10月に入り、近畿の空気は一気に澄み渡った。
奈良の鴻乃池道場。夕刻の清冽な空気の中、チンパンジー柔道女は新しい道着の帯を締め直していた。7月に大阪の会社を辞めて天理の実家へ戻り、8月からこのクラブへ移籍して2ヶ月。
「あ、練習に行く場所が変わったんやな」
最初の頃に抱いていたそんな戸惑いも、稽古を重ねるに連れて薄れつつあった。修道館でゴリラ女達と当たり前のように組み合っていた6年間。道場を見渡せば当然ながら顔ぶれは違うが、やるべきことは何も変わらない。
「宜しくお願いします!」
新しい練習仲間と対峙し、深々と礼をする。
「大阪から来たんですよね? 修道館に居たんですか?」
「はい。天理に戻ってきて仕事も変わったんで。修道館には6年くらい居ました」
「へえ、じゃあゴリラ女さん達とずっとやってたんですね」
組み合ってみれば、相手によって体格も得意技も組み手の癖も違う。修道館時代にはなかった新しい刺激が寧ろ新鮮だった。
実家に帰り、夕飯の食卓で母親が尋ねる。
「新しい道場どうやった?」
「普通。みんな強いよ」
「前の所とは違う?」
「そら違うよ。でも柔道は柔道やから」
そう答えながら、ふと頭の隅で大阪の夜空を思い浮かべる。(ゴリラ女さん、今日もあの辺で激しく乱取りしてるんやろな)
寂しさはない。自分も自分の場所でしっかりと畳の上に立ち続けるだけだった。
一方、滋賀・大津。10月1日に東レに入社したマウンテンゴリラ女は、激変した環境の渦中に居た。
朝早く京都の実家を出て大津の社屋へ通勤し、日中は新しい仕事を覚える。夕方からは東レの柔道部で汗を流し、夜遅くに京都へ帰る日々。
実業団のチームに所属したことで単なる趣味や習い事の枠を超え、「会社の名を背負って戦う選手」という責任感が芽生えていた。
初日の稽古。道場に凛とした声が響く。
「東レのマウンテンゴリラです。宜しくお願いします!」
「修道館に居たんだよね? 6年くらい?」
「はい!」
「じゃあ柔道はベテランですね(笑)」
「いやいや、まだまだです(笑)」
乱取りが始まれば、実業団ならではの質の高い稽古が待っていた。クタクタになって京都の実家に辿り着くと母親が温かい茶を出してくれた。
「疲れた?」
「疲れた(笑)」
「東レどうなん?」
「仕事も覚えること多いし、練習も新しい人ばっかりやからな……でも楽しい?って聞かれたら、うん。柔道はやっぱり楽しいわ」
環境が変わっても、柔道が好きだという軸だけは揺らぎようがなかった。
その頃、3人のグループLINEには、日常の報告が流れていた。
「奈良の鴻乃池道場、今日も練習行って来ました。新しい人と乱取りするとやっぱり違いますね」
「東レ初練習終わりました。仕事より練習の方が緊張しました(笑)」
「そら最初はそうやろ。慣れん環境で無理して怪我すんなよ。ちゃんと飯食って寝ろ」
「ゴリラ女さんも講道館杯ありますからね」
「そっちも練習せえ(笑)」
所属先はバラバラになっても、関係の根底にある温かさは何も変わっていなかった。
10月中旬の修道館。
畳の上で帯を締め直したゴリラ女は、ふと壁際へ視線を向けた。
「……おらんな」
近くにいた後輩が顔を上げる。「誰がですか?」
「マウンテン」
「もう東レ行きましたからね(笑)」
「分かってるけどな」
7月にチンパンジー柔道女が抜け、9月末にマウンテンゴリラ女が抜けた。乱取りの相手が一気に減った道場は、どこか風通しが良過ぎるように感じられた。「居ない」という違和感は、思っていた以上にしぶとく畳の上に残っている。
そんな中、10月18日。講道館大阪国際柔道センターで大阪市北地区柔道大会が開催された。
地域規模の小規模な大会だが、11月の全日本講道館杯まで間が空くため、実戦の感覚と組み手のスピードを落とさないための練習試合のノリでエントリーしたのだ。
控室でチームメイトが尋ねる。
「今日どうします?」
「普通にやる。講道館杯の練習やから」
「でも、もし負けたら?」
ゴリラ女は肩を竦めた。
「別に(笑)。課題が見つかったらそれでええわ」
気負いは一切なかった。
1回戦は序盤から積極的に間合いを詰め、力強い両袖の確保から大外刈。相手が必死に耐えた瞬間、隙を逃さずそのまま寝技へと移行。完璧な抑え込みで相手を固め一本。比較的あっさりと初戦を突破する。
準決勝は相手の組み手が上手く、序盤はなかなか自分の形を作れない。
「組み手、ちょっと遅かったな……」
心の中で課題を確認しながら攻めの手を緩めず、中盤に力強い大外刈で「技あり」を奪う。そのまま相手を畳に釘付けにし、最後は抑え込みで一本勝ち。苦戦しながらも確実に修正してみせた。
決勝は3分間のフルタイム。一番練習試合らしい内容となった。
無理に一本を取りに行かず、相手の組み手への対応、先手での技の出しやすさ、後半にスタミナが切れても足が動くか、寝技へのスムーズな移行――本番の講道館杯を見据えたチェックリストを一つずつ潰していくような試合運びを展開する。決定打こそ出なかったものの、終始主導権を握り続けて判定勝ち。
結果は優勝。
大会終了後、修道館の仲間たちが寄ってくる。
「優勝したのに、何かテンション低くないですか?」
「練習試合みたいなもんやからな」
「でも、本番前に3試合しっかり出来たのは大きいですよね」
「それはそう。講道館杯までにもうちょっと組み手の初動を早く動かせるようにせなあかんな」
淡々と己の課題を見つめるゴリラ女だった。
その夜、天王寺の実家。
居間のソファに腰を下ろすと、台所から母が声を掛けて来た。
「今日、北地区の試合やったんやろ?どうやったん?」
「優勝」
「えっ、優勝したん!?」母が驚いた顔で振り向く。
「うん。でも北地区の小さな大会やから」
「それでも優勝は優勝やろ。凄いやん」
ゴリラ女は茶を飲み干し、少しだけ照れくさそうに笑った。
「まあな(笑)」
自室に入り、大きな体をベッドに横たえる。
マウンテンゴリラ女が抜けた後、初めて挑んだ実戦。試合が始まってしまえば、当然ながらそこにあるのは純粋な勝負だけだった。
(……結局、どこの畳に立っても柔道やること自体は変わらんな)
道場に漂っていた「居ない」という静けさは、もう淋しさではなく、新しい日常の音へと変わり始めていた。
チンパンジー柔道女は奈良で、マウンテンゴリラ女は滋賀で、自分は大阪で。それぞれの畳で課題と向き合っている。
「組み手をもう半歩早く……」
11月の本番・講道館杯を見つめ直し、ゴリラ女は静かに目を閉じた。