2023年10月。天王寺の街を吹き抜ける風がすっかり涼しくなり、道行く人々の服装が秋色に染まる頃、ゴリラ女は再びあの場所に立っていた。
大阪市長杯第67回市民柔道大会。彼女が出場するのは、勿論女子の部だ。
会場は、城東区にある講道館大阪国際柔道センター。
ここは彼女にとって、忘れられない因縁の場所だった。僅か4ヶ月前の6月、8年のブランクを経て這い上がった復帰戦「大阪府女子体重別選手権」で、あと一歩及ばずベスト4に終わった、あの畳が敷かれている体育館である。
市民大会という性質上、主に大阪市内の道場や学校、実業団から選手が集まるため、先月の全日本実業個人選手権に比べれば大会の規模自体はそこまで大きくない。しかし、ゴリラ女にとって規模の大小など何の関係もなかった。畳の上に上がれば、やるべきことはただ一つ。目の前の相手を完璧に組み伏せる、それだけだ。
重厚な控室で、白い柔道着に袖を通し、帯を腰の真ん中で力強く締め直す。
準備を終えて一歩道場へ足を踏み入れ、綺麗に敷き詰められた畳の緑が視界に入った瞬間、彼女の脳裏にあの6月の光景が鮮烈に蘇った。
(……あの時、あそこの位置で崩されて、抑え込まれたんやな)
負けた記憶。それは本来なら思い出したくない苦い経験かもしれない。しかし、理性を纏った今の彼女にとっては、己の弱点を教えてくれる最高の教科書だった。長野の高地合宿を乗り越え、アルバイト以外を全て柔道に捧げてきた今の自分なら、あの日の自分を瞬殺出来る。
彼女は静かに目を閉じ、深く息を吸い込んで、過去の敗戦の記憶を完全に自らの血肉へと昇華させた。
大会が始まり、館内に試合開始を告げるブザーの音が響き渡る。
ゴリラ女の1回戦。対戦相手の前に進み出ると、相手選手はその圧倒的な体躯と、自主練習で練り上げられた冷徹な威圧感に、組む前から明らかに気圧されていた。
「始め!」
審判の鋭い声が響く。ゴリラ女は低くどっしりとした構えから、長野合宿で手に入れた爆発的な踏み込みで一瞬にして間合いを詰めた。相手が恐怖から強引に技を仕掛けようとバランスを崩した刹那、彼女の野生の直感が動く。
電光石火の速さで相手の体を畳へと引きずり込み、得意の寝技の形へ移行。流れるような動きで相手の首と腕を完全にロックし、袈裟固めで微動だにさせず抑え込んだ。
「それまで! 一本!」
時計の針は殆ど進んでいない。技のキレ、寝技への移行のスピード、どれをとっても6月の頃とは比べものにならないほど進化していた。
その後も対戦相手を寄せ付けず、圧倒的な強さでトーナメントを駆け上がり、遂に決勝戦の舞台へ。
決勝の相手は、流石に勝ち上がってきただけあって腰の重い、実力派の重量級選手だった。相手はゴリラ女の寝技を警戒し、極端に前傾姿勢をとって隙を見せない。
(……寝技を警戒しとるな。やったら、上から崩すまでや)
ゴリラ女は道場で仲間と何度も話し合った戦術を、冷静に脳内で実行に移す。
強烈な引き手で相手の体勢を強引に起こし、バイオメカニクスのロジック通りに相手の重心を完全にコントロール。相手が耐え切れずに体勢を崩した一瞬の隙を突き、鋭い大内刈りを叩き込んだ。
ドスン、と鈍い音が畳に響く。
「技あり!」
決勝の舞台ということもあり、相手も必死の粘りを見せ、そこから一本に仕留め切ることは出来なかった。しかし、試合終了のブザーが鳴るまで、ゴリラ女が完全に試合の主導権を握り続けた。
結果は、判定勝ち。
「女子の部、優勝――ゴリラ女選手!」
館内に自分の名前がアナウンスされる。あの6月にベスト4で悔し涙を呑んだ同じ会場、同じ畳の上で、彼女は遂に表彰台の真ん中に立った。11月の講道館杯に向けて、これ以上ない最高の弾みが付いた瞬間だった。
大会が閉幕し、スポーツウェアに着替えてリュックを背負うと、彼女はすっかり秋の夜風が心地良くなった大阪の街を歩いて自宅へと向かった。
「ただいまー」
実家の玄関の扉を開けると、中からドタドタと賑やかな足音が近付いて来た。リビングに入り、リュックから取り出した金メダルをテーブルの上にコトッと置く。
「市民大会、優勝したわ」
その瞬間、個性豊かな家族たちの声が一斉に弾けた。
「お、優勝か。まぁ、当然の結果やな。おめでとう」
長女の猿女が、腕を組みながらいつものぶっきらぼうな調子で、しかしどこか誇らしげに口元を緩める。
「よっしゃあ! 優勝やん! さすが姉ちゃん!」
三女のチンパンジー女が格闘技好きの血を滾らせ、ガッツポーズをしながらハイテンションで飛び跳ねた。
「凄いなぁ、お姉ちゃん。やっぱり毎日一生懸命練習してたもんな。おめでとう」
温厚で優しい四女のオランウータン女が、メダルを優しく見つめながら微笑む。
そして、娘4人を女手一つで、逞しく、時に厳しく育て上げてきた母が、台所から冷たいお茶を持ってやってきた。
「よぉ頑張ったな。あの夏の実業個人で悔しい思いして、そこから腐らんと毎日道場行ってたん、お母ちゃんちゃんと見てたで。あんたは強いな」
家族皆から次々と頭を撫でられ、背中を叩かれ、褒め千切られる。
さっきまで講道館大阪の畳の上で、誰一人として寄せ付けない殺気を放っていた「元総合格闘家」の姿は、そこにはもうなかった。
美味しい手料理を口に運びながら、妹達の他愛のない武道や仕事の話に耳を傾け、時には一緒になって笑う。ここにいる彼女は、ただの「大阪の賑やかな家庭の、ちょっと不器用で、柔道が大好きな次女」だった。
市民大会での優勝。それは彼女にとって通過点に過ぎない。しかし、この温かい我が家があるからこそ、彼女は何度でも過酷な畳の上へと戻っていけるのだ。
「明日も11時からバイトやな。ほんで18:30から、また修道館行くわ」
お茶を飲み干し、ゴリラ女は嬉しそうに笑った。11月の講道館杯へ向けて、33歳の次女の刃は、更に鋭く研ぎ澄まされようとしていた。