浪速のボスゴリラ   作:五十嵐 響

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アルバイト

2023年6月の復帰戦でベスト4という結果を残し、柔道家としての確かな一歩を踏み出したゴリラ女。しかし、華々しい再スタートの裏で、彼女は極めて現実的な問題に直面していた。

金がない訳ではない。RIZINや、世界最高峰のUFCで死線を潜り抜けて得たファイトマネーの蓄えは十分にあった。普通に暮らす分には、暫く生活に困ることはない額だ。だが、企業に所属して毎月安定した給与を得ていた関西電力時代や、スポンサー契約のあったプロ時代とは違う。現在の彼女は純粋なクラブチームの所属であり、柔道による収入は1円もなかった。

毎月、家賃や光熱費、食費によって、銀行口座の数字がただひたすらに減っていく。その引き算だけの生活は、実戦的な現実主義者である彼女の心を少しずつ蝕んでいった。

(このまま減り続けるのは、精神衛生上宜しくないな……)

 

ある日の午後、練習に向かう途中で天王寺の近所を散歩していた時、ふと1枚の貼り紙が目に留まった。

近所にある、いつも家族で利用するような賑やかな回転寿司屋。そのガラス窓に「アルバイト募集。未経験者歓迎、シフト応相談」の文字が躍っていた。

(……まぁ、家からも近いし、ちょっとやるか)

深い拘りがあった訳ではない。ただ減っていく貯蓄を補填するため、彼女は後日、スマートフォンからその募集に応募した。

数日後、指定された時間に店を訪れると、まだ夕方の営業前で静かな店内に案内された。案内されたのは、客席の一番端にある、周囲の視線から遮られたボックス席。暫く待つと、小柄だがハキハキとした雰囲気の店長が履歴書を手にやってきた。

「お待たせしました。店長の山田です。どうぞ、座ってください」

「お願いします」

ゴリラ女は、その大きな身体を窮屈そうにボックス席に滑り込ませ、丁寧に一礼して履歴書を真っ直ぐ差し出した。

店長は「はい、ありがとうございます」と受け取り、何気なくそこに目を落とした。だが、記載された経歴を見た瞬間、店長のペンを持つ手がピタリと止まった。

「ええと……まず経歴は……あっ、大阪体育大学出身なんですね。……って、ええ!? 大学院も出とるの? 凄いですね、修士課程修了ですか」

店長は思わず顔を上げ、目の前に座る規格外の体躯を持つ女性を見つめた。

「スポーツされてたんですか?」

「プロレスとMMAやってました。今は現役で柔道やってます」

至って淡々と、事実だけを告げる。

「え、MMAって……あの、総合格闘技? プロの、ですか?」

「5戦しかしてないですけど、一応プロでやってました」

「凄いですね……! どこでやってたんですか?」

「日本と、あとは海外で少し」

店長は驚きを隠せない様子で喉を鳴らした。しかし、履歴書の年齢欄に目を戻し、本題である志望動機へと話を移す。

「ゴリラ女さん、32歳……失礼ですが、今はお仕事はされてないんですか?」

「仕事か分からないですけど、総合格闘家を引退して、今は柔道家なんです。昔のファイトマネーがあるので暮らせるものの、今は会社所属ではなくてクラブ道場なので収入がありません。生活費は別に賄いたいので、今回応募に至りました」

飾らない、しかし極めて論理的で明確な理由だった。大学院を経て培われたその理路整然とした話し方は、外見の威圧感を和らげるに十分だった。

「なるほど、事情は分かりました」

店長は頷き、手元の資料に目を移す。

「シフトはどれくらい入れますか?」

「基本はいつでも大丈夫です」

「土日や夜の時間帯も?」

「遠征がなければ入れます。練習以外の時間は空いてるので」

「それは助かりますね。……ちなみに、飲食業の経験はありますか?」

「ないです」

即答だった。

「接客とかは大丈夫そうですか? うち、結構週末とか忙しくなるんですけど」

「多分出来ますけど、あまり得意ではないです」

お世辞にも愛想が良いとは言えない自覚がある。正直に答える彼女に、店長は苦笑いしながら次の質問を投げかけた。

「じゃあ、ホールとキッチン、どちらを希望しますか?」

「キッチンでお願いします」

「理由は何かありますか?」

「裏の方が、目の前の作業に集中出来るので」

「分かりました。確かにキッチンの方が職人気質なところがありますからね」

店長はメモを取り終えると、少し個人的な興味を抑えきれずに、軽い雑談として声を潜めた。

「プロって……因みに、どこの団体でやってたんですか?」

「日本だと、RIZINに出てました」

「え、RIZINって……あの年末とかにテレビでやってる、めちゃくちゃでかい格闘技イベントですよね!?」

「そうです」

「海外でもやってたって言いましたよね?」

「はい。UFCで少し」

「ゆ、UFCって……あのアメリカの、世界で一番大きい団体ですよね?」

「そう言われてますね」

店長は内心、文字通り飛び上がるほど驚いていた。テレビの向こう側の、それも世界の頂点で戦っていたような怪物が、なぜ天王寺の片隅にある回転寿司屋のキッチンに応募してきたのか。しかし、その目の前に座る「元UFCファイター」は、至って静かに、借りてきた猫のように大人しく座っている。

「へぇー……凄い実績ですね。柔道でも全国優勝して、格闘技でも世界で活躍して。……うん、分かりました。では、結果は後日お電話で連絡しますので、面接はここまでにします。ありがとうございました」

「ありがとうございました」

ゴリラ女は再び深く頭を下げ、静かに席を立った。

 

数日後、店長から直々に「ぜひ、うちで働いて下さい」と採用の電話が入った。

彼女に与えられたシフトは、18:00から閉店直後の22:00までの4時間。ディナータイムのピークから片付けまで、1日の中で最も忙しく、戦場と化す時間帯だった。

 

初出勤の日。ゴリラ女は従業員用の勝手口を開け、店の裏側へと足を踏み入れた。

客として何度も訪れたことのある回転寿司屋だったが、ホールの華やかさとは一転して、厨房の中はステンレスのシンクや冷蔵庫が鈍い光を放つ、徹底的に無機質な空間だった。

店長から手渡されたのは、制服と帽子、そしてエプロン。

鏡の前で着替える。髪を帽子の中に全て収め、調理服のボタンを留める。

(……何やろな、この感覚)

柔道着でもなく、プロレスのコスチュームでもなく、UFCのファイトショーツでもない。「飲食店の店員」の衣服に身を包んだ自分の姿に、彼女は言いようのない奇妙な違和感を覚えていた。

厨房の中心へ進み、先に入って作業をしていた先輩のアルバイト店員達に向かって、彼女は短く頭を下げた。

「今日から入ります。お願いします」

その瞬間、厨房の空気が一瞬だけ凍り付いた。調理服を着ていても隠しきれない、圧倒的な肩幅と分厚い胸板。巨体が狭い通路に現れたのだ。先輩達は一様に目を丸くしている。

「あ、宜しく……。何か、スポーツやってたの?」

一人の先輩が恐る恐る尋ねる。

「総合格闘技やってました。今は引退して、柔道に復帰してます」

「えっ、格闘技!? あ、だからそんなにガタイがいいんだ……。ちなみに、何歳?」

「今年で33になります。1990年生まれです」

「えっ、1990年……? 私より年上やん!」

尋ねた先輩は20代前半の大学生だったらしく、途端に敬語になった。

ゴリラ女の声のトーンは常に一定で、愛想は最低限。笑顔を振りまくわけでもなく、かといって不機嫌な訳でもない。ただそこに、圧倒的な存在感を持って佇んでいる。

周囲のスタッフ達はすぐに察した。

(あ、この人、あんまり喋らんタイプやな。でも、変にガツガツしてなくて静かな人だ)

怖さは感じない。ただ、職人のような独特のオーラがあった。

 

初日の仕事は、徹底的な手洗いの手順と衛生説明から始まった。爪の間までブラシで洗うよう指示され、彼女は真剣な眼差しでそれに応じた。

続いて、寿司の命とも言える「シャリ」の扱い方、そして簡単な軍艦巻きやサイドメニューの盛り付けのレクチャーへと進む。

「じゃあ、この機械から出てくるシャリを優しく持って、ここにネタを乗せてね。強く握り過ぎたら固くなっちゃうから」

先輩の丁寧な指導に対し、ゴリラ女は真っ直ぐに相手を見つめて答える。

「はい」

彼女は指示を完璧に聞く。余計な私語は一切挟まない。ただ、質問も殆どしなかった。彼女の脳内では、既に「シャリの成形とネタの配置」という作業が、一種の力学的なタスクとして処理され始めていたからだ。

しかし、頭で理解することと、実際に肉体を動かすことは別問題だった。

世界最高峰の関節技を極める彼女の強靭な指先は、数グラム単位の繊細なシャリを扱うには、些か強大すぎた。

(……あ、崩れた)

優しく持とうとするあまり、指先の出力コントロールが上手くいかない。機械から均一に出てくるはずのシャリが、彼女の手を経ると、あるものは不格好に潰れ、あるものはふわりとし過ぎて形を維持出来ない。量も形もバラバラになってしまう。

さらに、マグロやサーモンのネタを乗せる際も、動きが極端にぎこちなかった。

(中心はここか……? 支点がズレとるな)

格闘技における構造の理解を応用しようとするあまり、却って手元が固くなる。ネタの位置がミリ単位で右にズレたり、斜めに傾いたりする。

「あ、ゴリラ女さん、ちょっとネタの位置がズレてるかな。もう少し真ん中に優しく置いてね」

先輩の指摘が飛ぶ。

「はい」

短く返し、彼女はすぐに微調整を試みる。動きは驚くほどぎこちなく、巨大な熊が繊細な細工物を作っているかのような滑稽さがあったが、その表情は真剣そのものだった。

「こうやって、指の腹を使って包み込むように握ってね」

「はい」

厨房の空気感は、奇妙な調和を保っていた。「怖くはないが、とにかく静か過ぎる」。だが、サボる様子は微塵もなく、彼女は与えられた盛り付けの作業を、黙々と、確実にこなそうとしていた。

 

20:00を過ぎ、ピークタイムが少し落ち着いた頃、数分間の短い休憩時間が与えられた。

厨房の隅のベンチに腰掛けたゴリラ女は、持参したペットボトルの水を口に含むと、そのままスマートフォンを開いて格闘技のニュースをチェックするか、あるいは壁の一点を見つめてぼーっとしていた。

周囲のバイト仲間たちが「今日めっちゃ忙しくない?」「それなー」と雑談を交わしている中に入っていくことはない。輪から外れているわけではなく、ただ静かに、自身の精神をサウナの後のように張り詰めさせているだけだった。周囲もその空気を尊重し、無理に話しかけようとはしなかった。

 

22:00。閉店のブザーが鳴り、キッチンの清掃が終了したところで、初日のシフトが全て完了した。

制服を脱ぎ、私服のスウェットに着替えてバックヤードへ向かうと、店長が待っていた。

「ゴリラ女さん、初日お疲れ様でした。どうでしたか?」

「お疲れ様です。少し手元が難しかったですけど、大丈夫です」

「ハハ、最初はみんなシャリを潰しちゃうからね。でも、指示もしっかり聞いてくれて助かりました。問題はないですよ。……まぁ、もう少し周りと喋ってくれても大丈夫ですからね?」

「善処します」

「うん、期待してます。それじゃあ、また次回も宜しくね」

「ありがとうございました。お先に失礼します」

店長の評価は「問題なし」だった。もう少しコミュニケーションを取ってほしいという要望はあるものの、真面目で、遅刻もせず、何より圧倒的なタフさがある。この人は長く続きそうだという確信を持っていた。

店の外に出ると、夜の天王寺の涼しい風が、火照った身体を心地よく撫でた。

 

実家へと向かう夜道を歩きながら、ゴリラ女は自分の大きな両手のひらをじっと見つめた。

(回転寿司のバイト……まぁ、こんなもんか)

シャリの力加減や、ネタの配置のバランス。ぎこちなかった感覚は、全て脳内でデータとして蓄積されている。

(感覚さえ掴めば、次はもっと上手くやれる。覚えたらいけそうやわ)

ファイトマネーの減少という現実的な不安を解消するための、時給千数百円の細やかな労働。だが、畳の上とは全く違うその無機質な戦場で、33歳になる新人柔道家は、確かに新しい日常のロジックを掴みかけていた。

夜空に浮かぶ月を見上げながら、彼女は小さく息を吐き、いつもの力強い足取りで家路を急いだ。

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