6月に入り、全日本実業柔道団体対抗大会まで残り数日となった。会場は、琵琶湖の北東に位置する滋賀県長浜市の長浜伊香ツインアリーナ。修道館クラブの面々にとって、初の本格的な5人制団体戦への殴り込みである。
いつものように夕方の道場に集まってきた5人だが、その行動は自然と早かった。集合時間より随分前に全員が畳に上がり、各自で黙々とストレッチや入念な打ち込みを始めている。
「……あと数日やな」
チンパンジー柔道女が、自分の道着の紐を締め直しながらぽつりと言った。
「いよいよやな」
キングコング女が、182cmの巨体をゆっくりと前に折り曲げてハムストリングスを伸ばしながら応じる。
「場所って長浜やろ? 行ったことある?」
オランウータン柔道女が時刻表のメモを片手に尋ねると、マウンテンゴリラ女が「うちは京都やから琵琶湖の方はたまに行くけど、長浜のあの辺りまでは流石にないわ」と返す。
いつもの修道館なら、天王寺のノリで誰かしらがボケて笑い声が絶えない。しかし今日ばかりは、道場を包む空気の密度が明らかに違っていた。誰もが自分の心拍数と向き合い、試合の畳の上をシミュレーションしている。
乱取りの本数は意図的に少なめに制限された。その代わり、一本一本の質と意味合いを全員が極限まで高めていく。
先鋒のチンパンジー柔道女は、試合の流れを一瞬で手繰り寄せる得意技への入り方を何度も確認する。次鋒のマウンテンゴリラ女は、絶対に組み負けない手の位置、相手の襟をコントロールする形を反復。中堅のオランウータン柔道女は、相手に攻め込まれた際の守りからの素早い切り返しを意識し、副将のキングコング女は、一撃で相手を仕留める決め技のタイミングを計る。
そして大将のゴリラ女。彼女は180cm・90kgの巨体を俊敏に動かし、立ち技から寝技への移行速度、相手の脇を差して瞬時にグラウンドに引きずり込む初動だけを重点的に確認していた。
練習の最後、監督がホワイトボードの前に5人を集めた。ボードには各階級の配列と、想定されるあらゆるスコアがびっしりと書き込まれている。
「いいか。先鋒が勝っても絶対に浮かれるな。逆に、先鋒次鋒が負けて回ってきても誰も慌てるな。一本が必要な場面と、引き分けでいい場面。それを5人全員が頭に叩き込んで試合に入れ」
監督の鋭い声が道場に響く。
大将のゴリラ女は、ボードの一番下に書かれた自分の名前を見つめていた。どんな展開になろうとも、最後に自分が全てを背負って畳に上がる。副将のコングの戦いを見ながら、「一本が必要か、引き分けで十分か」を瞬時に判断し、自分の脳と身体のモードを切り替えるイメージトレーニングを、彼女は頭の中で何度も、何度も繰り返していた。
練習が終わり、5人は畳の上に綺麗な円を描いて座った。
監督がゆっくりと全員を見回し、最後に言葉をかける。
「ここまでやることはやった。本番は自分たちの柔道をするだけや」
誰も大きな声は出さなかった。ただ、深く、静かに、5つの首が同時に頷いた。
前日の夜。天王寺の公営住宅のリビングには、いつものように大盛りの肉料理が並んでいた。
明日の遠征を控え、母がキッチンから声をかける。
「明日は何時に出るん?」
大盛りの白米に手を伸ばしながら、ゴリラ女が短く答える。
「朝早い。長浜である」
「忘れ物だけせんようにな」
母はそう言いながら、ゴリラ女の前に余分に肉の皿を突き出した。
「柔道着もゼッケンも、さっきカバンに用意した。大丈夫や」
母は、明日の試合の相手がどこだとか、勝ち負けがどうだとか、細かいことは一切言わない。ただ静かにゴリラ女の顔を見て、いつも通りのトーンで告げた。
「怪我だけは気ぃ付けや。無事に帰ってきぃ」
その横で、姉妹も、テレビを見ながら自然に声をかける。
「今回は初の団体戦なんやろ? チーム戦ってのもおもろそうやん。皆で頑張ってきぃや」
「姉ちゃんの大将戦まで回る前に、コングの姉ちゃんあたりが決めてくれそうやけどな」
敢えて過度なプレッシャーをかけるような劇的な言葉は誰も口にしない。ゴリラ女もまた、「おう、行ってくるわ」と普段通りの、まるで明日の朝も近くの回転寿司のアルバイトにでも行くかのような軽い調子で返した。
世界を相手に戦ってきた怪物達を擁する家族だからこそ、大きな大会の前夜ほど、普段通りの空気を保つ。それが彼女達の、何よりのディフェンスであり、送り出し方だった。
当日の朝。ゴリラ女は天王寺から鶴橋駅へ向かい、そこから大阪環状線で大阪駅へと向かった。背中の大きなリュックには、分厚い柔道着2着、着替え、テーピング、そして修道館のゼッケンが詰まっている。
大阪駅の連絡橋口の改札を出ると、既に他の3人が集まっていた。
「おはようさん。うち、天理住みやから朝早いわ……」
チンパンジー柔道女が目を擦りながら欠伸をする。
「ほんま眠たいな。今から2時間かかるし寝とこ」
キングコング女が苦笑いしていると、オランウータン柔道女が駅の案内電光掲示板を見上げながらスマホの時計を確認した。
「この敦賀行きの新快速やな。これ一本で木ノ本まで行けるから楽といえば楽や」
5人は乗車位置に並び、滑り込んできた新快速のシートに腰を下ろした。大阪駅を出発すると、車窓には見慣れたビル群が流れていく。
京都駅に到着すると、ホームで待っていたマウンテンゴリラ女が乗り込んできた。彼女は実に元気そうで、5人の顔を見るなり「おはよう! 長い1日になりそうやな、やろうや!」と白い歯を見せた。
京都を過ぎるまでは、車窓の外はまだ見慣れた関西の街並みだった。しかし、列車が滋賀県に入り、湖西や湖東のラインを進むにつれて、徐々に景色はその色彩を変えていく。
都会のコンクリートは影を潜め、窓の外には初夏の青空の下で青々と輝く広大な田園風景が広がり始めた。遠くには比良山系の雄大な山並みが連なっている。
「今日は滅茶苦茶天気ええな……」
誰かがぽつりと呟くと、5人は自然と会話を止め、揃って窓の外の景色を見つめた。
列車が米原を過ぎ、北陸本線へと入る。暫くすると、車窓の左手に広大な琵琶湖の水面が姿を現した。
「うわ……やっぱ琵琶湖でかいな。海やんこれ」
チンパンジー柔道女が窓に顔を近づける。
「大阪じゃ絶対に見られへん景色やな。何か、遠くまで来たって感じするわ」
キングコング女が感心したように言う。ゴリラ女もまた、静かに流れる青い湖面を眺めながら、頭の中で今日の試合、自分の果たすべき大大将としての役割を静かに整理していた。
移動中の車内では、終始柔道の硬い話をするわけではなかった。寧ろ、緊張を解すかのような雑談の方が多かった。
「今回はホテル泊まりちゃうから、日帰りやろ? 帰りの荷物は道着だけやから軽くてええな」
「木ノ本駅って、うち人生で初めて降りるわ。どんなとこなんやろ」
「終わったら大阪戻って何食べる? ガッツリ肉いきたいな」
そんな他愛のない話の合間に、ふとした沈黙が訪れると、誰からともなく団体戦の確信に触れる言葉が漏れた。
「先鋒、最初の流れ頼むで」
「おう、任せとき。うちが最高のスタート切ったる」
「大将まで回ったら、ゴリラ女さん、マジで任せますからね」
「心配すな。後ろにうちがおる。お前らは前だけ見て戦え」
列車が目的地の木ノ本駅に到着した。
ホームに降り立つと、大阪市内のあの纏わり付くような熱気とは全く違う、ひんやりとした、澄んだ空気が身体を包み込んだ。駅前は静かで、すぐ近くまで緑豊かな山々が迫っている。初夏の瑞々しい緑が目に鮮やかだった。
ゴリラ女はリュックの紐を締め直し、周囲の景色を見渡して一言、呟いた。
「……いよいよやな」
そこから大会のシャトルバスに乗り込み、会場へと向かう車内では、自然と5人の会話は減っていった。車内の窓から差し込む初夏の光を浴びながら、全員がそれぞれ、頭の中で完璧な自分の柔道を組み立てていた。落ち着きと、静かな闘志が同居する、極めて質の良い道中だった。
会場の長浜伊香ツインアリーナは、天井が高く、真新しい畳が敷き詰められた素晴らしい空間だった。一歩足を踏み入れた瞬間、5人の心臓の鼓動は自然と高揚していく。
速やかに更衣室で修道館のゼッケンが付いた道着に着替えると、5人は畳に上がり、入念にアップを始めた。
今大会の女子第1部は、トーナメント戦ではなく、予選を勝ち抜いた強豪4チームによる総当たりのリーグ戦。一戦一戦の勝ち点の重みがダイレクトに響く過酷なシステムである。
第1試合。初戦ということもあり、全日本クラスの猛者たちであってもチーム全体に少し硬さが見られた。
先鋒のチンパンジー柔道女は「始め!」の宣告と同時に、その硬さを自ら叩き割るように突進した。相手は様子を見ようと慎重な組み手を見せるが、お構いなしに左右の担ぎ技を連発して終始主導権を握る。試合は引き分けかと思われた残り15秒、相手が焦って前に出てきた瞬間だった。完璧なタイミングで放った電撃の出足払いが炸裂。相手の足が綺麗に払い飛ばされ、畳に背中から落ちて技あり。そのまま試合終了のブザーが鳴り、優勢勝ちで修道館に最高の先制点を挙げた。
次に先鋒の作った勢いを、次鋒のマウンテンゴリラ女が倍加させる。ガッチリと奥襟を叩き込む力強い組み手で、相手を完全にへし折るように押し込んだ。相手は防戦一方となり、場外際へ逃げる展開が続く。マウンテンゴリラ女の圧倒的な圧力の前に、相手には「消極的姿勢」「場外」と次々に指導が重なり、最終的に4分を待たずに「指導3」による反則勝ち。堅実極まりない試合運びで2連勝。
中堅戦。相手は後がないため、開始から捨て身の猛攻を仕掛けてきた。中盤、相手の強力な払巻込を真面に食らい、身体が宙に浮くヒヤリとする場面を迎える。しかし、オランウータン柔道女は空中で驚異的なボディコントロールを見せ、腹這いで着地。相手の追撃の寝技も完全に潰し、畳に根を張るような防御に徹する。そのまま時間いっぱいを戦い抜き、貴重な引き分け。「崩れない盾」としての任務を見事に果たした。
ここでツインタワーの一角が牙を剥く。副将のキングコング女は、相手の執拗な組み手を強引に引き剥がすや否や、高い位置から強烈な内股を炸裂させた。相手の身体が宙で綺麗な放物線を描き、畳にドスンと大音量で叩き付けられる。審判の「一本!」の声がアリーナに響き渡り、会場からは響めきと大きな拍手が沸き起こった。
既に3勝1分の修道館だが、大将のゴリラ女の眼光は鋭いままだった。「最後まできっちり締める」と無言で畳に上がると、開始僅か30秒、大内刈りで相手の体勢を崩し、そのままグラウンドへ引きずり込む。世界基準の強烈なパワーで胸を合わせ、上四方固で完全にロック。相手は身動き一つできず、20秒が経過して抑え込み一本。修道館クラブ、4勝1分という最高の形で初戦を完全勝利で飾った。
2戦目の相手は、警察組織の猛者達を集めた超強豪。試合は一転して、息の詰まるような接戦となった。
1戦目の勢いのまま前へ出るチンパンジー柔道女だったが、相手は百戦錬磨の警察官。こちらの技の入り際を完全に狙われていた。中盤、チンパンジー柔道女が低く入った背負投を強引に返され、更に終盤、相手の鋭い一本背負投に捕まって技ありを献上。最後まで取り返そうと攻め続けたが、そのままタイムアップ。手痛い優勢負けを喫し、チームに緊張が走る。
取り返したい修道館だが、相手の次鋒は全日本強化指定にも入るエース格。マウンテンゴリラ女は真っ向勝負を避け、泥沼の組み手争いに相手を引き込んだ。お互いに指導1つずつを背負う緊迫した展開の中、相手の得意な形を全て殺し切り、執念の引き分け。これ以上の失点を防ぎ、後ろへ繋ぐ。
スコアは0勝1敗1分。ここで星を落とせばチームの負けが決まりかねない極限状態。試合中盤、相手の激しい突進と手数の前に、オランウータン柔道女に「偽装的攻撃」として無情にも指導1が与えられてしまう。実業団ルールにおいて、指導1つの差のまま終われば引き分けだが、もし焦って技を掛け急ぎ、カウンターを食らうか、あるいはもう一つ指導を貰って指導2になれば、その時点で相手の優勢勝ちとなってしまう絶体絶命のピンチ。相手ベンチからは「もう一つ指導を握らせろ!」と怒号のような指示が飛ぶ。しかし、オランウータン柔道女の精神は狂わなかった。相手が指導2つ目を狙って更に圧力を強めてきても、決して慌てない。相手が強引に技を仕掛けてくれば、即座に寝技へと引き込み、ガッチリと下からホールドして相手の動きを完全にフリーズさせた。審判の「待て」がかかる度に、貴重な時間が数十秒ずつ削られていく。絶対に2つ目の指導を貰わない、そして決定的なポイントも絶対に与えない冷徹なディフェンスを徹底。最後は相手の焦りの大振りの技を潰した所で4分間のブザー。指導1の不利を背負いながらも、それ以上の失点を許さず、執念の引き分けをもぎ取った。このオランウータン柔道女の泥臭い4分間があったからこそ、修道館は首の皮一枚繋がることとなった。
0勝1敗2分。修道館の絶体絶命の危機に、副将のキングコング女が吠えた。相手の猛烈な突進を、182cmの強靭なフレームで真正面からガチリと受け止める。相手が次の技に移ろうとした一瞬の隙を見逃さなかった。身体を浴びせるようにして放ったカウンターの地響きがするような大外刈り。相手は完全に意識を飛ばされたように畳に沈み、文句なしの一本勝ち。この一撃でスコアは1勝1敗2分。遂に同点となり、勝負を大将戦へ委ねた。
大将戦。現在のチームスコアは1勝1敗2分だが、内容で修道館がリードしているため、状況は「ゴリラ女が引き分け以上でチームの勝利が確定」という条件だった。
ゴリラ女は畳に上がった瞬間、完全に冷徹なクローザーの目になっていた。相手の大将は一発逆転を狙って死に物狂いで奥襟を叩きに来るが、ゴリラ女は無理な勝負に一切付き合わない。相手の強烈な引き手を冷徹に切り、技を完璧に潰して時計を進めていく。
焦った相手の雑な仕掛けをいなし、場外際で時間をコントロールする。相手の焦燥感がアリーナ全体に伝わる中、そのままタイムアップ。狙い通り、完璧に計算された引き分けでチームの2勝目を確定させた。
第3試合。お互いに2勝同士。この最終戦の勝者が、全日本実業団の頂点に立つ。アリーナの空気は、これまでとは比較にならないほど張り詰めていた。
チンパンジー柔道女の相手は、過去に全日本体重別で上位に入賞している格上の実力者。しかし、先鋒としての責任を胸に、チンパンジー柔道女は一歩も下がらなかった。激しい組み手争いから、相手の得意な内股を間一髪でスカし、逆に背負投で果敢に攻め立てる。お互いに譲らず、意地の引き分け。先鋒としての仕事を全うした。
次鋒戦。マウンテンゴリラ女は試合終盤、残り30秒の所で勝負に出た。組み手を一瞬の早業でスイッチすると、低く鋭く踏み込んだ渾身の小内刈りを敢行。これが相手の意表を突き、見事に崩して技ありを奪い取る。そのまま残りの時間を執念でキープし、貴重な優勢勝ち。修道館が大きな一歩リードを奪う。
またしても1点リードで回ってきた中堅戦。オランウータン柔道女の任務は明確だった。相手の中堅は文字通り一撃必殺の裏投げを持つパワーファイター。オランウータン柔道女は、相手に絶対に胸を合わせさせないディフェンスに徹した。強烈な引きをいなし、相手の猛攻を文字通り泥臭く粘り切って、3試合連続の引き分け。リードを保ったまま副将へ繋ぐ。
勝てばその時点で修道館の優勝が決まる場面。キングコング女が雄叫びとともに畳に上がる。しかし、相手の副将も全日本強化指定選手であり、この大会に全てを懸けていた。両者による大型選手同士の激しい技の応酬、一進一退の攻防が続く。だが中盤、キングコング女が勝負をかけた大外刈りの入り際、一瞬の隙を突かれた。相手の電光石火の払腰のカウンターを食らい、182cmの巨体が畳に返される。無念の一本負け。
この瞬間、チームは1勝1敗2分、スコアも内容も完全に互角。
優勝の行方は、全て大将戦、ゴリラ女の双肩に託されることになった。
一本負けを喫し、悔しさに顔を歪め、涙を浮かべながら畳を降りてくるキングコング女。その相棒とすれ違う瞬間、大将のゴリラ女は彼女の肩をガシッと力強く掴み、低く、しかしこれ以上ないほど頼もしい声で告げた。
「……コング、気にするな。私に任せろ」
ゴリラ女がゆっくりと、地を踏みしめるように畳の中央へ歩み出る。対峙する相手の大将もまた、実業団屈指のパワーを誇る無差別級の実力者であり、怪物。
「始め!」の合図と共に、凄まじい衝撃音を伴う組み手争いが始まった。お互いに180cmクラスの巨体。引き手が、釣り手が、道衣を掴む度にバチバチと肉と布がぶつかる音がアリーナに響く。両者一歩も引かない。
会場の全員が、そして相手ベンチも「ゴリラ女はどこかのタイミングで引き込み、得意の寝技勝負に持ち込んでくるはずだ」と確信し、その警戒を最大級に高めていた。相手は大柄な体を極端に低く構え、寝技への移行を防ぐために腰を引いている。
残り時間が少なくなっていく。タイマーの数字が減るに連れ、会場の緊迫感は息が出来ないほどピークに達した。誰もが「このまま引き分けで代表戦か」と思った、その時だった。
ガッチリと両手で組み手を作った刹那、ゴリラ女の身体が、これまでの重量級の動きとは一線を画すスピードで、相手の足元へと深く滑り込んだ。
寝技ではない。――巴投。
普段のゴリラ女の泥臭いパワー柔道、そして寝技への固執からは、誰も、世界中の誰も予想だにしない、極めて鮮やかで、空中へ相手を放り出す捨身技だった。
寝技へのディフェンスに意識の全てを割き、前傾姿勢になっていた相手は、真下から突き上げられるような回転軸に対して、完全に意表を突かれた。防御の反応がコンマ数秒遅れる。ゴリラ女の足が相手の腹にガッチリと掛かり、そのまま後方へ投げ切る。
相手の巨体が、長浜伊香ツインアリーナの空間を大きく、綺麗に一回転した。
――ドォォォン!!!
凄まじい地響きのような衝撃音がアリーナに轟いた。相手の背中が、青い畳に真っ平らに、完璧な形で叩き付けられていた。
「一本!!!」
審判の手が真っ直ぐに天へ挙がると同時に、試合終了のブザーが鳴り響いた。
その瞬間、修道館クラブの「全日本実業団体・女子第1部優勝」が、完全に現実のものとなった。
「決めたぁぁぁ!!!」
ベンチからキングコング女が涙を薙ぎ払って叫び、チンパンジー柔道女が飛び跳ね、マウンテンゴリラ女も両拳を突き上げてガッツポーズ。オランウータン柔道女は笑顔で激しく拍手を送っている。
しかし当のゴリラ女は、激しく上下する呼吸を整えながら、大きく感情を爆発させることはしなかった。乱れた道着を静かに整え、畳の中央に戻ると、対峙した相手、そして審判に対して、深く、静かに、敬意を込めた一礼を捧げた。
それからようやく、溢れんばかりの最高の笑みを浮かべて、涙と笑顔で駆け寄ってくるチームメイトたちの元へと戻っていった。
表彰式。
5人は揃って一番高い表彰台へと上がった。ずっしりと重い優勝旗と、賞状を受け取る。
カメラを向けられた記念撮影では、5人全員がこれ以上ない最高の笑顔を輝かせていた。
「皆で勝ち取った優勝」
その実感が、5人の胸に深く、温かく染み渡っていく。誰か一人のスーパースターが勝たせたのではない。先鋒が流れを作り、次鋒が削り、中堅が耐え、副将が空気を変え、大将が締める。全員が自分の役割を完璧に理解し、全うした結果としての「修道館の天辺」だった。
そして何より、決勝点となったゴリラ女のあの巴投は、相手の意識の裏を完璧に突いた一手として、「まさかあの場面で巴投を選ぶなんて夢にも思わんかったわ!」と、チームメイトの間で暫く最大の語り草になるのだった。
大阪へ戻る列車の前、5人は長浜にある居酒屋へと滑り込んだ。
注文した冷えたビールやドリンクが全員の前に揃う。
「皆さん、本当にお疲れ様でした! 乾杯!!」
チンパンジー柔道女の発声と共に、5つのグラスがカチンと小気味よい音を立てて合わさった。喉を鳴らして一杯目を飲み干すと、誰もがぷはぁと息を吐き出し、一気に顔を綻ばせる。そこからは、もう完全に試合の振り返りトークで大盛り上がりや。
「いや〜、うちは正直、第1試合の最初の畳に上がった時、人生で一番緊張しましたわ」
チンパンジー柔道女が嬉しそうに焼き鳥を頬張る。
「でも、一本目で技あり取って勝てたから、何とか先鋒としての流れは作れたかなって!」
「おう、お前が最初に勢い付けてくれたから、後ろのうちらは滅茶苦茶やりやすかったで。最高の先鋒や」
キングコング女がその頭をガシガシと撫で回す。
次鋒のマウンテンゴリラ女も、ビールを片手にニヤニヤしながら言った。
「うちは今日、とにかく組み手がよう入りましたわ。相手の得意な形を全部潰してやったから、最後の方、相手めちゃくちゃ嫌そうな顔してましたもん」
それを聞いたゴリラ女が、声をあげて笑う。
「ガハハ! あれだけお前に前襟ガッチリ持たれて圧力かけ続けられたら、誰だって嫌やろ! うちやったら畳の上で逃げ出すわ」
その言葉に、席の周りがドッと温かい笑い声に包まれた。
中堅のオランウータン柔道女が、しみじみとグラスを見つめる。
「うちは今日、とにかく『引き分けでもええ場面』が多かったから、とにかく守りの柔道に徹して無理せんようにしました。地味でしたけど……」
「何言うてんねん」
すかさずキングコング女が真面目な顔で返す。
「あそこでチームがリードしとる時に、お前が絶対に崩れへんかったからこそ、後ろのうちらがどれだけ救われたか。あの引き分けは一本勝ち以上の価値がある」
全員が深く頷き、オランウータン柔道女のグラスに次々とビールを注いだ。
「……ま、副将のうちは、決勝戦で決めたかったけどな。最後縺れさせてしもて、ゴリラに全部ぶん投げることになってしもた。すまん!」
コングが申し訳なさそうに頭をかくと、ゴリラ女は自分のジョッキをコングのグラスに軽くぶつけた。
「気にするな言うたやろ。これが団体戦や。誰か一人で勝つもんちゃう。コングが第2試合で流れ引き戻してくれたから、うちらはここにいるんや」
「……それにしても!」
チンパンジー柔道女が、身を乗り出してゴリラ女の顔を覗き込む。
「大将戦の、最後のあの巴投! マジでびっくりしましたよ! 鳥肌立ちました!」
「うちも完全に寝技行くと思ってたわ。完全に意表突かれた」とマウンテンゴリラ女。
「相手の監督も、絶対『寝技警戒しろ!』って叫んでたもんな」キングコング女も興奮気味に身振りを交える。
「あれは完全に、会場中の誰もが予想してへんかった、最高に綺麗な意表の突き方やったな」オランウータン柔道女が拍手する。
ゴリラ女は、みんなにこれだけ絶賛されると、流石に少し照れたように頭をかいた。
「いや……狙ってたわけちゃうねん。相手がうちの寝技を警戒して、極端に腰を引いて低く構えとったやろ? だから、組んだ瞬間に『あ、これ今なら腹の下スペース空いとるから、足入るわ』って、バイオメカニクス的に直感しただけやねん。体が勝手に動いたわ」
「かっこよすぎるやろ!」とまた一頻り盛り上がった後、話題は自然と、緊張から解放された他愛のない雑談へと移っていった。
「帰りの新快速、これ絶対全員爆睡して大阪通り過ぎるパターンのやつやな」
「長浜、また皆で来ることあるかなぁ」
「折角滋賀県まで来たのに、琵琶湖を電車の窓からしか見てへんの、ちょっと勿体なかったな。次は観光で来たいわ」
そんな穏やかな時間が流れる中、宴会の終盤、キングコング女が少し真剣な目でメンバー全員を見回した。
「……なぁ。次もまた、この5人のメンバーで団体戦出たいな」
その言葉に、1ミリの迷いもなく、全員が力強く頷いた。
ゴリラ女は、手元のジョッキを高く掲げ、最高の仲間達に向かって告げた。
「おう。もっともっと強くなって、またこの5人で、何度でも優勝しに行こうや」
「「「「おぅ!!!」」」」
長浜の小さな居酒屋の片隅で、再び5つのグラスが熱く合わさった。
大会中のあの張り詰めた、類人猿のような狂暴な空気とは対照的に、現在の席にはただただ温かい笑顔と、お互いへの深いリスペクトが満ちていた。チームで勝ち取った「修道館」の文字が刻まれた栄冠は、彼女達の格闘人生において、何よりもかけがえのない、最高に美味しい祝杯の味となっていた。