浪速のボスゴリラ   作:五十嵐 響

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千の乱取り、万の思考

尼崎での全日本実業個人選手権で準優勝を果たし、11月の講道館杯への切符を手にしたゴリラ女。激闘の興奮も冷めやらぬ中、彼女の視線は既に10月に行われる市民柔道大会、そしてその先の頂点へと向いていた。

大学院を修了し、プロ格闘家から一人の柔道家へと戻った33歳の日常は、驚くほどストイックに、そして規則正しく回り始める。彼女にとって柔道をしていない時間すらも、全ては畳の上の1秒に繋がっていた。

理性の怪物が送る、月曜日から日曜日までの1週間が幕を開ける。

 

週の始まりは、天王寺の回転寿司店の厨房から始まる。11時の開店と同時に、ゴリラ女は無言で量産モードに入っていた。実業個人準優勝という肩書きなど、この厨房では何の意味も持たない。ただ正確に、素早く寿司を握り、皿をレーンに送り出す。長野合宿で更に強固になった彼女の体幹は、5時間の立ち仕事を終えても一切ブレることはなかった。

退勤後、実家へ戻り1時間ほどの休息を取る。頭を空っぽにする時間だが、お茶を飲む彼女の右手は、無意識に湯呑みを柔道の引き手の形で強く握り込んでいた。

所属する修道館クラブの平日の公式練習は19:40から20:40までの僅か1時間。競技志向の高いゴリラ女にとって、それでは到底足りない。そのため彼女は、道場が使えるようになる18:30には一番乗りで畳に上がっていた。

まだ誰も居ない静まり返った道場で、合宿を共にした気鋭の社会人メンバーがやってくる。

「ゴリラ女さん、お疲れ様です。今日も18:30からっすね」

「おぅ。実業個人で組んだ時、やっぱり1分の段階でスタミナ削りきれんかったからな。技の精度上げるわ。打ち込みから付き合って」

「っす!」

まだ一般の会員が集まる前の1時間、彼女たちは濃密な打ち込み、激しい衝撃音が響く投げ込み、そして実戦さながらの乱取りを黙々と消化していく。

入浴、念入りなストレッチを終えて夕食の席につく。お替りの白米を口に運びながら、彼女の目は宙を泳いでいた。

(……実業の決勝のあの場面、右の奥襟を無理に叩きに行かんと、下から前襟を絞るように組めば良かったな。そしたら相手の腰が引けたはずや)

「姉ちゃん、ご飯粒ついてるで」

四女のオランウータン女に指摘されるまで、彼女は自分が尼崎の畳の上に巻き戻っていることに気づかなかった。

 

火曜日も同じシフトをこなす。重いバットを運ぶ際、前腕の筋肉が不自然に盛り上がるため、新人バイトの女子高生が「ゴリラ女さん、腕の筋肉やばくないですか?」と怯えていたが、「まぁ、ちょっと鍛えてるからな」とだけ返し、黙々とシャリを握った。

この日も一般の時間が始まる1時間前に道場入り。合宿仲間の一人とがっちり組み合う。

「ゴリラ女さん、市民大会の相手、警察の若手が入ってくるらしいですよ」

「若い奴は勢いあるからな。でも、組み手で完全に殺せば関係ない。もう一本、乱取り行こか」

容赦のない圧力をかけ、後輩の息を削って行く。勝敗のない練習だからこそ、自分の課題である攻めの引き出しを試す絶好の機会だった。

帰宅後、入浴を済ませると、火曜日の第2ラウンドが始まる。寝室に持ち込んだトレーニングギアを取り出す。

畳の上にヨガマットを敷き、じわっと汗がにじむ体幹トレーニング。その後、柱に巻き付けた太いラバーチューブを柔道の背負い投げの形で何度も引き千切るように引っ張る。更に、柔道家に最も重要とされる首を鍛えるブリッジ、そして握力強化のためのハンドグリッパーを限界まで握り込む。

ハァ、ハァ、と静かな部屋に彼女の荒い息遣いだけが響く。鍛え上げられた肉体は、こうして毎夜作られていた。

 

水曜日の厨房。ピークタイムの忙しさを、長野で鍛えた無尽蔵のスタミナで涼しい顔をして捌き切る。社員からは「ゴリラ女さんがシフトに入ってるとキッチンの安心感が違う」と絶賛されていた。

水曜日は道着を着ない日と決めている。向かうのは柔道場ではなく、パワーラックが並ぶトレーニングルームだ。

重量級の柔道家にとって、自重以上のパワーをコントロールする筋力は絶対条件。

バーベルを肩に担ぎ、100kgを超えるウエイトでスクワット。続いてベンチプレスで大胸筋を爆発させ、ローイングと懸垂で柔道の引きに直結する広背筋を極限まで虐める。

鉄塊と一対一で向き合う時間は、彼女にとって非常に心地よいマインドフルネスでもあった。己の限界値を数値で超えていく感覚が、柔道の自信へと直結していく。

湯船に肩まで浸かり、太い腕を揉み解しながら、彼女は天井の換気扇を見つめていた。

(内股で相手を浮かせてから、着地際に大外刈りへの連絡……。あのタイミングなら、どれだけ腰の重い重量級でも絶対に決まる。明日のクラブの練習で試してみよ)

湯船から上がる頃には、のぼせる寸前まで柔道のシミュレーションに没頭していた。

 

木曜日。明日が終われば長時間のバイトが待っているため、体力をセーブしたいところだが、彼女の辞書に手抜きの文字はない。

木曜日は、1週間の中で最も過酷な日だ。

18:30に道場入りし、まずは合宿仲間達といつも通りの密度の濃い自主練習を1時間。

「ハァ……ハァ……ゴリラ女さん、もうこれだけで普通の練習1回分終わってますって……」

後輩が道着の襟をはだけさせて畳に倒れ込む。

「何言うてんねん。ここからが本番やぞ」

10分の休憩を挟み、19:40。修道館クラブの一般会員が集まり、公式練習がスタートする。

館内に心地良い緊張感が満ちる中、メニューは更に実戦的な乱取り中心へとシフトして行く。高校生から社会人までゴリラ女の前に次々と列を作る。

「お願いします!」と挑んで来る相手を、彼女は合宿仕込みの無尽蔵の心肺能力で次々と受け止め、捌き、時には鋭い大内刈りで畳に沈めた。合計2時間、ノンストップで動き続けた肉体は、練習終了の礼をした瞬間、鉛のように重くなっていた。

帰宅後の彼女はまさに疲労困憊。お喋りな妹達の声も遠くに聞こえるほど、泥のように深い眠りに落ちていった。

 

昨日の疲れが残る中での出勤。しかし、プロ時代に培ったコンディショニング能力で職場の誰にも疲れを悟らせない。

金曜日のメニューはその日の疲労度合いによって「パターンA」か「パターンB」かを冷徹に選択する。

この日は、木曜日の疲労が筋肉の奥に残っていると判断。

「今日はパターンBやな」

彼女が選んだのは、道着を着ないランニングメニュー。近くの公園へ向かい、5kmのビルドアップ走。そこから傾斜のきつい坂道を見つけ、心肺に強烈な刺激を入れるための坂道ダッシュを5本、最後にインターバル走。

柔道着を着ていなくても、走るフォームは常に畳の上で一歩を踏み出す瞬発力を意識したものだった。

 

遠征がない土曜日、ゴリラ女は職場の最強の戦力となる。途中3時間の休憩を挟みながら、合計8時間、厨房のラインを完全にコントロールする。

この日は完全回復日と決めており、一切の物理的なトレーニングは行わない。休憩時間や帰宅後は、入念なマッサージとストレッチに時間を費やす。

布団の上に寝転び、スマートフォンで直近の国際大会や、次戦のライバルになりそうな選手の試合動画を再生する。

画面の中で、外国人選手が鮮やかな寝技の連動を見せた。

(あ……この寝技の入り方、上手いな。相手の脇を掬いながら頭を殺しに行っとる。これ、うちの体格ならもっと強烈にロック出来るんちゃうか)

何度も動画を巻き戻し、指先で画面を静止させる。彼女の眼は、既に11月の講道館杯の舞台を捉えていた。

 

日曜日はランチタイムの激務だけをバシッとこなし、早々に退勤。

夕方、自宅のガレージや近くのジムで、エアロバイクを30分漕いで軽い有酸素運動。その後、自重を中心とした軽い筋トレで筋肉に刺激を入れ、1週間の歪みを整えるような調律の時間を過ごす。

アイロンのかかった真っ白な柔道着を丁寧に畳み、スポーツバッグに収める。サポーターやテーピングの残量を確認し、翌週のシフト表と睨み合わせながら、頭の中で練習スケジュールを組み立てる。

33歳。世間一般では落ち着く年齢と言われるかも知れない。しかし、今のゴリラ女にとって、天王寺の回転寿司屋で働く日常も、修道館の18:30の誰もいない静寂も、全ては己の柔道を究めるための愛おしいプロセスだった。

「よし、来週も18:30からバチバチにやったろ」

誰に強制されるでもない。ただ、自分がもっと強くなりたいから、畳に上がる。

バッグのジッパーを閉める彼女の顔には、かつて世界一のケージの中で戦っていた頃よりも、遥かに充実した、真摯な柔道家の笑みが浮かんでいた。理性の怪物の日常は、明日もまた18:30の畳の上で熱く燃え上がる。

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