浪速のボスゴリラ   作:五十嵐 響

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事務処理の日常

天王寺の回転寿司屋でアルバイトを始めて1週間が経過した。33歳を目前にした新人アルバイトのゴリラ女の動きは、驚くほど急速にルーティン化されていた。

 

彼女のバイト適性は、良くも悪くも極端だった。

長所は明確だ。遅刻は絶対にしないし、無断欠勤など論外。大企業での社会経験もありプロのアスリート、そして武道家として長年叩き込まれて来た社会人の精神は、時給千数百円の現場でも些かもブレることはなかった。体力系・単純作業における出力の高さは圧倒的で、一度マニュアルや手順を教えられれば、その通りに寸分違わず遂行する。店側、特にシフトを管理する社員や店長からすれば、これほど計算が立ち、助かる人材は居なかった。

しかし、短所もまた、普通とは少し違う独特な形で存在していた。

一番の課題は力加減だ。重いバットや皿を調理台に置く際、本人はそっと置いているつもりでも、鍛え上げられた前腕の筋肉から繰り出される風圧と質量で、「ドン!」と大きな音が厨房に響く。

「ゴリラ女さん、もうちょい静かに置いてな。今、客席にお客さんおるから気ぃつけよ」

社員からそう声をかけられるのは、最早日常茶飯事だった。注意というよりは、猛獣の居る環境を調整するような、穏やかなトーンでの進言である。

また、一度作業に没頭すると、周囲の状況が一切目に入らなくなる「視野の狭さ」もあった。更に、効率を重視するあまり、細かい手順の確認を省いて次の工程へ進みがちで、これが実務において一番多く注意を受ける原因となっていた。

「忙しくても、出す前に一回確認してな。間違えたら結局、ホールから戻って来て二度手間になるから」

「すみません、次から確認します」

言われた時のゴリラ女の対応は極めてシンプルだった。絶対に反抗しない、一切の言い訳をしない、そして同じミスを何度も繰り返さない。だからこそ、社員たちも必要以上に強く叱責することはなかった。彼らの本音はこうだ。

(融通は効かんけど、とにかく真面目や。任せたことは確実にやるし、変なプライドがないから注意しやすい)

職場において、彼女は非常に扱いやすい人として、静かに信頼を積み上げていた。

 

2週間が経つ頃には、厨房内における彼女の「得意・苦手」のグラデーションが完全に浮き彫りになっていた。その総合ランキングは以下の通りである。

1番得意なのは寿司担当。回転寿司店のメインであるこのポジションこそ、彼女の主戦場だった。手順が完全に決まっており、ひたすら同じ動作を繰り返すスピードと集中力の勝負。他者と干渉しにくい独立した立ち仕事。一度この量産モードに入ると、彼女の「周りが見えなくなる」という欠点は、そのまま「余計な雑音をシャットアウトする集中力」という長所へと昇華された。黙々と、一定の精度で寿司を量産し続けるその姿は、厨房の絶対的な安定剤だった。

2番目に得意なのは洗い物担当。会話が一切不要で、体力をどれだけ使っても問題なく、ゴールが「皿を綺麗にする」と明確であるため、彼女の好みに合致していた。作業スピードは凄まじく、雑に見えて汚れ残しは皆無。皿を割ることもなかった。

3番目は掃除担当。妥協を許さない性格が活きるポジション。「ここまででええよ」と声をかけられても、マニュアルのラインに達するまで最後までやり抜くため、床やシンクはいつも完璧に磨き上げられた。

4番目は揚げ物担当。技術的には問題ないが、複数の注文が同時に走るため、他ポジションとの連携や全体把握が必要となり、少し苦手意識があった。

1番苦手なのは汁物担当。彼女が最も向いていないのがここだった。なぜなら、汁物の担当には「少し薄いから白だし足して」「今日は忙しくて煮詰まってるからお湯で薄めて」「鍋の減り具合を見て適当に調整して」といった、マニュアル化されていない感覚系の臨機応変な指示が飛び交うからだ。レシピが絶対の正解である彼女の頭脳は、「適当な調整」を求められるとフリーズする。「書いてないから分からん。触らんとこ」となるのだ。

店側も彼女の特性をすぐに理解し、シフトの配置を最適化していった。

一番忙しい18:00から20:30のピークタイムは、彼女を「寿司製造」に完全固定。注文の山を無言でさばかせ、ピークが落ち着いた20:30以降は「洗い物ヘルプ」へ回し、21:30からの閉店間際は「片付け・掃除」を任せる。この適材適所の配置により、彼女のミスや注意を受ける回数はほぼゼロになった。

 

夜のピークタイム、厨房がどんなに戦場と化しても、ゴリラ女の佇まいは変わらなかった。

彼女は絶対に狭い厨房内を走らない。無駄に大声を出して焦ることもない。周りの学生バイト達が「やばい!」「オーダー溜まりすぎて間に合わん!」と悲鳴を上げ、パニックの手前になっていても、ゴリラ女の表情はピクリとも動かなかった。

(今やるべきことは、目の前の注文を消すことだけや)

感情を表に出さず、ただ一定のスピードで正確に手を動かし続ける。そのブレない姿は、周囲の人間にとっても一種の精神安定剤となっていた。「あの人が淡々とやってるんだから、まだ大丈夫だ」と思わせる無言の説得力が、その背中にはあった。

そんな彼女が、唯一自分の持ち場を離れる瞬間がある。それは「揚げ物場」が完全に崩壊しかけている時だ。

自分から「手伝おか?」などと声をかけることは決してない。しかし、フライヤーのタイマー音が鳴り響き、揚げ物皿がカウンターに山積みになり、店長が焦った顔で一瞬こちらを見た刹那、彼女は無言で動く。

スッと揚げ物場の横に入り、冷凍のポテトや唐揚げを次々と油に投入し、タイマーを押す。揚がったものを網で掬い上げる。そこまでの「物理的な単純作業」だけを驚異的なスピードで代行し、最後の味付けやソースの盛り付けといった細かい工程は、本来の担当者に目線で任せる。

油跳ねなど一切気にせず、表情一つ変えずにフライヤーを回すその姿は、まさに繁忙期専用の強襲増援ユニットだった。

「いつの間にか揚げ物がさばかれてる……」

周囲がそう気づいた頃には、彼女は何も言わずに自分の主戦場である寿司のポジションへと戻っている。内心では(寿司の方が楽やな。揚げ物は熱いし忙しい。でも、ラインが詰まるのは見ててイライラするから最低限だけやったろ)と考えていた。

 

22:00の閉店ブザーと共に、彼女の労働は終わる。退勤の手続きを済ませた後の楽しみは、店のシステムである賄いを食べることだった。しかし、彼女にとってこれは決して自分へのご褒美ではなかった。翌朝の柔道の稽古を見据えた、冷徹な肉体のリカバリーと調律である。

彼女が取るネタは、いつも完全に固定されていた。

鯛、鯵、鰯、〆鯖。そして赤身、キハダ、海老、烏賊、蛸、赤貝。

徹底して、脂身の少ない白身、青物、甲殻類、貝類。噛み応えがあり、変な甘みや余計な味付けがなく、食べた後のお腹が最も軽く済むラインナップだ。ここに、炭水化物の確実な補給源として、揚げ物の入っていない太巻を一切れ二切れ足し、最後に浅蜊の味噌汁を啜る。汗で失われた塩分とミネラルを補給するためだ。

トロやサーモンなど脂の乗ったネタ、唐揚げやフライドポテトといった揚げ物は一切取らない。

(美味いのは知ってるけど、今食うたら明日の朝、身体が重くなる)

メニューを見て悩む時間すら無駄だった。毎回同じものを機械的に皿に取り、静かに胃袋に収める。

食べ終わると、ロッカー前で他のバイトとダラダラ喋ることもなく、スマートフォンをダラダラ見ることもなく、着替えを済ませて「お疲れ様でした」の一言だけを残してスッと店を出る。決して後ろは振り返らない。

 

夜風の吹く帰り道、彼女の頭の中にあるのはバイトの反省ではなかった。そもそも、これまで人生の10割を柔道と格闘技に捧げて来た彼女にとって、バイトの思考の割合はせいぜい1割に過ぎない。その1割すらも、「今日いくら稼いだか」や「あの作業の動線はもっと詰められるな」という、極めて実務的な処理思考だった。

(明日の朝練は9時からか。右の組み手の位置、もう5cm下げて入ってみよ。帰ったらすぐ風呂入って、ストレッチやな)

天王寺の実家に帰り、家族から「今日バイトどうやった?」と聞かれても、彼女の返す言葉は「忙しかった」「普通」「暇やった」の3択しかなかった。感情の乗らない、ただの事実の実況中継。それが、ゴリラ女という人間の私生活におけるデフォルトの温度だった。

 

バイトを始めて2週間が経った頃、店長がシフトの合間に声をかけてきた。

「そういやゴリラ女さん、歓迎会まだやってなかったな。みんなも『どんな人か知りたい』って言ってるし、今度やろうや」

周囲の学生や主婦のバイトたちからも「賛成です!」「是非やりましょう!」と声が上がった。

これまで、飲み会の誘いは「翌朝の練習に響くから」と全て断って来た彼女。自分からプライベートを語ることもないため、厨房内では「仕事は完璧にやるが私生活が一切謎の大女」という印象が都市伝説のように一人歩きしていた。

(……流石に、自分の歓迎会まで断り続けるのは付き合いとして不義理か。1回くらいは顔出しとくか)

そう考え、彼女は出席を承諾した。

 

場所は天王寺駅近くの賑やかな大衆居酒屋。

店長が軽く挨拶をし、「乾杯!」の発声と共に宴がスタートした。ゴリラ女はジョッキを手に、座敷の端の方に静かに腰を下ろしていた。周囲のメンバーは、まだ彼女との距離感が掴めず、最初の内はチラチラと様子を伺うような空気が流れていた。

しかし、ビールが一杯回り、場が少し温まると、やはり最初の質問は彼女の規格外の経歴に集中することになる。

「あの、ゴリラ女さん。店長から聞いたんですけど……格闘技やってたって、本当ですか?」

「どこの団体で試合してたんですか?」

「やっぱり、めちゃくちゃ強いんですか?」

堰を切ったように質問が集まる。中には「一般人と喧嘩したらどうなるんですか?」とか「その身体のデカさは格闘技やってたからですか?」といった、些か雑で遠慮のない質問も混ざっていた。

だが、ゴリラ女は嫌な顔一つせず、いつもの淡々としたトーンで、一切盛ることもなく事実だけを返していった。

「プロではRIZINとUFCでやってたで」

「同じ階級で強いか分からんけど女の中やったら強いと思うで」

「喧嘩やらんけどその辺の人よりは流石に強いやろ」

「身体は生まれつき大柄なだけや。家系やな」

あまりにも短く、話を広げようとしない、しかし確実な正論。普通の人間ならここで会話が途切れて気まずくなるところだが、相手は関西の居酒屋に集まったバイト達である。そのあまりにもストレートで飾らない返しが、逆にツッコミどころとして機能し始めた。

「いや、普通に痛いわって、そらそうやけど!笑」

「『少なくとも強い』って絶対、秒殺できるレベルでしょそれ!」

周りが勝手に盛り上がり、笑いが起きる。ゴリラ女はそれを聞いて、小さく口角を上げるだけだったが、その威圧的な外見の裏にある「ただの裏表のない、極めてシンプルな人」という本質が周囲に伝わって行く。

宴の後半になると、話題は自然と「キッチンのあのポジションがしんどい」とか「今週末のシフトのヤバさ」といった、お馴染みのバイトの愚痴や普通の会話へと移り変わっていった。ゴリラ女は自ら輪の中心に行くことはなかったが、話を振られれば「あそこは確かに動線が悪いな」などと、実務的な意見をぽつりぽつりと口にし、すっかりその場に馴染んでいた。

彼女自身の内心はといえば、(ちょっと話が長いな……。烏龍茶でお腹膨れてきたし、明日も朝から練習あるから、早く帰って寝たいな)という、一刻も早い退散を願う気持ちが強かった。

「それじゃ、時間やからお開きで! ゴリラ女さん、これからもキッチンの大黒柱として宜しく頼むで!」

店長がそう言って肩を叩くと、他のスタッフたちも「またシフト被った時、揚げ物助けてください!」「また飲みましょう!」と笑顔で声をかけてきた。

ゴリラ女は立ち上がり、いつも通り短く頭を下げた。

「はい。お疲れ様でした」

 

居酒屋を出て、夜風が吹き抜ける天王寺の街を一人歩きながら、彼女は小さく息を吐いた。

歓迎会の前半は質問攻め、後半はいつも通りの業務の話。そして自分は終始淡々としたまま。

職場の人間達にとって、彼女は「凄過ぎる実績を持つ元世界のファイター」から、「喋ると意外とシンプルで、仕事が滅茶苦茶出来る頼もしい先輩」という、確かな信頼の枠組みに収まったようだった。

派手なアピールはしない。無駄な愛想も振り撒かない。けれど、任された自分の持ち場だけは、畳の上でも、ステンレスの厨房でも、絶対に崩さない。

月明かりに照らされた彼女の背中は、明日もまた始まる厳しい稽古と、淡々とした日常の任務に向けて、迷いなく真っ直ぐに歩みを進めていた。

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