11月。前日に大阪を出発したゴリラ女は、秋風が吹き抜ける千葉ポートアリーナの会場に居た。
館内には全国から勝ち上がって来た精鋭達の引き締まった熱気が充満している。10月の大阪市北地区大会とは完全に質の異なる、全日本の空気がそこにはあった。
そして今回のバッグには、2023年以来となる青道着が畳み込まれている。講道館杯では国際ルールに則り、トーナメントの番号によって青と白の道着が指定されるのだ。
アップを終え、トーナメント表を確認する。若手番号側のゴリラ女は青。更衣室で3年ぶりに青道着の袖を通すと、生地の硬い感触が肩に伝わって来た。
(青、久々やな……)
過度な感傷に浸ることはない。だが、青い帯を締めたその姿は全国の頂を目指す一人の勝負師の顔そのものだった。
1回戦。10月の課題だった組み手の初動の遅さを潰すべく、序盤から前へ出る。相手の先手攻撃をドシッと受け止めると間髪入れずに鋭い大外刈。技ありを奪うと逃がさずそのまま寝技で抑え込み一本。「よし」、短く呟いて初戦を突破する。
2回戦。相手も全国レベルのパワフルな選手。序盤は激しい組み手争いが続き、右組みを作らせて貰えない。「焦らんでええ」と自分に言い聞かせ、じっくり圧をかける。中盤、相手の足が一瞬止まった隙を逃さず渾身の大外刈で「技あり」。相手の猛攻を最後まで気迫で受け切り、技あり優勢勝ちでベスト8進出を決める。
3回戦。この日の最大の山場。相手の素早い動きに序盤は受けに回り苦戦するが、後半、相手の運動量が落ちた瞬間を見逃さなかった。得意の組み手から強烈な大外刈で相手を押し込み「技あり」。取り返しに来る相手の猛攻を最後まで組んで防ぎ切り、見事ベスト4進出を果たす。
4回戦。全国優勝へ向けた壁。ゴリラ女も最初から全開で大外、内股を仕掛けるが、相手の巧みな組み手捌きに阻まれる。中盤、技を仕掛けた一瞬の隙を返されて「技あり」を奪われる。最後まで泥臭く前に出続けたが、そのままタイムアップ。結果はベスト8。
以前よりは全国大会で通用するようになったが、どうしても入賞までには至らない。
大阪に帰ったゴリラ女は来年の予定を色々考えることにした。
現在36歳。修道館での週1回の練習。全国大会でベスト4までは行ける。しかし、あと2つ勝ち上がって全国優勝を掴み取るには決定的に日常の稽古量が足りない。
「修道館が悪いんやない。自分が全国優勝を狙うなら今の量じゃ足りん」
11月下旬、修道館の稽古後。更衣室で2人きりになったタイミングで、ゴリラ女は友達のキングコング女に切り出した。
「なあ、私、来年からクラブ変えようか思ってる」
キングコング女が手を止め、振り向く。「え?」
「ニュージャパン」
「何で急に?」
「全国優勝狙うんやったら、今の週1だけやと厳しいと思ってな」
キングコング女はゴリラ女の真っ直ぐな目を見つめ、静かに吐き捨てた。
「……本気やな」
「うん。来年37になるし、もう時間ないから」
「修道館辞めるん?」
「まだ正式には決めてない。まず出稽古行って、合うか見てからや」
キングコング女は呆れたような、だが誇らしげな苦笑いを浮かべた。「まあ……ゴリラ女がそこまで考えて決めたんなら、誰も止める理由ないわ」
続いて、後日オランウータン柔道女にも伝えた。
「ニュージャパン、出稽古行こうと思ってな」
「えっ、移籍ですか?」
「週1やと、全国優勝するには足りん。最後に一回、本気でやってみようと思ってな」
「週6ですもんね……寂しいですけど、ゴリラ女さんらしくて格好良いです。応援します」
6年間共に汗を流した仲間達は、彼女の全国優勝への本気を誰よりも理解し背中を押してくれたのだった。
大会会場として何度も足を運んだ講道館大阪国際柔道センター。しかし、試合会場として入るのとニュージャパン柔道クラブの稽古場として足を踏み入れるのとでは、空気の重みが全く違っていた。
11月末、初めて出稽古に訪れたニュージャパンの道場。そこには、実業団や大学生、強化選手クラスの重量級がズラリと並んでいた。
「修道館クラブのゴリラ女です。宜しくお願いします!」
「おお、この前の講道館杯に出たのゴリラ女さんね。いつでも歓迎ですよ!」
準備運動、打ち込み、投げ込みを経て、メインの乱取りが始まる。
「お願いします!」
相手は20代前半の現役バリバリの重量級選手。組み合った瞬間、全身に走るプレッシャーの強度が修道館のそれとは一線を画していた。
引き手を叩き落とされ、間髪入れずに技が飛んで来る。ゴリラ女もバイオメカニクスで培った軸の強さで耐え、得意の大外刈を返す。1本、2本、3本……。次から次へとタフな大型選手が組みかかってくる。
息が上がり、道着が汗でズッシリと重くなる。
(これや……この追い込まれる感覚や……!)
寝技、そして最後の補強トレーニングまで一通りこなした時、全身の筋肉が歓喜で叫んでいるような感覚があった。週1回の練習では絶対に味わえない、極限の運動量。
練習後、汗を拭うゴリラ女にニュージャパンの指導者が声をかける。
「どうでした、ゴリラ女さん?」
ゴリラ女は呼吸を整え、水を一口飲み干すとニヤリと笑った。
「……滅茶苦茶ええですね」
「ハハハ! またいつでも来て下さい」
「ありがとうございます。またお願いします」
道場を出て、夜の大阪の空気を吸い込んだゴリラ女の心は完全に決まっていた。
6年間育ててくれた修道館への感謝を胸に、年末までしっかり筋を通す。そして2027年――37歳になる年に、彼女は全国優勝という最後の悲願をかけて、ニュージャパン柔道クラブへ正式に移籍することを確信していた。