2026年1月4日。ゴリラ女にとって、この年の寒稽古は単なる新年の恒例行事ではなく、特別な意味を持つ2日間となった。
会場は歴史ある大阪市立修道館。底冷えする冬の緊張感の中、寒稽古特有のピリッとした空気が畳の上に満ちていた。
朝、修道館へ向かう足取りの中で、ゴリラ女の胸には一つの強い誓いがあった。
(今年はちゃんと試合に戻る——)
前年、2025年1月の寒稽古中に負傷し、そのまま半年以上の離脱を余儀なくされた苦い記憶がある。それだけに、最初のウォームアップでは自分の足の踏み込みや体幹の軸を慎重に確かめながら身体を解していった。
だが、乱取りが始まればそんな慎重さは一瞬で吹き飛ぶ。
畳の上には、共に修道館を支える信頼する仲間達が揃っていた。チンパンジー柔道女、マウンテンゴリラ女、オランウータン柔道女、キングコング女、マントヒヒ女。
最初は怪我を気遣ってか互いに軽めの組み手から入っていたが、熱を帯びるのに時間はかからなかった。静まり返る道場に、キングコング女の声が響く。
「ゴリラ、もう遠慮せんでええやろ」
「勿論」
ニヤリと笑い合った瞬間、一気に競技モードのスイッチが入った。
組んだ瞬間に相手の重心を探り、技を掛け、投げられれば間髪入れずに立って組み直す。半年以上のブランクを経て、漸く戻ってきたこの感覚。単なる新年の寒稽古ではなく、2026年シーズンの本格的な再始動だった。
ただ、去年の苦い経験があるからこそ、無茶な追い込み方はしない。
(動ける。でも、ここで調子に乗ったらあかん——)
自制心をコントロールしながら、質の高い乱取りを重ねて初日を終えた。
2日目。朝起き上がった瞬間から全身がズシリと重い。前日の激しい乱取りによる全身の筋肉痛が容赦なく襲いかかる。
「昨日よりキツいやん……」
苦笑いしながら修道館へ向かったが、道場で仲間と顔を合わせると、疲れなど一瞬で忘れて戦闘態勢に入った。
この日の乱取りは、一ヶ月後——2026年2月8日に迫った『大阪府女子柔道選手権大会』を強く意識したものになった。
「あと一ヶ月しかない」
外から見れば、修道館の一角は鬼気迫る光景だった。
チンパンジー柔道女がスピードで先手を仕掛け、マウンテンゴリラ女が圧倒的な重量を生かして圧力を掛ける。オランウータン柔道女が巧みな組み手で崩しにかかれば、キングコング女が得意の豪快な投技で一気に仕留める。
その渦中で、ゴリラ女も「まだまだ!」と荒い息を吐きながら次の乱取りへ飛び込んでいく。怒りではなく、純粋な勝負師としての「試合モード」の顔だった。ただ力で押すのではなく、最後まで動ける身体作りとスタミナ配分を身体に染み込ませていく。
2日間の稽古を終え、最後の礼をして畳を降りた時、肩で息をしながらもゴリラ女の胸には確かな手応えが残っていた。
(戻って来たな)
修道館での激しい稽古を終えて帰宅したゴリラ女は、汗を流して風呂から上がり、ベッドの上で火照った身体を休めながらスマホを眺めていた。
何気なく開いた大阪府柔道連盟の公式ページで、一つの文面が目に留まる。
「ん? 会場変更?」
画面をスクロールしながら詳細を確認する。
「大浜から……講道館大阪?」
当初予定されていた堺市立大浜武道館から、城東区の講道館大阪国際柔道センターへの会場変更のお知らせだった。大浜武道館は新しく、柔道場も2面あって広々とした環境だ。選手としてもゆったり試合が出来るメリットがあった。
「大浜の方が広いから、その点は良かったんやけどな」
一瞬そう思いはしたものの、彼女が長々と不満を並べるはずもない。
「まあ、柔道出来るんやったらええか」
しかし講道館大阪の方が近い。
「……これ、寧ろラッキーやな」
堺の大浜まで移動するよりも、天王寺区の実家から講道館大阪へ行く方が遥かに近い。会場が狭くなることや観客の収容人数が限られるといったマイナス面は理解しつつも、彼女にとって一番重要なのは「当日ちゃんと畳の上で試合が出来ること」だけだった。
スマホをサイドテーブルに置き、天井を見上げる。
「2月8日、講道館大阪な」
頭の中は既に会場変更のニュースから切り替わっていた。5分も経たないうちに、彼女の思考は一ヶ月後の戦いへと飛んでいた。
(会場がから畳の際が浅いな。場外際で組んだら、いつもより早めに技仕掛けんとあっという間に押し出されるか……)
新しい会場での戦い方をシミュレーションしながら、ゴリラ女は明日からの稽古に向けて静かに目を閉じたのだった。