2025年4月。桜の季節が過ぎ、本来なら皇后盃の本戦に向けて畳の上で血の滲むような稽古に励んでいるはずの時期。しかし今のゴリラ女の左膝には、まだリハビリの装具が巻かれている。
朝、いつものように早くに目が覚める。しかし、手にするのは汗の染み込んだ柔道着ではなく、ノートと筆記用具が入ったバッグだ。玄関で靴を履きながら、ポツリと独り言が溢れた。
「今日は選手やなくて勉強やな」
駅へ向かう途中、春の爽やかな風が頬を掠める。ふと、(去年の今頃は皇后盃が終わって、すぐ実業団の団体戦に向けて皆でガンガン練習してたなぁ……)と当時の熱気と思い出が胸を過ぎった。一瞬だけ寂しさが広がりかけるが、すぐに首を振る。
「今は今で、やれることをやろう」
アスリートとしての強いメンタルで、即座に気持ちを切り替えた。
鶴橋から大阪環状線に乗り、森ノ宮に到着。駅の改札を出て、会場である専門学校へ向かって歩き出す。
ふと周囲を見渡すと、カチッとしたスーツ姿の先生方や、いかにも道場関係者と分かる体格の良い人達が同じ方向へ歩いているのが目に入った。
「今日は皆講習会なんやな」
普段は畳の上で戦うか、あるいはセコンドで見かける顔ぶれが、今日は一堂に会して「学ぶ側」として歩いているのが新鮮だった。
受付を済ませ、指定された教室のドアを開ける。
そこには学校らしい懐かしい机と椅子が整然と並んでいた。ゴリラ女は目立ち過ぎる最前列は避け、中央付近の席を選んでドッシリと腰を下ろす。
カバンから資料を広げ、ペンを机に置く。3年前の大阪体育大学の大学院時代を思い出し、なんだか少し懐かしい「学生」のような気分になって背筋が伸びた。
時間になり、ルール改正や安全管理についての説明から講習が始まった。教壇に立った講師が、集まった柔道家達を見渡してこう切り出した。
「皆さんの中には現役のトップ選手や、経験豊富な指導者も多いでしょう。ですが、選手経験が豊富でも、審判は全く別の技術です」
その言葉に、ゴリラ女は深く納得し、大きく頷きながらノートにペンを走らせた。
── 安全
まずは受け身の重要性、そして重大事故につながる危険な体勢や、試合を止めるべき「待て」の絶妙なタイミングについての解説が進む。
大体大院でスポーツ科学の安全管理を学んだゴリラ女だからこそ、その言葉の重みが人一倍理解出来る。
(この一瞬の判断で、畳の上の選手達の命や競技人生を守るんや……。責任重大やな)
現役時代には守られる側だった自分が、今度は守る側に立つ。その責任の重さを改めて肌で感じていた。
── 審判講習
続いて、実際の試合映像を見ながらの具体的な判定のシミュレーションへ移る。
今の技は「一本」か、それとも「技あり」か
どのタイミングで「指導」を出すのが適切か
場外際の攻防における有効・無効の判断
審判委員との合議の具体的な進め方
これまでは「どうやって技をかけるか」「どう防ぐか」という競技者の視点でしか見ていなかった映像が、「もし自分が主審なら、今の瞬間にどう判定を下すか」という全く異なる視点に変わる。
映像が進む中、ゴリラ女はある場面を見てフッと心がくすぐったくなった。
(あかん、現役の時、正にこれと同じような判定に納得いかんで、畳の上で心の中で文句言ってたわ……)
当時の自分を思い出し、少し苦笑い。それと同時に、四方八方に神経を尖らせる審判の難しさを実感する。
「審判って、こんなに瞬時に見ること多いんやな。ほんまに大変やわ」
── 総会
講習の最後には大阪府内の今後の大会予定や、各大会への審判派遣についての具体的な説明があった。スケジュールが書かれたプリントを見つめながら、(今年は何大会くらい担当させてもらえるんやろな)と、新しい挑戦に対する小さな楽しみが胸に湧いてくるのを感じていた。
「以上で本日の講習を終了します」
講師の合図と共に、張り詰めていた教室の空気がフッと緩んだ。
ゴリラ女が手元のノートを見返すと、何ページにも亘って細かいメモや注意点がびっしりと書き込まれている。大学院を修了して以来、ここまで高い集中力で誰かの講義を聞いたのは本当に久しぶりだった。
専門学校を出て、森ノ宮駅に向かって歩く。
4月の暖かく穏やかな春の空気が、勉強で火照った頭に心地良かった。
「今日は一日中座りっぱなしで勉強やったな……。でも、ほんまに来て良かったわ」
畳の上で汗を流した時とはまた違う、頭が引き締まるような深い充実感がそこにはあった。
天王寺の自宅に帰ると、リビングで母が待っていた。
カバンを置くゴリラ女に、母が「どうやった?」と声をかける。
ゴリラ女は少し肩の力を抜きながら答えた。
「思ってたよりずっと難しかったわ。選手として畳に立つのとは、完全に違う世界やった」
そして、真っ直ぐな目で言葉を続けた。
「今年は怪我で試合に出られへんのはめちゃくちゃ悔しいけどな、この半年はこれをチャンスやと思って、審判の勉強もしっかりやろうと思うねん」
その夜。ゴリラ女は自分の部屋で、昼間貰った講習の資料をもう一度丁寧に読み返し、ノートの整理を行っていた。
(この怪我の期間は無駄やない。復帰した時は、ただ強いだけの選手やなくて、審判の視点も完璧に持った、もっと奥の深い柔道家になって畳に戻ったるわ)
窓の外に広がる天王寺の夜景を見つめながら、ゴリラ女は新たな目標を胸に、静かに、しかし確かな闘志を燃やして一日を終えた。ピンチをチャンスに変える、これこそが彼女の本当の強さだった。