大会1週間前。この時期の稽古は追い込むためではなく、身体を極上の状態へ研ぎ澄ます仕上げの段階に入っていた。
乱取りの本数を無闇に増やすことはせず、組み手の攻防、得意技への入り、崩しからの連絡技、そして寝技への移行といった実戦的な動きを中心に、試合時間5分間を意識して集中して取り組む。
無差別級での出場のため、減量とは一切無縁だ。寧ろしっかりと食べてスタミナを蓄える必要がある。稽古終わり、キングコング女と鶴橋の焼肉屋へ向かった。
「来週試合やけど、肉食べよ」
「減量ないから楽やな(笑)」
網の上で煙を上げるカルビを頬張りながら笑い合う。直前だけに暴飲暴食は避けつつも、スタミナを蓄え、睡眠と疲労回復を最優先した。
彼女の頭の中には明確な「一本道」が描かれていた。
(まず大阪を勝ち抜く。次は近畿。その先に皇后盃——)
言葉に出して「絶対勝つ」と叫ぶ訳ではない。静かに、淡々と、虎視眈々と準備を進めていた。
前日の調整は極軽め。道場で軽く汗を流すと、「今日はこれくらいでええな」と居残り稽古もせずに早々に切り上げた。
帰宅後、道着、帯、ドリンク、テーピングをバッグへ詰める。
リビングで母から声をかけられた。
「明日大会やな。どこであるん?」
「講道館大阪。近所やから日帰りやで」
いつものサバサバとした調子だ。大舞台の前日だというのに、本人は至って淡々としている。
ただ、布団に入る直前、スマホで組み合わせ表をじっくり確認した。
(この山か……)
少し思いを巡らせた後、「まあ、相手は誰でも一緒やな」と画面を消し、静かに目を閉じた。
朝も普段と変わりない時間に起きた。スポーツウェアを羽織り、鶴橋駅から列車へ乗り込む。車内ではイヤホンで音楽を聴きながらスマホを眺めていたが、胸の奥には絶えず「今日勝ったら近畿」という思いが滾っていた。
14時。会場の講道館大阪国際柔道センターに到着。
大浜体育館のような開放感はないものの、「まあ、いつもの場所やな」と慣れた手つきで受付を済ませ、更衣室へ向かう。
白い道着に袖を通し、帯を固く結び直した瞬間、彼女の目つきが勝負師のそれに変わった。
ウォームアップ場へ上がり、軽く走って関節を解し、受け身を取る。
仲間達と軽く組み手を確認する。
「身体どう?」
「大丈夫」
互いに無駄な会話は減り、ゴリラ女の口数も自然と少なくなっていった。
14時30分、大会の火蓋が切られた。上位8名に与えられる近畿大会への切符をかけたトーナメントだ。
1回戦。久々の実戦。畳に上がると独特の緊張感が肌を刺すが、組み付いた瞬間に感覚が弾けた。相手を畳に引きずり込むと、畳みかけるように寝技へ移行。そのまま腕挫十字固を鮮やかに極めて一本勝ちを収めた。
「良し、これやこれ」
身体が勝手に動いた感覚に、大きな手応えを得る。
2回戦。一発の威力を警戒した相手が、ゴリラ女の低い攻めに対して終始引き気味の防衛体制を取る。ゴリラ女は怒涛の圧力をかけ続けるが、相手は徹底して組むことを避けて消極的な姿勢に終始した。結果、相手に指導が4回与えられ、反則勝ち。
「極められんかったけど、勝ちは勝ちやな」
不完全燃焼感はありつつも、冷静に次へ頭を切り替えた。
準々決勝。相手は強豪の実業団選手で、互いに一歩も譲らない激しい攻防となった。ゴリラ女は鬼の形相で前に出続け、得意の足技と圧力を浴びせかけるが、相手も必死のディフェンスを見せ、本試合5分間が終了。
本大会は延長戦を行わないため、勝敗は旗判定に委ねられた。
「判定——!」
主審と副審の手が上がる。相手に2本、ゴリラ女に1本。最後の手数の差が僅かに響き、判定負けとなった。
「くそ、負けたか……!」
悔しさが胸を突いたが、引き揚げる足取りの中で自分の立ち位置を冷静に受け止めていた。
掲示板で結果を確認する。
「ベスト8か」
深く一つ頷いた。
「まあ、久々にしてはこんなもんやな」
仲間たちが駆け寄ってきて声をかける。
「近畿行き決まったやん!」
「うん。取り敢えず次やな」
ガッツポーズや大騒ぎはしない。彼女が気にしていたのは、久しく実戦から離れていた中での己の試合勘だった。
帰宅の列車内、頭の中で今日の動きを整理する。
2025年1月の怪我から半年以上の離脱、審判・コーチとしての充電期間を経て、2026年2月、遂に近畿大会という舞台まで帰ってきた。
淡々とした表情の裏で、彼女の胸には熱い実感が満ちていた。
(まだ終わってへんな。ここからや——)
2026年、ゴリラ女の逆襲劇は、ここから本格的に幕を開ける。