長野県のアスリーツパーク鳥の丸での壮絶なフィジカルトレーニング合宿を終え、大阪へ戻ってきたゴリラ女の肉体は、明らかに一皮剥けていた。
次なる目標は、11月に開催される最高峰の舞台「講道館杯全日本柔道体重別選手権大会」への出場。しかし、前年度の強化選手でもなく、警察や自衛隊といった組織にも所属していない復帰初年度の彼女がその切符を手にするルートは、極めて限定されていた。
「実業個人で、ベスト4以上に入るしかないな」
彼女は講道館杯の出場権をもぎ取るため、全日本実業柔道連盟への加盟を申請。8月26日〜27日に開催される「全日本実業柔道個人選手権大会」へのエントリーを済ませた。舞台は兵庫県尼崎市にある、尼崎市記念公園総合体育館。大阪市のすぐ隣であり、彼女の実家からも比較的近いお馴染みのロケーションだ。
合宿後、いつものように修道館の重い扉を開けると、あの数日間を共にした4人の戦友達が迎えてくれた。
「ゴリラ女さん、実業個人出るんですって?」
「講道館杯の予選代わりやな。尼崎でやってくるわ」
彼女がそう告げると、4人は顔を見合わせてニカッと笑った。
「いや、ゴリラ女さんなら余裕でしょ。ベスト4どころか全員ブチ投げてきて下さいよ」
「まぁ、油断せんとやってくるわ」
淡々と応じる彼女だったが、その後の練習で畳に上がった瞬間、自分でも驚くほどの変化を実感していた。一歩の踏み込みが爆発的に鋭い。息が全く上がらない。長野の標高2,000mで肺を焼き、筋肉を限界まで虐めた高地トレーニングの成果が、完全に肉体に還元されていた。身体が、信じられないほど軽い。
試合当日。ゴリラ女は黒のスポーツウェアに身を包み、柔道着、帯、そしてスクイズボトルを大きなリュックに詰め込んで玄関に立った。柔道着の重みが、今は心地良い緊張感となって肩に食い込む。
奥から出てきた母が、心配そうに声をかけた。
「怪我だけは気を付けなあかんで。無理しなや」
「おぅ、分かってる」
短い会話を交わし、彼女は実家を出た。
鶴橋駅からお馴染みの大阪環状線に乗り込み大阪駅へ。そこから新快速に乗り換える。ガタゴトと激しい音を立てて加速する列車の窓外には、見慣れた阪神間の街並みが飛ぶように過ぎ去って行く。格闘技時代の海外遠征のような時差もなければ、言葉の壁もない。ただ、己の原点である柔道の戦場がすぐそこに待っている。
尼崎駅で下車し、会場である総合体育館に足を踏み入れた瞬間、ゴリラ女の細い目がすっと鋭くなった。
広い。天井が遥か高くにあり、フロアには何面もの畳が隙間なく敷き詰められている。実業団の猛者たちが放つ独特の熱気と、畳の擦れる音。世界最高峰のケージを見てきた彼女の心臓が、この純粋な柔道の聖域の広大さに、ドクドクと色めき立つのが分かった。
控室で柔道着に着替え、帯をきつく締め直す。アップエリアに入った瞬間、周囲の空気の密度が変わった。
長野で更に彫刻のようにカチカチに仕上がった筋骨隆々な体格。復帰戦の時とは明らかに違う殺気を纏った彼女の姿に、周囲の女子選手達から無言の視線が突き刺さる。
体を動かしていると、一人の女子選手がおずおずと話しかけてきた。
「あの……どちらから来られたんですか?」
「大阪から」
「あ、近いですね。私は神戸から来ました」
世間話のつもりだったのだろう。しかし、ゴリラ女の脳内は既に10割が戦闘モードにシフトしていた。これから戦うかも知れない相手と、畳の下で馴れ合う気にはとてもなれない。
「……そうか」
それだけ短く吐き捨てると、彼女はくるりと背を向け、会話を強制終了させてシャドーと打ち込みを再開した。冷徹なまでの集中力が、彼女の周囲に不可視の壁を作っていた。
彼女が出場するのは78kg超級。4回勝てば頂点に立つトーナメントだ。
「始め!」
1回戦の審判の声が響く。ゴリラ女は低く構え、相手の動きを冷徹に見定めた。相手の選手は、ゴリラ女の規格外の体躯を見て完全に警戒モードに入っている。「まともに組んだら投げられる」そう判断したのだろう、相手選手はゴリラ女の懐へ潜り込むように素早く下に滑り込んできた。
だが、その瞬間をゴリラ女の野生と知性は見逃さなかった。
相手が技を仕掛けようと伸ばしてきた右腕を、電光石火の速さでキャッチ。そのまま強靭な両脚で相手の巨体を畳へ完璧にロックし、格闘技界で何人もの猛者をタップさせてきた、あの腕ひしぎ十字固めの形へ一瞬で移行した。
ミシ、と関節が極まる。
「それまで! 一本!」
僅か数十秒の電撃戦。寝技の技術が完全に融合した圧倒的な一本勝ちだった。
続く2回戦、3回戦も、長野合宿で培った無尽蔵のスタミナと圧力を活かし、相手を完全にコントロールして連続の一本勝ち。スタミナのロスは最小限。練習の成果が、これ以上ない形で噛み合っていた。
そして迎えた決勝戦。相手は自分ほどではないものの、やはり実業団で揉まれてきた大柄な実力派選手だった。
お互いに手の内を探り合う、重苦しい展開。ゴリラ女は組み手で優位に立ち、何度も技を仕掛けるが、相手も全日本クラスの粘りを見せる。
(……あ、ここや)
技の仕掛け時、一瞬の隙を見つけたものの、完全に試合の感覚が戻り切っていないが故の「僅かな迷い」が、コンマ数秒の遅れを生んだ。そこを相手に上手く捌かれ、決定的なポイントを奪えないまま試合時間のブザーが鳴り響いた。
結果は、判定負け。
トーナメントの最終結果は「準優勝」となった。
「……クソッ」
表彰式で銀メダルを首にかけられながら、ゴリラ女は内心で激しく歯噛みしていた。あと少し、あと一歩届かなかった頂点。勝てそうな相手だっただけに、胸の奥からドロリとした悔しさが湧き上がってくる。
しかし、それと同時に、最大の目的であった「講道館杯の出場権(ベスト4以上)」を完全に手中に収めたという事実が、彼女の心をじんわりと満たしていった。
閉会式が終わり、スポーツウェアに着替えてリュックを背負う。尼崎の夜風は、夏の終わりを告げるように少しだけ涼しかった。
「ただいま」
夜、天王寺の実家の扉を開けると、リビングからはいつも通りの賑やかな声が聞こえてきた。家族全員が、彼女の帰りを今か今かと待っていたのだ。
「おかえり! どうやったん!?」
ゴリラ女はリュックを床に置き、首から外した銀メダルをテーブルにコトッと置いた。
「……準優勝。とりあえず、11月の講道館杯の出場は決まったわ」
その瞬間、リビングが一気に沸き立った。
「おめでとう、良かったやん」
長女の猿女がぶっきらぼうだが褒める。
「凄いやん! 講道館杯ってテレビでやるやつやろ? うち絶対に試合観に行くわ!」
三女のチンパンジー女が拳を握りしめて興奮し、四女のオランウータン女もメダルを手に取りながら目を輝かせた。
「おめでとう。姉ちゃん、ブランクあるとか言いながら、やっぱり戻ってきたら滅茶苦茶強いな」
家族が大騒ぎする中、台所からお茶を持ってきた母が、ゴリラ女の顔をじっと見てフッと優しく微笑んだ。
「おめでとう。まぁ、結果は良かったけど、あんたの顔見てたら『悔しかった』って書いてるわ。……とりあえず、今日はもう細かいこと考えんと、お風呂入ってゆっくりしぃな」
「……おぅ。ありがとう」
母の鋭い洞察に苦笑いしながらも、ゴリラ女は温かい麦茶を喉に流し込んだ。
決勝での敗北は悔しい。けれど、この準優勝という結果は、33歳にして畳に戻ってきた彼女にとって、何よりも強固な大きな自信という名の地盤になった。
次に出る大会はまだ決まっていない。しかし、彼女の視線の先には、11月、日本最高峰の柔道家達が集う講道館杯の畳が、はっきりと見えていた。
(待っとれよ、日本のトップ。うちはまだ、ここから更に強くなる)
家族の笑い声に包まれながら、ゴリラ女は静かに闘志を燃やし、己の肉体を次なる戦いへと研ぎ澄まし始めていた。理性の怪物の本気の進撃は、ここからが本番だった。