7月の暑中稽古が終わり、真夏の太陽が更に牙を剥くようになった8月。ゴリラ女の周囲には、いつの間にか熱い火種が集まっていた。
「この5人で、一般の団体戦を組んでみんか」
いつも修道館で顔を合わせ、妥協なき乱取りを繰り返してきた柔道熱心な4人の仲間達。年齢や職業は違えど、柔道に向き合う熱量だけは完全に一致している。彼らとの間に、言葉以上の信頼関係が構築されるのに時間はかからなかった。
「団体戦で勝つなら、まずは徹底的に身体を叩き直さなあかん」
その志の元、5人は長野県東御市にある「アスリーツパーク鳥の丸」へのフィジカル強化合宿を決行することになった。
当日、ゴリラ女はスポーツバッグを肩にかけ、黒のスポーツウェア姿で鶴橋駅の改札を潜った。いつもなら肩が千切れるほど重い柔道着が入っていないため、バッグは驚くほど軽い。大阪環状線から大阪駅、そして東海道本線へと乗り換え、集合場所である新大阪駅の改札内に向かうと、既に4人の仲間が待っていた。
「おはようございます」
「おう、おはよう。ゴリラ女さん、相変わらず荷物デカいな」
「寝坊せんかった?」
遠征慣れしている彼女は1番乗りか、それに近い時間には到着している。軽い挨拶を交わしながら、5人は新幹線ホームへと上がった。熱気が容赦なく肌を焼く。
「長野、涼しいんかな?」
「大阪が暑すぎるねん。向こうは山の上やからマシやろ、多分」
のぞみ8号に乗り込み、名古屋へ向かう車内。5人が並んで座れば、当然のように話題は柔道一色になった。最近の国際大会の潮流、修道館での乱取りの反省、柔道界の噂話。その中で、一人が少し前にあった大阪府女子体重別の話を振ってきた。
「そういえば復帰戦、ベスト4でしたよね。ブランクあってあれは普通に凄いですわ」
ゴリラ女は窓の外を睨んだまま、ぶっきらぼうに返した。
「負けたからあかんわ」
周りは「いやいや」と苦笑するが、彼女の目は一切笑っていない。8年のブランクがあろうが何だろうが、優勝だけを目指して畳に上がった彼女にとってベスト4など何の自慢にも慰めにもならなかった。その徹底した勝利への執念に、4人は改めて「この人は本物や」と背筋を正した。
名古屋駅に到着。昼食にはまだ早い時間で在来線ホームへの乗り換え時間がタイトだったため、昼食は構内で「ひつまぶし弁当」を買い、しなの9号に乗り込んだ。濃いめのタレが絡んだ鰻を口に運ぶ。
「大阪の人間からするとちょっと味濃いけど、これはこれで美味いな」
長距離移動の車中、次第に柔道以外のプライベートな話も増えて行く。学生時代の思い出、今の仕事、好きな食べ物。
「うちはな、鶴橋駅で電車降りた瞬間、あの焼肉の匂いが漂ってくると『帰って来たな』って思うわ」
そんな地元トークで場が和むと、一人が身を乗り出して聞いてきた。
「アメリカの生活って、やっぱり全然違いました? UFCの舞台とか」
ゴリラ女は弁当のガラを纏めながら、案外あっさりと答えた。
「まぁ、規模は桁違いやけどな。でも、試合前に緊張して心臓バクバクせんのは、UFCも柔道も一緒や。ビビる時はどこおってもビビる」
長野県に入り、篠ノ井駅でしなの鉄道に乗り換える頃には、車窓には雄大な山々が迫っていた。
「山やなぁ……」
「空気が全然違うわ」
列車が目的地に近い田中駅に滑り込む頃には、移動の疲れと共に、初日の緊張感はすっかり消え去っていた。試合会場に向かう遠征とは違う。これから数日間、同じ目標に向かって泥臭く苦しむ仲間との合宿だ。ゴリラ女の心には、心地よい連帯感と、最年長の大将としてチームを引っ張るのだという静かな闘志が満ちていた。
田中駅からタクシーに乗り、15時。5人は標高約2,000mに位置する「アスリーツパーク鳥の丸」に到着した。浅間連山に囲まれたその施設は、群馬県境に近く、圧倒的な大自然の中に静まり返っていた。
移動で固まった身体をほぐすため、初日は軽めのトレーニングとミーティングに充てることになった。
まずは全天候型の400mトラックに出てストレッチを行い、そこから高地トレーニングの洗礼が始まる。200m×10本、続いて400m×5本のインターバル走。
「……ッ、は、激し……!」
走り始めてすぐに全員が気付いた。空気が明らかに薄い。肺の奥が焼けるような感覚。しかし、重量級ゆえに心肺への負担が最も大きいゴリラ女は、その息苦しさにすら喜びを覚えていた。
(これや、この負荷が欲しかったんや。ここで追い込めば、何試合も戦い抜けるスタミナが付く)
走り終わる頃には夕闇が迫り、山奥の施設は一気に暗くなった。陸上トレーニングを切り上げ、5人は施設内の50mプールへと向かった。柔道家は膝や腰に爆弾を抱えている者が多い。水の中での運動は、関節を保護しながら心肺機能を強化し、同時に疲労物質を流す最高のリカバリーになる。
ゴリラ女は豪快なクロールで水を捉え、他の4人もそれに続く。ただ大騒ぎするプールではなく、全員がアスリートの目で淡々と距離をこなしていく。
宿泊棟の部屋は6人部屋を選んだ。室内には2段ベッドが3つ。
「ゴリラ女さん、下使ってください」
全員が当然のようにそう言った。体格的な理由もあるが、彼女が上で動けばベッド全体が軋むのは目に見えている。
「おぅ、ほな下使うわ」
彼女が選んだのは、東京西川のリカバリー用高反発マットレスが敷かれたベッドだった。夜、ミーティングを終えてベッドに倒れ込んだ瞬間、鍛え上げられた広背筋がじんわりと包み込まれる。
「……あ、これええな。一瞬で落ちるわ」
その呟きを最後に、彼女の意識は深い眠りへと沈んでいった。
翌朝、窓から差し込む長野の朝光は、大阪のそれとは違って驚くほど涼しく快適だった。
朝食をしっかりと胃に収め、スポーツウェアに着替えた5人は、林間800mコースへと飛び出した。
木漏れ日の中、20分から30分のジョギング。そこから動的ストレッチ、更に股関節の可動域を広げるドリルを行い、眠っていた肉体を完全に覚醒させる。
続いて向かったのは、最新の器具が揃うトレーニングルームだ。ここからは完全にパワーセッションとなる。
「しゃがむで! まだ行ける!」
重量級のゴリラ女がバーベルを担ぎ、深いスクワットを敢行する。デッドリフトで床から凄まじい質量を引き上げ、ベンチプレスで大胸筋を追い込み、懸垂とローイングで柔道の引きに必要な背筋を極限まで収縮させる。
「そろそろ、乱取りしたいなぁ」
一人がバーベルを置きながらポツリと漏らしたが、朝から続く高強度のフィジカルトレーニングの前に、誰もそれ以上言葉を続ける余裕はなかった。
昼休憩を挟み、午後は再び400mトラックでのインターバル走(200m×10本、400m×5本)。柔道の試合は、数分間の爆発的な高強度運動と、短いインターバルの繰り返しだ。このトラック走は、正に畳の上の過酷な状況を擬似的に再現していた。
夕方、全てのメニューを消化した時、5人はトラックの上に大の字になって倒れ込んだ。柔道着を着ない基礎トレーニング。しかし、全員が同じ限界を共有しているその空間は、妙に心地よかった。
朝から晩まで、ランニング、筋トレ、食事、移動、そして同じ部屋での宿泊。全てを共にする中で、柔道家達の距離は急速に縮まっていった。
2日目の夜、部屋で各自がプロテインを飲みながら、壁や床を使って入念にストレッチをしている時のことだ。
「ゴリラ女さんって、結局何歳から柔道やってるんですか?」
「うちは小4やな。最初はただのデカいクソガキやったわ」
そこから話は、お互いの大学時代の壮絶な練習環境、社会人として柔道を続けることの難しさ、そして「30代になっても本気で強くなろうとしている」という、共通の狂気へと繋がっていった。単なる「道場の顔見知り」から、「同じ旗の下で戦う、命を預け合える団体戦の仲間」へと、5人の魂が完全に噛み合った瞬間だった。
3日目の朝、トレーニングルームでの最後の筋トレを終えた5人は、この合宿最大の難所である「2,500mトレイルランニングコース」のスタートラインに立っていた。
自然の起伏、不整地、急激な坂道。心肺能力だけでなく、着地の度に全身の体幹と脚力が総動員される、文字通りの地獄のコースだ。
「……行くぞ」
ゴリラ女の低い声を合図に、5人は山道へ駆け出した。一歩足を踏み外せば転倒する斜面を、強靭な足腰で踏みしめて進む。あまりのキツさに、この日の午後のトレーニングはこれだけで完全に終了となった。
昼下がり、施設内のミーティングルームに集まった5人の顔付きは、最早高校生の修学旅行のそれとは完全に一線を画していた。
今後の大会スケジュール、チームとしての明確な目標、そして各自の課題。
団体戦のオーダーを決める議題になった時、メンバーの一人がゴリラ女を見つめて言った。
「実力もこれまでの経験も年齢も、やっぱり大将はゴリラ女さんしかおらんでしょう」
他の3人も深く頷く。ゴリラ女はいつもなら聞き役に徹していたが、この時ばかりは仲間の目を真っ直ぐに見据え、静かに、しかし断固とした口調で応じた。
「……分かった。うちが大将やるわ。後ろは全部うちが止めたるから、前で思い切り暴れてこい」
その一言で、チームの形が完全に決まった。
その日の夜、消灯前の薄暗い部屋。2段ベッドの下段から、誰かが天井に向けて呟いた。
「今日のトレイル、マジできつかったな……」
「あの心臓破りの坂、死ぬかと思ったわ」
「昔の高校の遠征思い出しましたよ。あの時の監督の物真似、誰か出来たよな?」
そこからは、練習の失敗談や遠征の珍事件など、柔道家ならではのディープな昔話が次々と飛び出し、部屋の中は低い笑い声で満たされた。
いつもは物静かなゴリラ女も、こと柔道や格闘技の話題になると、意外なほどよく喋った。
「そういえば、UFCの計量って本当にあんなピリピリしてるんですか?」
質問が飛ぶと、彼女はベッドの上で上体を起こした。
「あぁ、計量は格闘技で一番キツいな。サウナで限界まで水抜いて、意識朦朧としながら秤に乗んねん。私は特別契約で無差別級やったけど。でもな、アメリカの大会で一番おもろいんは入場や。自分の選んだ曲が爆音で鳴り響いて、花道歩いてる時は、自分が世界で一番強い勘違いが出来る」
4人は彼女の言葉を、一言も聞き漏らすまいと静かに耳を傾けていた。世界の頂点の景色を見た大将が、今、自分たちと同じ目線で泥を啜ろうとしている。その事実に、胸が熱くならない訳がなかった。
4日目の最終日。
午前中に軽く身体を動かす補強運動を済ませ、5人はお世話になったアスリーツパーク鳥の丸を後にした。
再びしなの鉄道に揺られ、田中駅から帰路に就く。車窓に流れる長野の山々は相変わらず美しかったが、行きの時とは5人の空気感がまるで違っていた。
新大阪駅に到着し、蒸し暑い大阪の空気が5人を包み込む。
「それじゃ、また来週から道場で」
「おう。次からはまた、畳の上で死ぬほど追い込むぞ」
短い握手を交わし、ゴリラ女は再び鶴橋駅へ向かう環状線に乗った。
バッグの重さは行きと変わらない。しかし、彼女の胸には、何物にも代えがたい4人の戦友と、団体戦の大将という絶対的な覚悟が刻まれていた。夕方からの回転寿司屋のバイトに向かう足取りは、合宿前よりも遥かに力強く、鋭く地を踏みしめていた。最高の仲間が加わった。