2024年5月。横浜での「皇后盃全日本女子柔道選手権」を終えたツインタワーが、大阪城の袂にある修道館の道場へ戻ってきた。
夕方の道場には、いつもの練習仲間であるチンパンジー柔道女、マウンテンゴリラ女、オランウータン柔道女の3人が待っていた。2人の顔を見るなり、先鋒候補のチンパンジー柔道女が目を輝かせて駆け寄ってくる。
「いやー! ゴリラ女さんもキングコング女さんも凄いですよ! YouTubeの配信、実家でも仕事場でも皆大騒ぎでした。日本のベスト8とベスト16ですよ!? うちももっと練習して追い付かないと、マジで置いて行かれるわ……!」
マウンテンゴリラ女もオランウータン柔道女も、「ほんまそれ、大阪の街道場から全日本のトップに喰い込むなんて快挙やで」と口々に2人を称賛した。
しかし、畳の上にどっかと座り込んだツインタワーの顔に、満足の気配は1ミリもなかった。
ゴリラ女は道着の襟を正しながら、野獣のような鋭い目で3人を見据える。
「……初出場の割には悪くなかった。けどな、うちらは全国に出るだけで満足するようなタマちゃうねん。全国優勝目指してんねん。全然足りん。もっと地獄みたいな練習が必要や」
その言葉に、相棒のキングコング女も深く頷き、視線を道場のカレンダーへと移した。そこには「6月:全日本実業柔道団体対抗大会(女子第1部)」の文字が赤く囲まれている。
「せや。個人の悔しさは来月にぶつける。それより来月の団体戦に向けて、今日からメニュー全取っ替えや。個人戦は自分が勝てばそれで良い。けど団体戦は『勝ち逃げ』『ポイント差』『自分の役割』を徹底的に意識せんと、どれだけ個人の地力が強くてもチームとして負けんねん」
初の団体戦に向けて並々ならぬ意欲を見せるキングコング女の横で、ゴリラ女の口元が不敵に吊り上がった。180cmの巨体を揺らし、仲間達を見回す。
「お前ら、修道館のメンバーで臨む初の団体戦やろ? 楽しみじゃないんか? うち、あの過酷な北海道合宿を一緒に乗り越えたこの5人で、チームとして戦えるんかと思ったら……今からワクワクが止まらんわ!」
その言葉に、道場の空気が一気に引き締まった。マウンテンゴリラ女がノートを開き、真剣な表情でゴリラ女に問いかける。
「……やりますか。ゴリラ女さん、具体的な練習メニュー、どうします?」
ゴリラ女はニヤリと笑い、拳を畳に叩き付けた。
「状況設定乱取りや。一本取る練習だけちゃうぞ。『引き分けにする練習』『絶対に負けん練習』をする。例えば『残り1分でリードされている状況』『指導を1つ先行されている状況』な。スコアを意識したシチュエーション練習を徹底的に叩き込む!」
練習初日、5人は道場の隅に集まり、ホワイトボードを囲んでチームの編成と選手配列、そして各自の役割を決定するための作戦会議を開いた。女子第1部は5人制。57kg以下)、70kg以下)、無差別の配列をどう機能させるかが勝負の分かれ目となる。
【修道館クラブ・全日本実業団体 オーダーシート】
[先鋒] チンパンジー柔道女 (57kg以下)
[次鋒] マウンテンゴリラ女 (57kg以下)
[中堅] オランウータン柔道女 (70kg以下)
[副将] キングコング女 (70kg以下)
[大将] ゴリラ女 (無差別)
ホワイトボードの文字を見つめながら、5人はそれぞれの役割を頭に叩き込んで行く。
「まず、先鋒のチンパンジー柔道女」
ゴリラ女がマーカーで名前を囲む。
「お前はチームの『流れを作る役』や。軽量級のスピードを活かして、最初から思い切って攻めて攻めて攻めまくれ。後ろにうちらが控えてるんやから、後ろ髪引かれるような戦いはすな。チームを勢い付ける一撃を期待しとる」
「了解です! どんどん前に出て、秒殺する気で行きます!」
チンパンジー柔道女が拳を握る。
「次、次鋒のマウンテンゴリラ女」
キングコング女が引き継ぐ。
「お前には『相手を疲れさせてでも勝ち切る』という泥臭い役割を任せる。お前の持ち味である圧倒的なパワーと、組み手でジワジワ嫌がらせをするテクニック。これで相手のスタミナを空っぽにして、焦らせて指導を誘う。泥沼に引きずり込め」
「任せて下さい。相手が泣き言言うまで組み手切り続けますわ」
マウンテンゴリラ女が不敵に笑う。
「そして中堅、オランウータン柔道女」
ゴリラ女の目が鋭くなる。
「お前の仕事は『絶対に崩れない』ことや。もし先鋒・次鋒がリードして回してきたら、無理に一本を狙いに行く必要は1ミリもない。引き分けでもチームにとっては大金星や。相手が焦って大技に来るのを、油すましみたいにスカして潰す。負けない柔道を徹底しろ」
「はい。何があっても畳に根を張って、1点もやらん柔道を見せます」
オランウータン柔道女が静かに頷いた。
「副将はコング」
ゴリラ女が相棒を見る。
「言うまでもなく、うちのチームの『一本を取れるエース格』や。もし前の3人の流れが悪くても、182cmから繰り出すあの豪快な投技で、一気に会場の空気を修道館に変えてまえ。お前が投げたら勝ちや」
「おう、誰が相手でも天井見せたるわ」
キングコング女が牙を剥くように笑う。
「最後、大将はうちや」
ゴリラ女が自分の名前を指差す。無差別級、チームの命運を最後に託される大黒柱。
「どんなスコアで回って来ようが、うちが全部寝技でケリを付けたる。お前らは安心して暴れて来い!」
作戦が固まると、即座に実戦を想定したシチュエーション乱取りが始まった。道場にタイマーのブザー音が鳴り響く。
設定①:「残り1分、チームは1勝2敗1分。大将戦で一本勝ちが必要」
ゴリラ女が畳の真ん中に立つ。この絶体絶命の状況設定では、普段のじわじわハメ殺す寝技型から一転、野生の獣のような獰猛さを見せる。
「始め!」の合図と共に、最初から激しく前へ出て組み手を圧倒。マウンテンゴリラ女の襟を掴むや否や、強烈な大内刈りで崩し、畳に這いつくばった相手の首根っこを掴んで一瞬で寝技の縦四方固へ移行する。
「もっと早く! タイマー見ろ! あと30秒しかないぞ!」
キングコング女の怒号が飛ぶ中、ゴリラ女は息を荒くしながら何度も息の詰まるような連携を繰り返した。
設定②:「チームがリード中。大将戦は引き分け以上で修道館の優勝」
今度は真逆の設定。ゴリラ女は時間を稼ぐプロの顔になる。
無理な勝負は一切しない。相手が必死になって組みに来ようとする手を、バイオメカニクスに基づいた最小限の力でパシパシと切り、相手の強引な巻き込み技を上から完璧に潰してグラウンドでガッチリとキープ。寝技でも、極めには行かず、相手の体力を奪うことだけに特化して膠着させる。
「よし、それでええ! 相手イライラしとるぞ! 時間使え!」
ベンチからオランウータン柔道女の声が響く。正に「負けない柔道」の極致だった。
設定③:「ゴリラ女、指導1つ先行。残り40秒」
最も実戦で起こりうる、心臓が痛くなるような設定。
「焦って大技を狙ったらカウンターを喰らう。それが一番アホや」
ゴリラ女は頭を冷徹に保ち、組み手を作り直す。焦りを見せず、逆にじわじわと摺り足でプレッシャーを掛け続け、相手を場外際まで追い詰めていく。自分が技を出すフリをしながら、相手に「消極的姿勢」の指導を出させるような、老獪な試合運びを1本1本身体に染み込ませていった。
数時間に及ぶ地獄の設定乱取りを終え、5人は汗だくのまま畳の上に車座になった。道着からは湯気が立ち上り、全員がプロテインシェイカーを振りながら、今日の感覚を擦り合わせる。
キングコング女が水を鯨のようにゴクゴクと飲み干し、口元を拭った。
「ぷはぁ。……ま、副将のうちは大将戦までにチームの勝ちを決められたら一番理想やけどな。ゴリラを楽させたいわ」
するとゴリラ女が苦笑いしながら頭を振る。
「何言うてんねん。相手は全国から集まるゴリゴリの実業団やぞ。大将戦まで縺れること、それどころか代表戦まで縺れることも絶対に考えて動かなあかん」
中堅のオランウータン柔道女がノートを見つめながら、冷静に付け加える。
「そうですね。うちが中堅で『引き分けでええ試合』なんか、それとも『リスクを冒してでも一本を取りにいかなあかん試合』なんか、スコアボードを見て瞬時に判断します。そこはみんなで徹底して共有しましょう」
先鋒のチンパンジー柔道女が、パンパンになった太腿を叩きながら笑った。
「とりあえず、私は最初からトップギアで飛ばして、相手の先鋒を秒殺してきますわ! 修道館クラブここにありって、全国に見せつけたる!」
次鋒のマウンテンゴリラ女も、ニヤリと笑って胸を張る。
「先鋒が作ってくれた流れを、うちが次鋒で更にドロドロの沼にして、相手の心をバキバキに折りますわ。疲れさせる役、任せて下さい」
5人の会話を聞きながら、ゴリラ女は胸の奥が熱くなるのを感じていた。
これまでは、ケージの中でも、先月の皇后盃でも、戦う時はいつも「自分1人」だった。勝つのも自分、負けるのも自分の責任。それが個人スポーツである武道・格闘技の宿命だ。
しかし、今は違う。
自分がもし不覚を取っても後ろにはコングが居る。前の3人が泥に塗れて繋いでくれたバトンを、最後に自分が命がけで守り抜く。
仲間と共に、一つの目標に向かって、戦術を練り、汗を流し、お互いの背中を預け合う。
「……団体戦って、めちゃくちゃおもろいな」
ゴリラ女が呟いた言葉に、他の4人が一斉に顔を見合わせて笑った。
「当たり前やん、遅いねんゴリラ!」
キングコング女がその広い背中をバシッと叩く。
大阪城の横、修道館の夜は更けていく。個性もスタイルもバラバラの類人猿最強柔道家5人。しかしその絆は、どの実業団よりも強固に、そして熱く、6月の全日本実業団体の畳へ向かって、一本の太い導火線のように繋がっていた。