2023年7月。容赦のない真夏の太陽が大阪の街を焦がし、アスファルトから陽炎が立ち上る季節がやってきた。
先月の「大阪府女子体重別選手権」での復帰戦、ゴリラ女の結果はベスト4。ブランクを考えれば決して悪くない数字であり、周囲からも称賛された。しかし、本物の柔道家という生き物は、ベスト4如きで満足出来るようには作られていない。
天王寺の自宅に帰宅した夜、彼女は自室で一人、静かに天井を見上げていた。
(ベスト4か……。まぁ復帰戦やし、実戦の感覚としてはこんなもんか。……いや、でも負けは負けやな。あそこ、もう一歩早く潰せてたら勝てた。次は絶対に落とさん)
悔しさを引きずる訳ではない。ただ冷徹に「敗北」という事実を受け止め、次への燃料に変える。それが今の彼女の思考回路だった。
そんな中、7月の行事である「暑中稽古」の時期がやってきた。
大阪府柔道連盟が主催するこの稽古は、7月28日から30日までの3日間、彼女が所属する大阪城の袂にある修道館で行われる。経験者であれば高校生から大学生、実業団、社会人まで誰でも参加可能な、真夏の合同強化合宿のようなものである。
試合には常に残酷な勝敗が付き纏うが、暑中稽古には勝敗がない。ただひたすらに己の肉体を追い込み、畳の上で他者と組み合う純粋な空間。だからこそ、ゴリラ女もいつもより少しだけ気楽な、心地よい高揚感を胸に秘めていた。
初日の朝。柔道着をバッグに詰め込み、彼女は修道館へと向かった。
重厚な玄関の門を潜ると、そこは既に凄まじい熱気に包まれていた。府内、あるいは近隣から集まった気鋭の高校生、体躯の大きな大学生、警察官や実業団の社会人、そして威厳を放つ高段者の先生方が、一堂に会して帯を締め直している。
2020年にアメリカから帰国して以来、コロナ禍の苦しい時期も含めて3年間、彼女はこの修道館で這い蹲るように練習を続けてきた。だからこそ、道場の先生方も彼女が来ると当然のように声をかける。
「おう、来たか。しっかり体調管理して3日間乗り切れよ」
「お願いします」
短い挨拶。そこには、かつてメディアが騒ぎ立てた「総合格闘家」や「プロレスラー」としての色眼鏡は一切なかった。ただの「修道館所属の、一人のタフな柔道家」としてごく普通に扱われている。
彼女にとって、その当たり前の日常の視線が何よりも誇らしく、心の底から嬉しかった。
午前9時、独特の緊張感と共に稽古が始まった。
窓を開け放っていても、道場内の空気は一瞬でサウナのように熱を帯びる。準備運動、入念な打ち込み、そして激しい衝撃音が響く投げ込み。これだけで全員の道着がぐっしょりと汗を吸って重くなっていく。
そして、メインである乱取りの時間がやってきた。
「お願いします!」
緊張で声を上ずらせた一人の高校生が、ゴリラ女の前に進み出て一礼した。高校生からすれば、巨体にバイオメカニクスに裏打ちされた無駄のない佇まいを見せる彼女は、文字通り「化け物みたいにデカい大先輩」である。
しかし、今のゴリラ女は意外なほど優しかった。
全盛期の野獣時代のように、組み手を力任せに切りまくって秒殺するような野蛮な真似はしない。相手の出方をしっかりと見極め、高校生が仕掛けてくる技を、あえて真っ向から自分の肉体で受け止めた。
但し、その「圧力」は尋常ではなかった。
がっちりと組み合った瞬間、高校生の顔色が変わる。まるで、根を張った大巨木を掴んでいるかのような、圧倒的な質量。
「重っ……!」
高校生が必死に息を荒らげ、死に物狂いで大内刈りや背負い投げを仕掛けてくる。ゴリラ女はその鋭い攻撃を、大学院で研究した理想的な重心移動でいなし、受け止め、畳の上でしっかりと相手のステップをコントロールしながら、ボソリと声をかけた。
「……もう一回」
「はいっ!」
「今の入り、角度はええ。もっと腰落として入れ」
「ありがとうございます!」
かつては「浪速のボスゴリラ」と恐れられ、周囲と取っ組み合いの喧嘩ばかりしていた問題児が、今や後輩の成長を促すような、理知的で度量の広い立ち回りを見せていた。
午前中の激しい稽古が終わり、昼休み。
大きな窓から大阪城の緑が見える畳の端に座り、ゴリラ女はスポーツドリンクを豪快に飲み干していた。首にかけたタオルで汗を拭っていると、午前中に彼女と組み合った高校生達が、おずおずと、しかし好奇心に目を輝かせながら集まってきた。
最初の内は「大学の練習ってどれくらいキツいんですか?」といった普通の柔道談義だったが、一人の男子部員が、意を決したように声を潜めて尋ねた。
「あの……ゴリラ女先輩。UFCって、やっぱりどんな感じなんですか? 動画でしか見たことなくて……」
世界最高峰のケージ。オクタゴン。観客の絶叫と、飛び散る血と汗。
ゴリラ女は懐かしむように少し目を細め、フッと笑って答えた。
「あー、UFCな。会場の演出とか規模は、それはもう凄いわ。派手なライトが当たって、何万人っていう外国人が叫んでて、ケージの中に入ったら文字通り殺し合いみたいな雰囲気になる」
「うわぁ……やっぱり怖いですか?」
「まぁ、怖いっていうか興奮するな。でもな」
彼女はスポーツドリンクのボトルを置き、高校生達の目を真っ直ぐに見つめた。
「試合の前に、心臓がバクバクなって、力が入らんくらい緊張するんは、UFCのケージも、今日のこの修道館の畳も、なーーんも変わらん。結局、自分一人で戦わなあかんのは一緒や。だから、柔道でしっかり心を鍛えとったら、どこに行っても通用するで」
その言葉には、世界の頂点を見てきた者だけが持つ、圧倒的な説得力があった。高校生達は感極まったように「はい!」と深く頷いた。
午後の乱取りが始まると、今度は警察官や実業団所属の、社会人の重量級選手達が彼女の前に並んだ。ここからは、彼女にとっての「純粋な勝負」の時間だった。
高校生相手のように手加減をする必要はない。組み合った瞬間から、お互いの骨と筋肉が軋むような激しい攻防が展開される。
(……あ、これこれ。やっぱ柔道おもろいな)
相手の強烈な引き手に対し、瞬時にバイオメカニクスのロジックを回す。支点をずらし、相手の重心が崩れた一瞬の刹那、渾身のパワーを込めて畳へ叩き付ける。乾いた一本の音が道場に響き渡る。
プロレスのリングのように台本がある訳でもなく、MMAのように顔面を殴られるわけでもない。ただ、己の技と肉体だけで純粋に相手を屈服させるこの感覚。やはり、自分の原点はここなのだと、彼女は確信していた。
稽古の合間、道場の天井を仰ぎ見ながら、ゴリラ女はふと3年前の自分の姿を思い出していた。
2020年、アメリカでの熾烈な戦いを終えてプロ格闘家を引退し、日本に帰国したあの頃。世界一を目指した旅の終着駅で待っていたのは、世界的なコロナ禍による閉鎖された日常だった。
全柔連への復帰の目処は立たず、愛する道場も閉鎖され、柔道のために必死で机に向かった大学院生活。暗闇の中を手探りでただ前へ進むしかなかった、先が見えないあの数年間。
それが、2023年の今、どうだ。
復帰戦を無事に終え、こうして大好きな修道館の畳の上で、真夏の汗をこれでもかと流している。夕方になれば、回転寿司屋で黙々とシャリを握り、生活の土台を自分の手で支えている。
アメリカのUFCでスポットライトを浴び、何万人の大歓声の中にいた頃よりも、今のゴリラ女の心は遥かに満たされていた。
(うちは、ここに帰ってきたかったんやな)
「元UFCファイター」という重い鎧を脱ぎ捨て、ただの「32歳の新人柔道家」として、泥臭く汗を流せるこの場所。これこそが、彼女が人生の紆余曲折を経てようやく辿り着いた、本当の居場所だった。
「よし、もう一本いくで!」
ゴリラ女は力強く立ち上がり、パンパンと自分の太腿を叩いた。
夕方からの寿司屋のシフトのことなど、今は頭の1割にもない。ただ目の前の畳を睨み付け、彼女は再び真夏の熱気の中へとその巨体を躍らせた。理性を纏った怪物の夏が本格的に幕を開けた。