2006年3月。大阪市立高津中学校の卒業式を終え、帰宅した彼女は真っ直ぐに風呂場へ向かった。
3年間、一度も足を踏み入れることのなかった空間。換気扇の回る乾燥した空気の中に、水の滴る音が響く。
「……入るか」
独り言と共に、皮膚の一部と化していた道着を脱ぎ捨てた。3年間吸い込み続けた汗と脂、そして道場の畳の粉。床に落ちた道着は、布とは思えないほどの重量感で「ドサリ」と鈍い音を立てた。
シャワーの蛇口を捻り、湯を出して石鹸を泡立てる度に足元を流れる水は泥のように濁り、排水溝へ流れた。
湯船に浸かると、身体の芯から力が抜けて行くような、奇妙な浮遊感に包まれた。清潔になることがこれほどまでに異質な感覚を齎すとは想像もしていなかった。
2006年4月。彼女は東大阪市にある東大阪大学敬愛高等学校に入学した。
この年、学校は共学化され敬愛女子高等学校から校名を変更し、彼女達は共学1期生として入学した。
体育館に整列した新入生達は、期待と不安が入り混じった表情で教壇を見つめていた。しかし、壇上に立った校長の言葉は春の陽気とは裏腹に冷徹だった。
「高校は、義務教育ではありません」
その一言で、私語が消えた。
「問題を起こせば停学、最悪の場合は退学になります。ここからは、自分の行動全てに責任が伴う場所です」
周囲はざわ付き始めた。
(ふーん。辞めさせられるんやったら、それまでやな)
彼女にとって、学校という場所が持つ強制力など、柔道の畳の上に比べれば砂粒のようなものだった。
教室に入ると、そこには見知らぬ顔が並んでいた。
特に私立高校に入ると遠方出身も珍しくないため同じ学校の人は皆無だ。
(高津中の奴はおらんか…)
「地元どこ?」
隣の席の女子が、遠慮がちに話しかけて来る。
「天王寺や」
「え、都会やん」
クラスは府外出身も多く私立特有の雰囲気を初日で感じた。
高校生活が始まっても、彼女は教室のルールに従わなかった。
「はい、教科書開いて」
先生が黒板にチョークを走らせる。その背中に向かって、彼女は深く椅子に沈み込み、深い眠りにつく。
休み時間になれば、一転して彼女は野獣となった。
「おい、行くで!」
「やろうや!」
彼女の呼びかけに、柔道部の仲間や、血気盛んな運動部の連中が集まる。狭い教室で取っ組み合い、机が飛び、笑い声が怒号のように響く。そこはもはや学びの場ではなく、運動場の延長だった。
体育の時間。教師が「集合!」と号令をかけても、彼女を筆頭とする一団は止まらない。
「うおおお!」
誰かが叫べば全員が呼応して走り出す。統制など存在しない。ただ、身体を動かしたいという欲求に従うだけの獣の群れだった。
テスト中も静かにしていられない。
パチン。
誰かが退屈凌ぎに手を叩いた。
それが合図だった。彼女が応えるように手を叩き、更に別の一人が続く。
パチン、パチン、パチン、パチン。
リズミカルな拍手が教室中に伝播し、先生が怒鳴る。
「止めろ!」
一瞬止まるが、数秒後にはまた別のリズムで拍手が始まる。彼女はその中心で、クスクス笑っていた。
当然、成績は底辺を這った。追試、補習、レポート。卒業に必要な最低限のラインを綱渡りで渡り歩く彼女を、周囲は畏怖と呆れを込めて「ゴリラ女三冠」と呼んだ。
学校生活が相変わらず破天荒を極める一方で、彼女の私生活には柔道と同じくらい熱中するものがあった。動画サイトやテレビで、総合格闘技の世界最高峰の団体であるPRIDEの試合を観ることだ。
2007年。高校2年生になったゴリラ女は、身体の成長と共に格闘技の技術への興味を急速に深めていた。当時のPRIDEは単なる一格闘技団体ではなく地上波ゴールデンで放送され、さいたまスーパーアリーナを毎度満員にする、文字通り日本MMAの象徴だった。
巨大なスクリーンに映し出される派手な演出、魂を揺さぶる煽りV、高らかな入場曲、そして世界最強の称号を懸けた肉体の衝突。その全てにゴリラ女は強烈なロマンを感じていた。
特に重量級の怪物達が柔道由来の寝技やパワーで相手をねじ伏せる姿は、彼女の戦闘本能を激しく刺激した。
しかし同年、格闘技界を揺るがす大事件が起きる。PRIDEが崩壊した。
そのニュースをテレビやネットで知った時、ゴリラ女と、空手をやっている三女のチンパンジー女は、言葉を失うほどの大きな衝撃を受けた。
高校生の彼女達には、大人の事情や格闘技界の裏側のことなど知る由もない。ただただ、「あの最強で最高の世界が完全に消えてしまう」という事実が、信じられなかった。
空手家としてストライカー達のKO劇や、激しい殴り合いによる会場の熱狂にワクワクしていたチンパンジー女が、自宅のリビングでポツリと言った。
「なぁ、PRIDEなくなるらしいで。ほんまなん?」
漫画雑誌をめくっていたゴリラ女の動きが止まる。
「……マジか。嘘やろ」
「えー、なんでなん? あんなに盛り上がってたのに」
「知らん。でも、あの花道も入場も、もう見られへんってことやろ」
まだ10代の姉妹にとって、それは人生で初めて体感する「一つの輝かしい時代の終わり」そのものだった。あのさいたまスーパーアリーナの熱気、怪物達の饗宴が失われた喪失感は、暫く彼女達の胸に残り続けた。
だが、格闘技の火は完全には消えなかった。
高校3年生になった2008年。PRIDEの後継団体として新たな格闘技イベント「DREAM」が立ち上げられたのである。
その旗揚げ大会のDREAM.1の放送をテレビで観た時、格闘技ファン全体が「まだ終わってなかった!」と歓喜したように、天王寺の家でも姉妹がテレビの前に陣取っていた。
お馴染みのさいたまスーパーアリーナ、巨大な花道、心を震わせる煽りV、そして日本人のエース達が再びリングへ向かう姿。
「あ、PRIDEの時の演出残ってるやん」
チンパンジー女が嬉しそうに声をあげる。
「おう、まだ終わってへんな。これからまた、おもろなりそうや」
ゴリラ女は静かに拳を握りしめた。テレビの中で命を削り合う格闘家達の姿は、自らの柔道に邁進する彼女にとって、最高のエネルギー源であり続けた。
学校生活は相変わらずな一方で、彼女の柔道は、高校3年間で一つの完成形へと向かっていた。
高校の柔道は練習も大変で社会性皆無な彼女だったが、キングコング女という同級生のお陰で心の支えとなり続けられた。彼女はゴリラ女と同じく重量級の強豪だが、彼女と対照的で比較的真面目で校内でも成績上位で文武両道の優等生だ。彼女が居なかったら顧問と揉めて退部してたかも知れない。
彼女は全国高等学校柔道選手権大会、そしてインターハイの両方で頂点に立った。全国連覇。しかし、その華々しい実績とは裏腹に、柔道界からの視線は冷ややかだった。
彼女の柔道は、伝統的な組み合って投げる美学を無視していた。
「始め」の合図と共に、低く構えて距離を詰め、相手が組もうとする瞬間に飛び付く。そのまま寝技へ引きずり込み、関節を極め、あるいは絞め落とす。
「何や、あれ……。柔道ちゃうやろ、ブラジリアン柔術やん」
他校の選手達が陰口を叩く。
「基本がなってない」「背負投や内股をやれ。それが日本の柔道だ」
指導者達の小言が廊下から聞こえた。
ある日、顧問が彼女を呼び出した。
「お前な、もうちょい普通にやれんのか。背負投とか、もっと綺麗に見える技を……」
「普通って何ですか?」
彼女は真っ直ぐに顧問を見据えた。
「背負投をやったら今より確実に勝てますか? 私のスタイルはもう出来上がってます。勝てるという保証があるならやります」
顧問は言葉に詰まった。彼女の柔道には批判を黙らせるだけの圧倒的な結果があった。
「勝てるならやります」
それが彼女の唯一の基準だった。以来、顧問が彼女のスタイルに口を出すことは二度となかった。
秋の気配が色濃くなった放課後の教室。柔道部の引退を経て、ガランとした静けさの残る空間で、ゴリラ女とキングコング女はいつものように机を合わせて話していた。
「コングは高校卒業したらどうするん?」
窓の外のグラウンドをぼんやり眺めながら、ゴリラ女が問いかける。
「大学行くけどお前は?」
「まだ決めてないねんな。全国大会優勝してから色んな大学とか企業からオファーがあって迷い中」
「どこからオファー?」
「大学は国士舘、日体大、帝京、近大、摂南、龍谷、関大、同志社、立命館、大体大。実業団は東レとかやな」
キングコング女は呆れたような、しかしどこか納得したような顔で鼻を鳴らした。
「お前も大学行った方がええんちゃう?高卒で働くの大変やろ。それに一応うちらのコース大学進学を目指すやん。どの大学行きたいとかある?」
「関東の大学行きたいと思わへんし実家から通える地元の大学でええわ」
「なら関東の大学は選択肢から外れるな。うちら体育得意やし大体大とかは?」
「確かにな、スポーツ学べて放課後は柔道やれるし天王寺からちょっと遠いけど府内やからええな」
ゴリラ女はポンと膝を叩いた。
「うちは地元東大阪の近大もええと思うねん。お前も近大ならもっと近いし就職ええしどうなん?」
「近大も候補にはあるけど体育学部ないやろ?うちの姉が近大法学部の1年生やけど本人から聞いたわ。行くなら法学部か経済学部やろ?仮に行くとしたら会社員になると思うし経済学部になるんかな?」
「うちは大学卒業したら東大阪市役所で働きたいから法学部選ぶかな」
「とりあえず第一志望は大体大にするやろ?学部は体育学部やんな?」
「そらそうよ」
「とりあえず明日コングのクラスも進路指導の時間あるやろ?うちのクラスもあるからその時話すか」
そんな実のないようで真剣な会話を交わし、2人はそれぞれの家路へとついていった。
名門の夙川学院や三田松聖といった強豪校からの誘いを断って、この敬愛の地に飛び込んだ彼女。同じ柔道部で苦楽を共にしたキングコング女の存在もあり、進路の着地点は自然と定まっていた。
進路指導室の重い扉を叩いたゴリラ女に、担任の教師がまっすぐな目を向ける。
「どうするんや?大学か?それとも実業団か?お前の実績ならどこでも推薦は出せる」
「大学行きます。大阪体育大学です」
「ほう」
理由は明白だった。関西の体育大学の最高峰であり、自宅からも通える。何より、そこには自分と同じような兵達が集まっている予感があった。
同じ体育学部でも、定員や枠の関係でゴリラ女はスポーツ教育学科、キングコング女は健康・スポーツマネジメント学科を受けることになった。
迎えた推薦入試の面接。ゴリラ女が放った全国二冠という圧倒的な実績は、目の前の面接官達の背筋をピッと伸ばさせ、その言葉の重みで完全に唸らせた。
年内には、早くも合格の知らせが届いた。
しかし、封筒を開けた本人に浮かれた様子は微塵もなかった。
「そうですか」
彼女は、受かると思って受験したからである。驚きも喜びもせず、ただ「次の段階に進むだけだ」と淡々と受け止めていた。
2009年3月。春の足音が聞こえ始めた穏やかな日。
かつての中学校の卒業式とは違い、彼女はきちんと制服のボタンを留め、乱れのない身なりで式典に出席していた。3年前、風呂に入り、無造作だった髪を整え直したあの日から彼女は少しずつ「社会という枠組み」の中で生きる術を身に付けていた。
クラスは違えど、同じ校舎の窓から見える景色や式の雰囲気をどこか共有しながら卒業式は進む。
ゴリラ女のクラスの担任は、証書を渡す時にフッと小さく笑った。
「お前は……最後まで、変わらんかったな」
式典の厳かな空気を他所に、ゴリラ女はいつも通りの低い声で返した。
「そうですね」
彼女の口角がほんの僅かに、しかし確かに上がった。
式が終わり、それぞれのホームルームを終えた生徒達が校庭へと溢れ出す。
違うクラスだったため、式典中は離れていたが、校舎の出口付近でキングコング女と自然に合流した。
「おい、ゴリラ! やっと終わったな!」
キングコング女が晴れやかな顔で駆け寄ってくる。
ゴリラ女は制服の襟を正しながら、ふっと息をついた。
「長かったような、短かったようなやな」
校門を出る。
3年前のあの日のように、彼女は後ろを一度たりとも振り返らなかった。
次は大阪体育大学。ここでも自分が一番強いという証明を刻み込むために、彼女の足取りは淀みなく、前へ前へと進んでいった。