6月に2大会を戦い抜き、7月は大会がないためじっくりと体を休める期間にしていた。
週末の夜。大阪の歓楽街である宗右衛門町。雑多な熱気と居酒屋の看板が犇めく一角に、修道館クラブの面々が集まっていた。第76回全日本実業柔道団体対抗大会での優勝祝いと暫しの休息を兼ねた飲み会だ。
「今日の試合、あそこ危なかったな」
「でも最後良く取ったな」
「次は何の大会出る?」
ジョッキを交わしながら、話題は自ずと6月の延岡での激闘へと雪崩れ込む。優勝トロフィーを奪取した高揚感もあって卓を囲む空気は終始和やかだった。ゴリラ女もジョッキの生ビールを煽り、普段より少しだけ目元を緩めている。
「いやー、今日は勝ててよかったな」
上機嫌なゴリラ女が焼き鳥の串を頬張りながら呟くと、隣のキングコング女が「お前がそう言うなんて珍しいやんけ」と突っ込み、笑いが起きた。
宴も中盤に差し掛かった頃、ゴリラ女は何気なく向かいに座るチンパンジー柔道女へ視線を向けた。
「お前は今後どうしたいとかある?」
問いかけられたチンパンジー柔道女は、グラスを握ったままふっと視線を落とし、数秒間沈黙した。
「えっと……今日言うつもりやなかったんですけど……」
急にトーンの落ちた声に、ゴリラ女は「あれ?」と眉を顰めた。空気が一瞬で静まり返る。
「実は来月で会社辞めて、天理に帰ることになりました。地元企業に転職して、柔道も奈良県内のクラブに移籍します」
一瞬、ゴリラ女の思考が止まった。
「……そうなん?」
短く返したまま、ゴリラ女は固まった。だが、彼女は相手の人生の決断を大袈裟に引き止めたり、泣いて引き留めるような器量のない人間ではない。数秒の間の後、深く頷いた。
「そっか。転職決まったんやな。奈良戻るんか。……まあ、柔道も続けるんやったら、それはええやん」
まず本人の前向きな決断をまっすぐに肯定した。
だが、胸の奥で小さな冷たい風が吹き抜けるような、確かな寂しさが芽生えていた。
その直後だった。隣に座っていたマウンテンゴリラ女が申し訳なさそうに口を開いた。
「私も……東レへの転職が決まってて、京都の実家に帰ることになりました。9月末で修道館クラブを抜ける予定です」
ゴリラ女は思わず目を見開いた。
「え、お前も?」
チンパンジー柔道女が7月。マウンテンゴリラ女が9月。
僅か数か月の間に、これまで修道館の畳の上で互いに限界まで揉み合って来た大事な練習仲間が2人も去る。
(今年、結構変わるな……)
ズシリとした重みが胸に落とし込まれた。だが、ゴリラ女はすぐさまいつもの不敵な笑みを浮かべ、酒の席を湿っぽくさせないようにジョッキを掲げた。
「なんや、みんな地元帰るんか(笑)。まあ、転職決まってんならええやん。奈良と京都ならそんな遠くないし。試合で当たることもあるやろ」
「ゴリラ先輩……!」
「柔道辞める訳ちゃうんやろ? だったら『もう二度と会えへん』みたいな面すんな。またどっかの大会で会うやろ」
前向きな言葉を投げかけ、ゴリラ女は一気にビールを飲み干した。畳の上で繋がり続ける限り、縁が切れる訳ではない。そう自分に言い聞かせるように。
宗右衛門町の居酒屋を後にして天王寺の実家へ帰宅した。風呂に入り、しっかりと汗と酒を洗い流す。
ベッドの上に仰向けに寝転がると、微かな酔いの余韻と共に、静まり返った部屋に思考が広がる。天井の木目をじっと見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……チンパンジー、来月で辞めるんか」
一拍置いて、溜息のように言葉が漏れる。
「マウンテンゴリラも9月か……」
脳裏に、日々の修道館での練習風景が鮮明に浮かび上がって来た。
冬の底冷えする道場で、「お願いします」と言ってがっちりと組み合ったこと。
激しい乱取りの中で、投げられ、投げ返し、息を荒らげて畳に倒れ込んだこと。
試合の前後に「次行けるで」「頑張れ」と互いに背中を叩き合ったこと。
当たり前のように続いていたあの泥臭い日常が、実は永遠のものではなかったのだと、今更ながら突き付けられていた。
「……まあ、人生そんなもんか」
自分だって関電を辞めてMMAの世界に飛び込み、それを辞めて大体大の大学院へ行った。昔の仲間だって、それぞれのライフステージに合わせて場所を変えていった。
「ずっと同じメンバーで、ずっと同じ場所で柔道する」なんてことが、どれほど稀有で奇跡的なことか頭では百も承知だった。
どの競技だって環境が合わなくなれば辞めて違うチームに行くのは当然のことである。
それでも胸の奥に澱のように残る感情があった。
(……やっぱ寂しいな)
普段は人間関係をべたべたと大事にせず、ドライに割り切る己の性格を思えばこの感情は少し意外でもあった。
(私、こんな寂しがるんやな)
それだけあの連中と修道館で流した汗と時間が自分の中で大きな存在になっていたのだ。
「……まあ、柔道続けるんやったらまた会うやろ。試合で会ったら普通に話せばええし。奈良やったら練習にも行けるしな」
少しずつ気持ちを整理し自分を納得させた。
「……明日も練習あるし、寝よ」
布団を被り静かに目を閉じた。
翌日。いつも通りの時間に修道館の道場へ向かった。
だが、着替えて道場の床に立った瞬間いつもの景色がほんの少しだけ違って見えた。
準備運動をしながらチンパンジー柔道女とマウンテンゴリラ女の姿を視界の隅に捉える。
(あと何回、こいつらとここで乱取りするんやろ)
そんな意識がほんの少しだけ脳裏をよぎる。しかし、ゴリラ女は決して湿っぽさを顔には出さない。
「おいチンパンジー! 組むぞ!」
普段通りの声量で呼びかけ、いつも通り容赦のない怪力で畳に叩き付ける。それが彼女なりの、最高の送り出し方だった。
(自分もいつか……修道館を離れる日が来るんかな)
誰もがいずれ自分の場所を見つけて去って行く。仲間を送り出した静かな暗闇の中でゴリラ女はまた一つ、大人としての成熟と確固たる覚悟を深めていた。