でベスト4まで勝ち進んだという事実に、確かな手応えと喜びはあった。しかし、それ以上に負けたという厳然たる事実が、彼女の胸の奥にある闘争心に激しい火を付けた。
ゴリラ女として本能のままに暴れ回っていた10代、20代前半の頃の彼女なら、負ければただ悔しさに塗れて荒れ狂っていたかも知れない。
だが、今の彼女は違う。負けた明確な理由をバイオメカニクスと試合映像から客観的に分析し、次に向けて修正出来る知性がある。そして何より、再び大好きな柔道が出来る喜びを心の底から噛み締める精神的な余裕があった。
天王寺の実家の玄関を開けると、使い古したスポーツバッグと、戦いを終えた泥臭い匂いのする柔道着がそこにあった。
「ただいま」
短く言い、彼女は自分の部屋で道着を解きながら、再び前を見据えた。
今回のベスト4によって国体への道、そしてその先にある全日本選手権への道は、確かに繋がった。
32歳の新人柔道家、ゴリラ女の第2の挑戦は、まだ始まったばかりだ。
かつて純粋な野生だった獣は、今、大学院という知性を経て、理性を纏った真の武道家へと進化した。