2026年12月。冷え込みが厳しくなった年の瀬の大阪。
2020年にMMAを引退し、大阪体育大学の大学院生として再び畳の上に戻って来たあの日から6年。修道館クラブの看板を背負い酸いも甘いも噛み分けるように技を磨き続けて来た場所に、一つの区切りをつける時がやって来た。
1月からの新体制を控え、12月最初の稽古。柔道場の冷えた床の上で、練習が始まる直前にゴリラ女が所属選手達の前へ進み出た。
少し照れ臭そうに大きな体を掻くようにしながら、低い声を響かせる。
「お疲れ様です。何人か知ってる人もいると思いますが、練習頻度を増やしてレベルを高めたいと思い、来月から城東区のニュージャパン柔道クラブに移籍することになりました。なので、この仲間と柔道やれるのも年内ですが、残りの期間も宜しくお願いします」
周囲の選手たちから、響めきと納得が混ざり合った声が上がる。
「えー、やっぱり移籍するんですね」
「講道館杯の後、見学行ってましたもんね」
「ニュージャパンって、週6練習ですもんね……!」
ゴリラ女はフッと口角を上げ、淡々と応じた。
「そう。自分ももう37になるしな。全国優勝狙うんやったら、今の内にやれることやっとこうと思って」
そして、皆の少し寂しそうな表情を払い除けるように軽く手を開いて見せた。
「まあ、移籍しても大会では会うやろ。これで柔道辞める訳ちゃうから(笑)」
稽古が終わり、汗を流して着替えた後、ゴリラ女は高校からの付き合いであるキングコング女、そして修道館で苦楽を共にして来た後輩のオランウータン柔道女とマントヒヒ女の3人に声をかけた。
「今日、このあと飯行かへん?」
「行きましょう!」
「私も大丈夫です」
「じゃあ行こか」
ミナミの雑居ビルにある居酒屋。乾杯のグラスがぶつかり、料理が運ばれてくると、ゴリラ女が改めて口を開いた。
「さっき皆には言ったけど、来月からニュージャパン行くから」
「うん。聞いた」とキングコング女が頷く。
「やっぱり正式に決まったんですね」オランウータン柔道女が静かに言う。
「うん。もう決めた」
マントヒヒ女がグラスを見つめながらポツリと漏らした。
「寂しくなりますね……」
「まあ、大会には出るから。そんな会えなくなる訳ちゃうよ」
キングコング女が枝豆をつまみながら、懐かしそうに目を細めた。
「高校からずっと一緒やもんな」
「そうやな。大学も一緒やったし、修道館でも一緒やったしな」
「6年も居たんですよね」とオランウータン柔道女。
「せやな。大学院生の頃からやからな」
マントヒヒ女が続く。
「私、まだ2年しか一緒にやってないですけど、それでも結構長く感じます」
ゴリラ女は豪快に鼻で笑った。
「2年もやったら十分や(笑)。まあ、これからも柔道続けろよ」
「あの時の乱取り、滅茶苦茶しんどかったですよ!」
「ゴリラ女さん、あの時全然休まなかったですよね」
思い出話に花が咲く。だが、湿っぽさや涙はない。本当の最後は、稽古の最終日だからだ。4人はいつも通りの賑やかな夜を過ごし、解散した。
12月後半。修道館クラブでの最後の練習日。
いつも通りの時間に道場へ入り、使い古された柔道着に着替える。6年間、通い詰めたこの道場の匂い、畳のすり減り具合。特別な演出は何一つなくても、胴着の帯を締める手元に「今日が最後なんやな」という静かな感慨が宿る。
最後の乱取り。誰も「最後だから」と手加減などしない。寧ろ、「最後、お願いします!」
と真っ直ぐにぶつかって来る後輩達。ゴリラ女も「お願いします」と低い声で返し、容赦のない本気の組み手で受け止め、投げ、抑え込んだ。一切の妥協のない、いつも通りの厳しい稽古。
最後の乱取りの終わりを告げるタイマーが鳴り響く。
全員で整列し、終わりの礼。それが済むと、ゴリラ女がゆっくりと列の前へ出た。
「お疲れ様でした。今日で修道館クラブでの練習は最後になります」
短く、淡々と彼女は語り始めた。
「MMA引退してから、大学院に通ってた頃からここで練習させてもらって、6年くらいになります。ほんまに色んな人と一緒に練習出来て、ここで柔道続けてこられて良かったと思ってます。
来月からニュージャパンで練習することになりますけど、柔道辞める訳でもないし、大会にも出るので、また試合会場で会うと思います。その時は普通に相手して下さい(笑)。
今までありがとうございました。残りの人も、これからも怪我せんように頑張って下さい」
まっすぐに全員を見渡し、最後に頭を下げる。
「ありがとうございました!」
「「「ありがとうございました!!!」」」
道場全体に、割れんばかりの声援と感謝の掛け声が響き渡った。
稽古が終わり、着替えを済ませた後、荷物を纏める前にゴリラ女は1人ずつに声をかけていった。
オランウータン柔道女へ
「オランウータン、6年間ありがとうな」
「こちらこそありがとうございました。最初の頃から色々教えてもらって……」
「いやいや。これからもちゃんと柔道続けろよ」
「はい。また試合で会いましょう」
「おう」
6年間、一番近くで成長を見続けてきた後輩。交わす言葉は短いが、その目には確かな信頼と温かみが宿っていた。
マントヒヒ女へ
「マントヒヒも、2年間ありがとうな」
「こちらこそありがとうございました」
「まだ若いんやから、これからやで。怪我だけ気ぃつけて」
「はい!」
「また大会でな」
「はい、またお願いします!」
キングコング女へ
最後に残ったキングコング女。高校、大学、そしてこの修道館。ずっと隣を歩いてきた腐れ縁の親友を前にすると、さすがのゴリラ女も少し照れ臭さが勝った。
「コング」
「ん?」
「……お前とはいつでも会えるもんな」
「まあな(笑)」とキングコング女はニッと笑う。
「まあまあ、ありがとうな」
「なんやその言い方(笑)」
「また飲み行こうや」
「おう。絶対行こう」
「じゃあな」
「またな」
この2人に「今生のお別れ」のような湿っぽさは似合わない。所属が変わろうが、関係性は何も変わらないのだから。
パンパンに膨らんだスポーツバッグを肩に担ぎ、道場を出る。
出入り口の敷居を跨いだところで、ゴリラ女はふと足を止め、振り返った。
6年間、血と汗を染み込ませてきた修道館の畳。
腰を落とし、柔道家としていつもの礼を一つ。
「ありがとうございました」
前を向き、一歩を踏み出す。
夜の冷気が頬を刺す中、大阪城公園駅までの道を一人で歩く。
ホームに滑り込んで来た列車に乗り込み、鶴橋方面へ向かって揺られながら車窓に映る大阪の夜景を眺めていた。
(2020年……)
MMAのリングを降り、大学院生として「これから自分は何をして生きて行くんやろ」と模索していたあの頃。縋るように足を踏み入れたのが修道館だった。
ただ「もう一度、畳の上で暴れたい」という衝動だけで始めた柔道。気付けば6年が過ぎ、素晴らしい仲間が出来、過酷な稽古に打ち込み、全国の舞台にも立った。
だが、現役復帰からの3年間で、まだ「全国優勝」の頂には届いていない。
(6年か……長かったな)
電車のドアが開き、鶴橋駅のホームに降り立つ。焼肉の匂いが仄かに漂う街並みを歩きながら、胸の奥で静かに思考が纏まる。
(……まあ、終わった感じはせんな)
寂しさがない訳ではない。だが、立ち止まっている暇はない。
来月からは城東区のニュージャパン柔道クラブ。週6日の猛特訓が待っている。37歳になる年に本気で全国の頂点を獲りに行く。
「まあ、次やな」
ぽつりと呟いた言葉は、夜風の中に力強く溶けた。
修道館クラブでの6年間という章は閉じた。しかし、ゴリラ女の泥臭く、どこまでも硬派な柔道人生はここから更に激しさを増して続いて行く。