浪速のボスゴリラ   作:五十嵐 響

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孤独な畳

国スポの優勝から数日。大阪へ凱旋した修道館クラブの面々は、次の大きな大会へ向けた休息を兼ねて、地元の鶴橋駅近くにある行きつけの焼肉屋へと集まっていた。

モクモクと立ち込める香ばしい煙と、網の上でジューシーに音を立てる特上カルビ。

メンバーは、ゴリラ女、キングコング女、マウンテンゴリラ女、オランウータン柔道女、チンパンジー柔道女の5人に、新しく加わったマントヒヒ女を合わせた6人組だ。

 

「よっしゃ、佐賀国スポ優勝と、マントヒヒの修道館移籍を祝して……カンパーーイ!!」

ジョッキやグラスを豪快にぶつけ合い、まずはキンキンに冷えたビールやウーロン茶を喉に流し込む。「やっぱり鶴橋の肉は最高やな!」と、網の上の肉をツインタワーが猛烈な勢いで平らげていく。

少しお腹が落ち着いた所で、自然と話題は新メンバーのマントヒヒ女へ。

キングコング女が網にハラミを乗せながら、笑って言った。

「そういや、うちら7月の暑中稽古の時から顔は合わせとったけど、ちゃんと自己紹介聞いてへんかったな」

マントヒヒ女は少し照れくさそうに背筋を伸ばした。

「あ、マントヒヒ女です。大阪市天王寺区出身です!」

その言葉に、すかさず大将のゴリラ女が白米を口に運びながら反応する。

「うちも天王寺区やで」

周りからも「えーそうなんや!」と驚きの声があがる。

「天王寺のどの辺なん?」

「悲田院です!」

「悲田院言うたら天王寺駅のすぐ近くやんけ! ウチは舟橋やから高津中やけど、あの辺は昔よくチャリで通ったわぁ!」

一気にディープな地元トークに火が点き、道場とは違うプライベートな距離がグッと縮まっていく。

 

話題はそのまま学生時代の話へ。先鋒のチンパンジー柔道女が「高校はどこやったん?」と尋ねると、マントヒヒ女は少し視線を落として答えた。

「最初は、上宮でした」

「おおーっ!」

修道館のメンバーから一斉に声が上がる。上宮と言えば柔道の超名門。そこへ進学したというだけで、彼女のポテンシャルの高さが良く分かる。

しかし、マントヒヒ女は落ち着いたトーンで言葉を続けた。

「でも、1年の夏に辞めました。柔道も滅茶苦茶厳しかったですし、学校の雰囲気にもどうしても馴染めなくて……」

その瞬間、それまで賑やかだったテーブルの空気が少しだけ静まり返る。強豪校を途中で辞めるという選択の裏にある重みを、全員が察したからだ。大将のゴリラ女が、さり気なくフォローを入れる。

「話せる範囲でええからな。何があったん?」

マントヒヒ女は、あの大画面のロースをひっくり返しながら、ポツリポツリと当時の記憶を語り始めた。

「あれは、1年の夏休み前の、めちゃくちゃ暑い日の練習でした――」

 

その日は、上宮お決まりの「地獄の追い込み稽古」。熱気が籠った道場で、マントヒヒ女は酸欠気味になりながら必死に着いて行こうとしていた。しかし体力の限界を迎え、足が絡れて先輩の激しい技に対応出来ず、頭から畳に叩き付けられてしまう。

脳震盪気味に天井がぐるぐると回る中、聞こえてきたのは指導者や先輩からの容赦ない怒鳴り声だった。

『やる気ないなら、もう道場から出ていけ! 邪魔や!』

「強くなければ居ないのと同じ」というシビアな空気。心も体も擦り減っていた彼女は、フラフラになりながら道場の隅で一人、涙を堪えていた。しかし、誰も心配して声をかけてはくれない。同期の部員たちも自分の練習で必死。下手に声をかければ連帯責任で怒られると恐れ、皆目を逸らした。

(あ、ウチ、ここに居る意味ないわ。誰もウチのことなんか見てへんし、必要としてへんのやな)

猛烈な孤独感が襲った。部活だけでなく、見知らぬ人が集まる私立高校の生活そのものにも息苦しさを感じていた。その日の帰り道、天王寺の切ない夕日を見つめながら「もう限界や。辞めよう」と決意した。

親に反対されるかと思ったが、相談すると心配は杞憂に終わり、通信制高校への転校を後押ししてくれた。

翌日からは体調不良ということにして学校を休んだ。正直、1日も行きたくなかった。その間に退学手続きを進め、平日の昼間からベッドでゆっくり過ごした。その時間がどれだけ快適かを知った時、自分がどれだけ無理をしていたかを思い知らされた。

2週間後、長尾谷高校への編入が決まり、退学届を出しに上宮へ行った。

人目のつかない放課後の夕方。今日でこの制服を着ることもない。教室で担任に退学届を出すと、担任はこう励ましてくれた。

『お前の卒業は見届けられんかったけど、人生の選択肢は一つだけやない。通信でも頑張れよ』

学校を出る頃には、胸のつかえが取れたような、驚くほど清々しい気持ちでいっぱいになっていた。

マントヒヒ女の籍が消えた後の上宮の教室。

朝のホームルームで担任から退学が報告された時、クラスメイト達は「え、マントヒヒ、マジで!?」「最近しんどそうやったもんな……」とザワついた。女子の少ない環境でまだ深い関係になる前だったため、驚きと「やっぱり柔道部はキツかったんやな」という納得の空気だったが、決して悪口を言う者は居なかった。

教室には、同情と「上宮の壁は高かったか」というシビアな現実感が漂っていた。皆、不器用ながらに彼女の消えた席を見て、背負っていた重圧を察していたのだ──。

 

「……それで、長尾谷高校へ編入したんです。全日制の上宮とは全く違う生活で最初は戸惑いましたけど、自宅学習は精神的に楽でした。『今日も怒鳴られるんちゃうか』って怯えんで良いし、自分のペースで時間が使える。色んな事情を抱えた子が居るから、お互いに過度な干渉をしない距離感も、当時の擦り減った心には丁度良かったんです」

マントヒヒ女の話を、メンバーは肉を食べる手を止めてじっと聞き入っていた。

「でも、一度心が折れたからこそ、時間にゆとりが出来て客観的に自分と向き合えました。『ウチ、環境は無理やったけど、柔道そのものは嫌いになれへんわ。もう一回畳に上がりたい』って思えて。そこからは長尾谷の柔道部で、自分が強くなりたいからやるっていう主体的な柔道に切り替わって、定時制・通信制の全国大会にも出ました」

「そこから大経大に行ったんやろ?」とオランウータン柔道女が聞く。

「はい。通信制は普通にやれば卒業は出来ますけど、大学に行くとなると話は別です。必ずやり直そうって気持ちが強くて。3年生からは、柔道の練習が終わった後に猛勉強を始めました。スカウト枠は無かったので、センター試験も二次試験もガチで受けて、一般入試で合格しました。高校の卒業式の時は、自力で大学に合格した嬉しさでいっぱいでしたね」

そこまで一気に語り終えたマントヒヒ女に、次鋒のマウンテンゴリラ女が深く深く頷いた。

「色々あったけど……結局、柔道辞めへんかったんが一番やな。あんた、ほんまに強いわ」

更にオランウータン女も「大学は大阪経済大学です」という言葉に、「一般入試で入って、大学でも4年間しっかり続けたんや。凄過ぎるわ……」と心から感心している。

マントヒヒ女ははにかみながら、「大学は自分のペースで、伸び伸び柔道が出来ましたから。それで4年生の時に公務員試験に合格して、大阪市役所で働きながら続けてました」と笑った。

 

話を一通り聞き終えたキングコング女が、今度はハラミをマントヒヒ女の皿にポンと乗せながら聞いた。

「で、市役所からうちの修道館に来てみて、実際どう?」

「最初は……正直、皆さん強過ぎてびっくりしました(笑)」

マントヒヒ女の本音に、テーブルは大爆笑に包まれる。すかさずゴリラ女が言う。

「確かに練習はキツいけど上宮みたいに理不尽な説教もないし自分のペースでやったらええよ」

その温かい言葉に、マントヒヒ女の胸の奥がジーンと熱くなる。

「まずは……団体戦で、ちゃんと皆さんの戦力になりたいです。リザーブとして、いつでも行けるように」

健気に目標を語るマントヒヒ女の頭を、キングコング女が大きな手でクシャクシャと撫でた。

「何言うてんねん。リザーブでもレギュラーでも、うちらはみんな同じ『修道館』のチームや。試合になったら、誰が出ても勝てる最強のチームをこれから6人で作るんや。あんたのそのセンター試験を突破した知性と、挫折から這い上がってきたド根性は、もう立派なウチらの武器やで」

キングコング女が再び、波々と注がれたグラスを高く掲げた。

「よっしゃ! 次の大会は、この6人で一緒に遠征行こうな!」

「はい!!」

マントヒヒ女も最高の笑顔でグラスを合わせた。カチンと響く心地よい音とともに、彼女の心には「あぁ、ウチ、この道場に来て本当に良かった」という、確かな温かさとこれからの未来への闘志が、鶴橋の夜空へ向けて力強く湧き上がっていた。

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