浪速のボスゴリラ   作:五十嵐 響

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組織と違和感

2013年4月。彼女は関西電力の入社式に臨んでいた。

会場を埋め尽くすのは、折り目の正しいリクルートスーツに身を包んだ新入社員達。皆、一様に緊張した面持ちで背筋を伸ばしている。

壇上では、重厚な面持ちの役員が語りかけていた。

「今日から皆さんは、社会を支える一員です。企業理念を胸に、電力会社の使命を……」

周囲の同期たちは、示し合わせたように手帳を取り出し、ペンを走らせる。カリカリという筆記音だけが、広い会場に響く。

彼女だけは、空っぽの手を膝の上に置いていた。

(話、長いな。周りも何を必死に書いてるんや)

彼女にとって、理念や使命といった実体のない言葉は、右の耳から左の耳へと抜けていく雑音に過ぎなかった。

 

入社後の全体研修。自己紹介の時間がやってきた。

「○○大学経済学部出身です。一日も早く業務を覚えたいです」

「△△大学工学部です。インフラの保守に貢献したいです」

模範解答のような自己紹介が続く中、彼女の番が回ってきた。

「大阪体育大学体育学部出身です。大学では柔道の全国大会で優勝しました」

教室内が、一瞬で静まり返った。

女子とは思えない肩幅と、鋭い眼光。放たれる圧倒的な威圧感に、同期たちは言葉を失った。

「……凄いやん」

後ろの席から、掠れたような声が漏れる。彼女はそれを無視して、ドスンと椅子に座り直した。

休憩時間、物怖じしない一人の男子同期が近づいてきた。

「ほんまに日本一なん? 柔道ってそんなに強いん?」

「せや」

「へぇ。どれくらい強いんか、ちょっと見せてよ」

「やるか?」

彼女は迷わなかった。冗談半分だった同期の腕を、反射的に掴み取る。

「ちょ、待て待て!」

焦る同期の声が響く前に、彼女は腰を切った。

ドン。

絨毯の敷かれた床に、同期の身体が叩き付けられた。鈍い衝撃音と共に、周囲の雑談が凍り付いた。

「……こんな感じや」

彼女は平然としていたが、周囲は完全にドン引きしていた。社会という場所では、力を見せ付けることが必ずしも尊敬に繋がらないということを、彼女はこの時まだ理解していなかった。

 

研修が終わり、配属された部署での生活は彼女にとって苦行でしかなかった。

朝、決まった時間に出社し、デスクに座る。パソコンの電源を入れるが、何をすればいいのか分からない。

ExcelもWordも、パソコンのスキルがない彼女にとっては難解だった。

最初の数週間は教えを請うたが、事務作業は彼女にとって退屈なものだった。

 

いつしか、彼女のルーティンは固まった。

出社してパソコンを開くと、こっそりインターネットを立ち上げる。最新の格闘技ニュースや動画を、画面を切り替えながら眺める。先輩や上司が近くを通る時だけ、意味もなくキーボードを叩いて仕事をしているふりをした。

「お前な、仕事は慣れたか?」

上司の問いに、彼女は「慣れました」と即答する。

実際には、入社以来、彼女の手によって完了した業務など一つもなかった。彼女は23歳にして、早くも窓際社員としての立ち位置を確立していた。

 

しかし、会社が彼女に求めているのは、事務処理能力ではなかった。

終業のチャイムが鳴る。その瞬間、彼女は呪縛から解き放たれたように立ち上がる。向かうのは道場だ。

関西電力の名を背負い、彼女は畳に上がる。そこでは、彼女は紛れもなくエースだった。

大学時代から更に研ぎ澄まされた変則的なスタイル。投げ技に頼らず、相手の心を折るまで攻め続ける寝技。

全日本実業柔道個人選手権大会。

彼女は、並み居る強豪たちを圧倒的なパワーでねじ伏せ、優勝を攫った。

会社の報奨金、広報誌への掲載。仕事は出来なくても、畳の上で結果を出すたびに、彼女の居場所は辛うじて維持されていた。

 

入社3年目。後輩が出来ても、彼女のスタイルは変わらなかった。

いまだにOfficeソフトの使い方は覚えず、午前中はネットサーフィン、午後は居眠り。

(何で、私ここに居るんやろ)

贅沢な悩みだとは分かっていた。給料は安定し、柔道の環境も整っている。しかし、意味のない事務作業を強要される時間は、彼女の魂を削り取って行く。

「このままで良いのか?」

社会人柔道に疑問を抱くようになり、若くして窓際社員だったらリストラされる可能性も高いと判断して辞めるタイミングを伺うようになった。

 

ある日の昼休み、同期と入った定食屋で、彼女は切り出した。

「私、辞めようと思ってる」

「えっ、マジで? 関電やぞ? 勿体ないわ」

「仕事、一ミリもやりたくないねん。元々柔道のためにここに来たけど、本当はスポーツだけで稼ぎたい」

「そんなん、日本では一握りのプロだけやろ」

「分かっとる。でも、社会人柔道って言っても、結局は仕事の合間にやる『部活』や。私は、命削ってぶつかり合いたいんや」

 

2016年2月末。彼女は上司に一通の封筒を差し出した。

上司は、特に驚いた様子もなくそれを受け取った。

「ほんまに辞めるんか」

「はい。柔道に専念したいんです」

(……お前、入社してから仕事らしい仕事、一回もしてへんもんな)

上司の視線には、そんな呆れが混じっていた。彼女が仕事をしていないことなど、とっくにバレていたのだ。だが、柔道での実績があったからこそ、誰も強く言えなかったに過ぎない。

 

彼女は自分のデスクを片付けた。引き出しの中には、文房具と柔道着の予備が入っていただけだった。

定時前、職場の中心で最後の挨拶に立った。

「本日をもって退職します。理由は柔道に専念するためです。柔道では優勝という良い思い出が出来ました。3年間、ありがとうございました」

上司や同僚から「お疲れ様」「頑張れよ」と儀礼的な言葉をかけられ、彼女はエレベーターを降りた。

オフィスビルを出て、冷たい春の風を吸い込む。

「次、どうしようかな」

貯金も、転職先もない。

あるのは、更に逞しさを増した己の肉体だけだった。

帰りの列車。夕闇に沈む大阪の街を見つめながら、彼女は帰宅した。

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