浪速のボスゴリラ   作:五十嵐 響

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新たな景色

2025年5月。麗らかな春の光が差し込む中、ゴリラ女の柔道人生に全く新しい風が吹き込もうとしていた。

 

5月初旬のある日、自宅に大きな段ボール箱が届いた。

テープを剥がして箱を開けると、中から出てきたのは型崩れのないブレザー、ネクタイ、そしてきっちりとしたスラックス。普段の白や青の柔道着とは、180度違う装いだ。

試しに着替えて、寝室の鏡の前に立ってみる。

「……こんなん着る日が来るとはな」

きゅっとネクタイを締めながら、ふと「会社辞めて以来か……」と、昔のサラリーマン時代の感覚が頭をよぎり、少し照れ笑いがこぼれた。

リビングから出て来た母が、目を細めて「似合ってるやん」と一言。その姿をスマホで撮った姉妹達からも、「ほんまに審判や!」「急に先生みたいやな!」と笑い混じりの歓声が上がる。

本人は「まだ一回もやってへんけどな」と苦笑いしつつも、身が引き締まる思いがしていた。

 

そして迎えた5月4日。堺市立大浜体育館で行われた全日本ジュニア柔道体重別選手権大会の大阪府予選会。

朝早くに会場入りしたゴリラ女は、受付で審判証を提示し、少し緊張しながら初めて審判控室のドアを開けた。

そこには、大阪府の柔道界を長年支えてきた強面のベテラン審判達がズラリと並んでいる。流石のゴリラ女もこの独特の空気には思わず背筋が伸びる。

一人のベテランの先生が、彼女のガタイの良さに目を見張りながら笑いかけてきた。

「お、初めてやね?」

「はい、よろしくお願いします!」

ゴリラ女がハキハキと挨拶すると、先生は優しく肩を叩いた。

「最初はみんな緊張するもんや。しっかりな」

 

── 初担当の景色

初担当の試合。いきなり主審ではなく、まずは副審として畳の隅の審判席に腰を下ろした。

選手として、あるいはセコンドとして何百試合、何千試合と見てきたはずの畳の上。しかし、審判席から見る景色は、これまでと全く違っていた。

(こんなに見ることあるんや……!)

一本か技ありか、今の着地は場外か否か。選手の安全に気を配りつつ、試合時間もしっかり把握する。目を離してはならないと、額にじわりと汗が滲む。

試合後、先ほどのベテラン先生から「今の場面、どう見えた?」と声をかけられた。

「ウチは技ありに見えました」と答えると、「なるほどな。そこはな、角度が違うと見え方もガラッと変わるんや」と、現場ならではの生きた技術を一つずつ丁寧に教えて貰い、ゴリラ女は貪欲にそれを吸収していった。

 

5月も下旬になると、審判としての立ち振る舞いにも少しずつ慣れが出てきた。

25日の定時制通信制課程大会。午前中に副審をいくつかこなした後、午後、遂に「一本だけ主審をやってみろ」と任されることになった。

畳の中央、主審の位置に立った瞬間、選手として全国大会の決勝に立った時とはまた違う、張り詰めた緊張感が体を走る。

両選手と正対し、一礼。

「始め!」

かけた声が、自分でも分かるくらい少しだけ固く響いた。

試合は順調に進んだ。しかし、終了間際に際どい投げ技が炸裂する。

一瞬、(一本か……技ありか……!?)と脳裏を迷いが過る。しかし、講習会で学んだ「コントロールと勢い」を瞬時に見極め、迷いを振り切って「技あり!」を宣告。

試合終了後、控室に戻るとベテラン審判から「落ち着いてて良かったぞ」と声をかけられ、漸くホッと胸を撫で下ろした。

 

5月最後の土曜日。インターハイ予選の女子団体戦が行われる堺市立大浜武道館には、知っている先生方が大勢集まっていた。

会場の通路で、高校時代の恩師とバッタリ出くわす。

「おぉ、ゴリラ女、審判やってるんか! 似合っとるがな」

「ご無沙汰してます。今は怪我でこれしかできなくて……」

「そうか、膝やったらしいな。焦らんとしっかり治したら、また畳の上で頑張れよ」

恩師からの温かい激励に、胸の奥が熱くなる。

始まった女子団体戦は、高校生達の意地とプライドがぶつかり合う激しい攻防となった。投げ技の応酬が続き、判定の難しい場面が連発する。

(選手やった頃は、自分が投げたら何でも『一本や!』って思ってたけど……)

実際に見る側になると、技の入る角度、着地の瞬間、勢い、そして最後までコントロールされていたか。その全てを一瞬で見極めなければならない。ゴリラ女は改めて、審判という立場の責任の重さをズシンと実感していた。

大会終了後、ベテラン審判との会話の中でポロリと本音が漏れた。

「やっぱり、競技経験が深い人ほど、最初は判定が難しいです」

「ハハハ、そうやろ。どうしても選手目線で見てまうからな。でもな、審判は公平が一番。どっちの味方でもない。応援も感情も、一切入れたらあかんのや」

「はい……本当に勉強になります」

 

天王寺の自宅に帰宅し、クローゼットのハンガーに紺 審判服を掛けながら、ゴリラ女はふと去年の5月のことを思い出していた。

(去年の今頃は、実業団の団体戦で優勝することだけ考えて、毎日毎日、汗だくで乱取りばっかりしてたな……)

今年は、畳の中央や隅で、静かに試合をコントロールしていた。

最初は怪我で動けない悔しさやもどかしさばかりが先行していたが、こうして怒涛の5月を終えてみると、胸の中には全く違う感情が満ちていた。

「審判って、ほんまに奥が深いわ。選手やったからこそ、逆に見落としてたこと、気付かんかったことが山ほどある」

部屋に戻ったゴリラ女は、いつものリハビリノートを開いた。そこにはトレーニング内容だけでなく、「今日の判定基準のズレ」「試合の流れの掴み方」「効果的な指導のタイミング」など、審判として学んだディープな分析がぎっしりと書き留められていく。

選手としての完全復帰を虎視眈々と狙いながらも、この審判としての経験が、今後の自分の柔道をより深く、より豊かなものにしてくれる──35歳のゴリラ女は、暗闇の挫折の中で、確かな手応えと新たな光を掴み始めた。

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