浪速のボスゴリラ   作:五十嵐 響

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異端児の完成

2009年4月。彼女は大阪府泉南郡熊取町にある、大阪体育大学体育学部スポーツ教育学科に入試した。

そこは、それまでの「学校」とは明らかに異質な空間だった。キャンパスを歩く学生たちの体躯は一様に大きく、Tシャツの袖からは丸太のような腕が覗いている。全国から集まった兵達が跋扈する、剥き出しの体育会系社会。

 

しかし、自由を求めて入学した彼女を最初に待ち受けていたのは、大学特有の放任という名の混乱だった。

「何時に来たらええんや?」

掲示板の前に立ち、彼女は眉を顰めた。高校までのような一律の始業時間はない。

「大学は単位制や。決められた単位を履修登録して卒業するんや」

隣にいた同級生に教えられ、彼女は勝手に授業を選ぶというシステムに困惑した。納得はいかないが、郷に従うしかない。

履修登録という言葉は猿女から聞いたことあるくらいで授業を登録するくらいの認識しかなかった。

 

入学式から数日経つと履修登録が始まった。

履修登録で1年のスケジュールが決まるため険しい顔でパソコンに向き合った。

(この授業は部活と被るし止めとこう…)

(これは簡単らしいし履修しとこう)

シラバスを読んでも分からないので何となくで履修した。

 

前期が始まり学内を歩いていると、聞き覚えのある野太い声が響いた。

「おい!」

振り返ると、高校の柔道部の同級生が立っていた。

「お前もここか」

「そらそうやろ。ここしか道はないわ」

少しだけ、殺伐としたキャンパスに馴染みの顔があることに安堵した。しかし、その安堵はすぐに、学問という名の高い壁にぶち当たることになる。

 

授業がスタートして講義室で彼女の定位置は常に最後列だった。

先生が壇上でスポーツ生理学や解剖学の講義を始める。彼女にとって、それらの知識は畳の上で勝つことと直結しているようには思えなかった。

「この科目は出席点がないからな。テストで60点取らんと即落単やぞ」

その警告も、彼女の耳を素通りした。

寝起きを繰り返した。

高校までのように、先生が机を叩いて起こしてくれることはない。

静まり返った講義室で、彼女はただ、次の練習に向けてエネルギーを貯蔵するかのように眠り続けた。

 

前期の試験が終わり成績が発表され、学内サイトからファイルを開くと呆然とした。自分の学籍番号の横に並ぶ「不可」の文字。

「何でや……」

「テスト、白紙で出したやろ」

親に指摘され図星の彼女は舌打ちした。高校なら補習やレポートで救済があったが、大学は情け容赦のない場所だった。学問へのやる気を問われれば、「ないです」と即答する。

彼女にとって、ここは柔道をするための場所であって、勉強をする場所ではなかった。

 

柔道場に足を踏み入れれば、彼女の独壇場だった。

大学という環境は、彼女の好奇心を更に加速させた。練習の合間に、レスリング部やサンボ、更にはMMAの動画を貪るように見て、そのエッセンスを独学で吸収していった。

彼女の柔道は、もはや柔道の範疇を大きく逸脱していた。

腕挫十字固、腕挫腋固、そして背後から音もなく忍び寄る裸絞。

「お前の柔道、変やな。普通ちゃうぞ」

先輩や同級生たちが眉を顰める。

「でも、反則してないですよ。勝てばええんでしょう」

彼女は一蹴した。

 

3年生の全日本学生柔道優勝大会。

彼女は、投げ技を重視する講道館の美学を嘲笑うかのように、徹底した寝技と関節技で対戦相手を沈めていった。

「一本!」

審判の声が響く度、会場には歓声と困惑が混ざり合った。

「あれは柔道じゃない。ただの格闘技だ」

「投げ技を避けて、這いずり回る姿は見苦しい」

多彩な技を持っていて実戦的だと評価する者も一定数居たが、伝統派の指導者達からの評価は最悪だった。しかし、彼女は優勝旗を手にしても表情を変えなかった。自分を異端と呼ぶ連中に、畳の上で屈服させる以上の回答はない。

 

4年生になると就職活動が始まった。

彼女は行きたい業界は特になかったが社会人柔道を続けるため、関西電力へ面接を受けた

志望動機は「柔道が続けたいから」その飾らない強さが評価され、内定を獲得した。

 

彼女にとって大学での毎日は柔道が中心だったが、それと並行して、高校時代に引き続き総合格闘技の動向を追いかけることも日常の一部だった。

大学に入る前後、柔道の厳しい稽古に明け暮れながらも、「やっぱ総合はええな、おもろいな」と、プロのリングに対する憧れを抱きながら試合の映像を貪るように見ていた。

しかし、高校時代に熱狂した「DREAM」を巡る空気は、彼女の大学生活の進行と共に徐々に空気がおかしくなり始めた。

実際の運営裏では、設立翌年から既に税金の滞納が始まっており、ファイトマネーの支払遅延や経費の未精算といった深刻な金銭トラブルが頻発していた。

やがてその綻びは、一ファンであるゴリラ女の目にも明らかな形となって現れ始める。大会の開催ペースは目に見えて不安定になり、トップ選手達は次々と海外のUFCなどへ流出、会場の規模も全盛期に比べて明らかに縮小していった。

物事を極めて現実的に捉えるタイプのゴリラ女は、画面越しに漂うその衰退の気配を敏感に察知していた。

(なんか……これ、めちゃくちゃ厳しそうやな……)

地上波の放送枠が減少して資金回りが悪化し、それに伴って日本のトップファイター達が次々と主戦場を海外へ移していく。そんな悪循環が続いていた。

そして大学4年生になった2012年、DREAMはついに運営会社が倒産し、実質的な活動終了を迎えた。

大学生のゴリラ女にとって、DREAMはただの格闘技イベントではなく、かつて愛した「PRIDEの続きを見せてくれる、日本格闘技の最後の砦」だった。

その完全な終焉のニュースを彼女が知ったのは、スマホの画面に表示された格闘技ニュースサイト、あるいは2ちゃんねるの格闘技まとめ板だった。

天王寺の実家。夕食の準備が進むリビングで、彼女はスマホを睨みつけたまま声を上げた。

「……DREAM、終わるっぽいわ。潰れた」

その言葉に、すかさず三女のチンパンジー女が激しく反応する。

「はぁ!? また!? PRIDEの次もアカンかったん?」

高校時代からPRIDE、そしてDREAMへと続く格闘技の歴史を共に追いかけ、復活に期待を寄せていただけに、姉妹の間に流れる「結局、日本の格闘技は続かんのか……」という落胆と喪失感は重かった。

テレビでDREAM倒産のニュースが短く流れると、食卓はいつになく現実的な格闘技技術・興行論の場と化した。

「日本のMMA、ほんまに厳しいな。これでもうでかい大会なくなってまうやん」

ゴリラ女が深くため息をつくと、空手家のチンパンジー女が不満そうに声を荒らげる。

「なんであんなに人入ってたのに潰れるん? 意味分からんわ」

格闘技の複雑なビジネス事情には詳しくない母も、娘たちの深刻な様子に箸を止めて驚きを口にした。

「そんな、テレビによう出てた大きい大会でもアカンようになるの? 怖いねぇ……」

すると、長女の猿女が比較的冷静な口調で、警察官らしい現実的な視点を投げかける。

「客が入ってるように見えても、裏の金が回らんかったら終わりやろ。興行っていうのは、うちら武道の世界とは違って、ほんまに大変なんやろな」

更に、四女のオランウータン女も、実務的な心配をぽつりと言った。

「じゃあ、そこに出てた選手の人ら、これからどうなるん? 仕事なくなるってこと?」

家族の会話を聞きながら、ゴリラ女の胸の奥には、これまで抱いたことのない全く新しい感覚が芽生え始めていた。

それまでは単に「強さへのロマン」として消費していた格闘技という世界。しかしこのDREAMの倒産によって、彼女は「格闘技だけで生きていくことの圧倒的な不安定さ」を、身に染みて理解し始めていたのだ。

試合数が確保される保証もなく、全ては興行の成否に依存し、ファイトマネーの支払いすら約束されない世界。

このDREAMの崩壊を機に、日本における総合格闘技は長い「冬の時代」へと突入していく。そしてそれは、後に彼女自身がその冷徹なプロの世界へと身を投じることになる、遠い伏線でもあった。

 

しかし、人生最大のピンチは柔道の試合ではなく、キャンパスであった出来事であった。

ゴリラ女は学生課に呼び出され、窓口で職員から伝えられた。

「卒業に必要な単位が、あと20足りません」

4年後期の土壇場で突きつけられた現実。

「終わったな。留年や」

同級生の言葉に、彼女は人生で初めて恐怖を感じた。もし卒業出来なければ、当然留年が確定するため関西電力の内定は取り消され、柔道を続ける道が断たれる。更に学費が嵩み、裕福ではない家計を圧迫することになる。

 

天王寺の実家。夕食の食卓に重苦しい空気が流れる。

学生課から届いた通知を手に、母が絶望的な声を絞り出した。

「……あんた、これ何。あと20単位って、ほんまに大丈夫なん?」

「……やるしかないやろ」

その横で、姉妹達の容赦ない突っ込みが飛ぶ。

「残り20単位? お前、4年間大学行って何しててん。柔道と寝に行ってただけか」

「20単位って、フル単で取らなあかんやん。詰んでるやん(笑)」

「……間に合うの? 今から。関西電力の内定、消えるんちゃうん……?」

家族全員が半信半疑、いや、ほぼ留年確定と決め付けていた。

 

そこからの彼女は、現役時代以上の集中力を見せた。

出席だけで単位が出る科目を血眼になって探し、レポートを書きまくった。更には他大学履修が楽単なのを知り、寝屋川市にある摂南大学へ履修生として潜り込んで授業を受けた。

柔道の練習時間を削り、不慣れなペンを握って机に向かう。

「何で私が、こんなこと……」

悪態をつきながらも、彼女は必死だった。

テストは上出来だったとは言えなかったが、6割は取れたと確信した。

 

後期の定期試験が終わるとすぐ成績が発表された。

4年生の発表は卒業に関わるため早い。

学内サイトにログインして学士合格発表のファイルを開くと自分の学籍番号があった。

「あった……」

柔道で勝った時より安心したと同時に卒業出来る嬉しさがあった。

 

その頃、大阪体育大学の学内では教授達による教授会で卒業判定会議が行われていた。

「◯◯学科、卒業判定対象者◯名」

「特に問題なし」

「承認」

卒業生の名前が次々と読み上げられる中、教務担当が手を挙げた。

「次、柔道部のゴリラ女についてですが……」

会議室に少しのざわめきが起きた。

「単位数は卒業要件を満たしています。ただしGPAが1.00、出席率がギリギリです」

しかし、担当教員が口を開いた。

「課題提出は期限内でした。内容は正直最低限ですが……未提出はありません」

そこで学部長が口を開いた。

「留年させる理由はありますか?」

学部長が続けた。

「確かに好成績とは言えませんが、卒業単位は取れてますし学外での活動に力を入れていたのなら卒業させるべきだと思います」

学部長の鶴の一声で卒業が認定された。

 

2013年3月。大阪体育大学卒業式。

会場は泉佐野市のスターゲイトホテル関西エアポートで行われた。

いつものキャンパスと違い、シャンデリアが輝き、厚手のカーペットが敷き詰められたホテルのロビーに、彼女はそわそわと立っていた。

「落ち着かへんな……」

潮風が吹く海辺のホテル。式典が進む中、学長の長い訓示はやはり耳に入らなかった。しかし、手渡された学位記に刻まれた「学士(体育学)」の文字を見た時、彼女は確かな重みを感じた。

 

式が終わり、柔道部の仲間たちとホテルの前で集合写真を撮る。

「4月から社会人か」

帰りの列車。夕日に染まる天王寺の街並みを見つめながら、彼女は考えた。

ゴリラ女は学業を終えて遂に一般社会に出ることになった。

そこには、柔道よりも遥かに複雑で、理解不能なルールが待ち受けていることを、彼女はまだ知る由もなかった。

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