-30度の北海道中川郡美深町での極寒トレーニングを終え、5人は飛行機で大阪へと舞い戻った。美深の豪雪を踏み締めて鍛え上げた足腰、そして冷気で極限まで追い込んだ心肺機能は、33歳のゴリラ女の身体を完全に無差別級仕様の化身へと変えていた。
暫くすると、すぐに2月がやってきた。
年明け最初の公式戦である「第34回大阪府女子柔道選手権大会」。この大会は体重無差別の個人戦であり、近畿予選を経て、女子柔道界の最高峰「皇后盃全日本女子柔道選手権大会」へと繋がる極めて重要な一戦である。
舞台は、堺市堺区にある堺市立大浜武道館。
まずは次のステージである近畿大会に駒を進めるため、ベスト8以上に入ることが絶対条件となる。
しかし、ゴリラ女の視線はそんな低いところにはなかった。2023年、8年のブランクから復帰して以降、大阪府体重別ベスト4、全日本実業個人準優勝、講道館杯出場と、MMA仕込みの地力で柔道界を揺るがしてきたのだ。更に後半は暑中稽古に長野の高地トレーニング、そして先日の北海道合宿と、これでもかと泥臭く畳に向き合ってきた。
「ベスト8に入れば成功」ではない。狙うは当然、「ベスト4以上」。最初からベスト8の壁など、通過点に過ぎないと確信していた。
決戦の前夜、天王寺の公営住宅。夕食の食卓を囲みながら、ゴリラ女はふと独り言をこぼした。
「明日、2024年初の試合か……」
母が、お茶を注ぎながら顔を上げる。
「どこであるん?」
「堺の大浜武道館って所。最近出来たから、めっちゃ綺麗やで」
長女の猿女が、飯をモグモグ食べながら不敵に笑う。
「お前なら、ベスト8とか余裕やろ?」
「まあ、今年は年明けから美深でトレーニングしたしな。コングとも完璧に仕上げたから、自信はある。絶対行けるわ」
そんな力強い会話が交わされた。
当日の朝。ゆっくりと目を覚まし、母が作った朝食を食べていると再び声を掛けられる。
「試合何時から? 早いんちゃうん? 弁当は?」
「いや全然。今回は13時受付からの14時試合開始やねん。昼飯を家でしっかり食ってから行くわ、今回の会場は近いし」
時間にたっぷりと余裕があるため、ゴリラ女はリビングの畳スペースで軽く1人、イメージトレーニングを始めた。目を閉じると、美深の氷のような畳の上でマウンテンゴリラ女やキングコング女と組み合った感覚が鮮烈に蘇る。重心のブレはゼロ、バイオメカニクスに基づいた大外刈の角度は完璧。脳内で相手を3人ほど畳に沈めたところで、丁度お昼時になった。
昼食をしっかりと胃袋に収めると、大きなスポーツバッグに真っ白な全柔連規格の柔道衣、テーピング、そして冷たい麦茶の入った水筒を詰め込み、慣れ親しんだ天王寺の家を出た。
鶴橋駅から大阪環状線に飛び乗り、新今宮駅で南海電鉄に乗り換えて堺駅で下車。そこから歩いてすぐ、海風が心地よい大浜公園内に、その巨大な美しい建物が姿を現した。
「おー……」
会場に入った瞬間、ゴリラ女は思わず声を漏らした。2021年に新設された堺市立大浜武道館は、半分が剣道場、半分が柔道場となっており、檜の香りが残る最新鋭の武道館だ。
特に更衣室の綺麗さは、これまで数々の年季の入った道場をを経験してきた彼女にとっても感動モノだった。
整った環境、ピカピカの畳。自然と胸の奥からフツフツとやる気が湧き上がってくるのを感じた。
「よっしゃ!行ったるか!」
13時の受付を済ませ、ウォーミングアップ場へ向かうと、そこには既に修道館クラブの仲間である副将のキングコング女が待っていた。
「ゴリラ、身体軽そうやな」
「おう、美深の雪に比べたら、ここの畳は動きやすいわ」
14時、運命のブザーが鳴り響き、第34回大阪府女子柔道選手権の幕が開けた。体重無差別の個人戦。初戦から、相手は警察や大学の現役バリバリの若手重量級達が牙を剥いてくる。
しかし、今日のゴリラ女は完全に冷静だった。
「始め!」
審判の合図と共に、巨体が弾ける。相手が組み手を嫌って下がろうとした瞬間、ゴリラ女の足が美深の豪雪を漕ぐように、力強く畳を掴んだ。
(ここや。バイオメカニクス的、絶対の黄金角!)
ガシッと奥襟を叩き込むと同時に、相手の巨体を一瞬で前方に崩す。間髪入れず、丸太のような右足が、相手の軸足を根刮ぎ刈り取った。北海道合宿で手に入れた、雪をも裂く破壊力の大外刈。
――ドゴォォォン!!!
武道館全体に、地鳴りのような衝撃音が響き渡る。審判の手が真っ直ぐ上に挙がった。
「一本!!」
どよめく観客席。相手は畳にのめり込んだまま、暫く動けなかった。
続く2回戦、そしてベスト8をかけた3回戦も、ゴリラ女の勢いは止まらない。UFCのケージで培った絶対に下がらない圧力と、大体大のツインタワーとして鍛え上げた技のキレで、相手を圧倒。圧倒的な強さでベスト8の壁を突き破り、準々決勝も勝利して目標通りのベスト4に名乗りを上げた。
目標の大阪府予選突破、そして近畿選手権への切符を、文句なしの実力でもぎ取った瞬間だった。
夕方、心地よい疲労感とやり切った充実感を背負って、ゴリラ女は天王寺の実家へと帰宅した。
玄関の扉を開けるなり、道着の詰まったバッグを置いてリビングへ入る。そこには、既に仕事や練習を終えた姉妹達が集まっていた。
「とりあえず、近畿予選は確定したわ。ベスト4や」
待ってましたとばかりに、三女のチンパンジー女が身を乗り出す。
「お、流石やん姉ちゃん! で、次の近畿予選の場所はどこなん?」
「姫路やな」
それを聞いた母が、台所から顔を出して目を丸くした。
「え、姫路? あんたまた兵庫県まで行くん? 遠いなぁ!」
「何言うてんねん。『近畿』予選なんやから、兵庫県で行われるのなんか、おかしくないやん(笑)」
四女のオランウータン女が、珈琲を啜りながら微笑む。
「今度は近畿かぁ」
最後に、長女の猿女が腕を組んで、ニヤリと笑った。
「これであと1個やな。近畿予選で上位に入れば……遂に全国や。お前がUFCから柔道に戻って来て、日本の天辺獲る姿、いよいよ現実味帯びて来たやんけ」
ゴリラ女は、母が淹れてくれた熱いお茶を飲み干し、引き締まった顔で頷いた。
「おう。実業の底力、近畿の畳でも見せつけたる。姫路城の目の前で、うちとコングで大暴れして、絶対に全日本への切符掴み取ってくるわ!」
冬の天王寺の夜。狭いリビングは、33歳の大将・ゴリラ女の次なる大いなる挑戦に向けて、どこまでも熱く、そして笑顔に満ち溢れていた。