交わらない力
2016年3月。関西電力を退職した。
転職先も決めず、ただ「仕事をしたくない」「柔道に専念したい」という衝動だけで会社を辞めた報いだった。朝、目が覚めても何もすることがない。
天王寺の自宅で、彼女は所在なく過ごしていた。
(これから、何をしようか……)
柔道の現役を続ける道はあった。
だが、実業団という枠組みを外れれば、そこには再び伝統や形を重んじる保守的な柔道界のルールが立ちはだかる。自分の変則的なスタイルを邪道と批判する気がした。
そんなある日の午後、何気なく点けたテレビでプロレスの中継が流れていた。
派手なコスチュームを纏った大男達が、リングの上で肉体をぶつけ合っている。殴り、蹴り、投げ飛ばす。そこには柔道のような細かい「有効」や「技あり」の判定はない。ただ、相手を沈めればいいという、原始的な闘争の熱量があった。
「これや……」
直感だった。
技に制限が少なく、何より全力でぶつかることが商売になる。柔道という競技の枠に収まりきらなかった自分の破壊力を、そのまま金に変えられる場所。
2016年4月、彼女は大阪プロレスに入団した。
道場の重い鉄扉を開けた瞬間、中にいた選手たちの動きが止まった。
「デカいな……」
誰かが呟いた。
身長、肩幅、そして何よりその眼光。女子プロレスラーの枠を遥かに超えた、アスリートとしての完成された肉体。彼女が「新人です」と短く告げると、道場内に緊張が走った。
初の合同練習。ストレッチや基礎運動を終え、実戦形式の乱取りが始まった。
「新人だからって遠慮するなよ。でも、最初は軽くやれ」
先輩レスラーが胸を出す。彼女は「はい」と頷き、相手の腕を掴んだ。
次の瞬間、道場内に*「ドォン!」という、耳を劈くような衝撃音が響いた。
彼女が一切の躊躇なく、柔道の技術で先輩をマットに叩き付けた音だった。
「……おい。軽くやれ言うたやろ」
床に這いつくばった先輩の顔は驚愕に染まっていた。技術以前に、彼女の身体能力はすでにプロのベテランを凌駕していた。
練習後、代表が彼女を呼び出した。
「君の力は本物やな。驚いたわ」
「ありがとうございます」
「でもな、プロレスは手加減が必要なんや。スポーツである前に『ショー』として、客に見せて、自分も相手も安全にやらなあかん。分かってるか?」
「……はい」
口では返事をした。だが、違和感があった。
「全力でやりたいです」
「全力なのはええけど、相手の安全を考えるのがプロや」
(手加減……?)
これまでの25年間の人生において、彼女の辞書にそんな言葉は存在しなかった。
小学校の喧嘩、中学校のマラソン大会、大学の全国大会、実業団の試合。勝負の世界とは、相手を完膚なきまでに叩き潰す場所ではなかったのか。
「本気でやらない試合に、何の意味があるんや」
その疑問は、彼女の中で消えることのない火種となった。
実戦練習が繰り返される度、トラブルは続いた。
彼女が投げる度に、相手は受身を取り切れずマットに沈む。
「やりすぎや!」「相手が死ぬぞ!」
怒号が飛ぶが、彼女は止まらない。彼女にとって、ブレーキをかけることは嘘と同じだった。
また代表に呼び出され、「少し抑えろ」と注意された。
しかし手加減が分からない。
2016年中盤。彼女はプロレスラーとしてデビューを果たした。
リングに上がる際、その女子離れした規格外の体格に観客はどよめいた。
(これや。この視線が欲しかったんや)
テンションが跳ね上がった。ゴングが鳴った瞬間、彼女はプロレスを忘れた。
「うおおおおお!」
咆哮と共に相手に突っ込み、容赦のないパンチを連打する。相手の顔面が歪み、鼻血が出た。客席からは歓声ではなく、悲鳴に近いざわめきが上がり始めた。
場外へもつれ込むと、彼女は観客のパイプ椅子を奪い、相手に思い切りパイプ椅子でフルスイングした。
「やりすぎやろ!」「止めろ!」
誰かが叫んだが、彼女の耳には届かない。彼女は、ただ目の前の「敵」を破壊することだけに没頭していた。
試合後の控室は、鉛のように重い沈黙に包まれていた。
「お前な……あんな本気でやる奴がおるか。これはプロレスやぞ」
先輩たちが詰め寄る。代表も血相を変えてやってきた。
「危険過ぎる。団体のルール違反や。これ以上続けたら、試合に出せんぞ」
代表の声は冷たかった。3度目の厳重注意。
しかし、彼女は真っ直ぐに言い返した。
「全力でやるのが、私のやり方です。手加減するなら、それは八百長じゃないですか」
価値観の断絶。歩み寄る余地は、最初からなかった。
2016年12月、年末の興行。
彼女は、遂に越えてはならない一線を越えた。
対戦相手を抱え上げ、コーナーポストの最上段に登る。通常、技をかけるのはリングの内側だ。しかし、彼女は身体を外側――硬いフローリングの床が露出した場外――へと向けた。
「おい! 何を考えてる! 止めろ!」
本部席から悲鳴が上がる。
だが、彼女は止まらなかった。相手の頭部を固定し、そのまま場外へ向かって飛び降りた。
場外パイルドライバー。
「ゴン」という、鈍い、嫌な音が会場に響き渡った。
相手レスラーはピクリとも動かず、会場の空気は氷点下まで凍りついた。救急車が呼ばれ、試合は中断。彼女は一人、返り血を浴びたような顔でリングを見つめていた。
即座に、無期限の謹慎処分が下された。
「勝負事は全力でやるのが当たり前や。手加減する試合のどこが面白いんや」
自宅で謹慎しながら、彼女は依然として納得がいかなかった。自分は間違っていない。間違っているのは、この馴れ合いの世界の方だ。
2017年初頭。大阪プロレスの事務所では、彼女の去就を巡る緊急会議が開かれていた。
「正直、もうカードが組めません。ベテランは怒り、若手は怖がっています」
現場責任者の言葉に、社長も頭を抱えた。
「身体能力は本物だ。だが、選手を守れない。いつか怪我人、最悪の場合は死人が出る」
「彼女の価値観は、我々のプロレスとは根本的に違う。ここには、彼女の居場所はないんです」
数日後、彼女は鴫野の事務所に呼び出された。
天王寺から鴫野までの僅か20分。環状線の窓から見える景色は、入団した春とは違って、酷く冷たく感じられた。
「絶対、クビやな……」
覚悟は出来ていた。
事務所の扉を開けると、幹部陣が並んでいた。
「結論から言う。来季以降の契約は更新しない」
社長の言葉に、彼女は短く「分かりました」と答えた。
「私も、ここは違うと思ってました。プロレスラーには向いてない。引退して、別の場所を探します」
「せやな。お前が悪いんじゃない。ただ、ここはお前の強さを正しく使える場所じゃなかっただけや」
社長が続けた。
「では任意引退に伴う退団という形で良いな?」
ゴリラ女は了承した。
社長の「次、何するか決まってるんか?」という問いに、彼女は少しだけ考え、こう答えた。
「まだ決まってないです。でも、私のこの『強さ』を、100%ぶつけても文句言われへん場所、絶対あるはずですから」
「うん。どこかあると思うで。頑張ってな」
「お世話になりました」
ゴリラ女は挨拶して事務所を後にした。
2017年3月。
僅か1年で、彼女は26歳でリングを降りた。
制服を脱ぎ、道着を脱ぎ、そしてプロレスのコスチュームも脱ぎ捨てた。
「次は何をしようか」
3月。大阪の空は、また少し湿っていた。
彼女は、かつての中学校や高校の卒業時と同じように、一度も振り返ることなく駅へと向い、再び放浪を始めた。