浪速のボスゴリラ   作:五十嵐 響

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空白の中の再起

2017年3月。プロレスラーを引退した彼女を待っていたのは、人生2度目の無職という肩書きだった。プロレスラーとしての活動期間は、僅か1年。26歳の春、彼女は再び何者でもない自分へと戻った。

 

朝、目が覚めても行くべき場所がない。実家の自室で、染みの浮いた天井を数時間も眺め続ける。時間は残酷なほど平等に、そして無為に過ぎ去っていった。

「……あんた、働かんの?」

台所から母親の鋭い声が飛ぶ。実家暮らしとはいえ、家計は常に火の車だ。姉妹達がそれぞれの道を歩む中、20代後半に差し掛かった彼女がいつまでも無職のまま食い潰す訳にはいかなかった。

「働くわ」

短く返し、彼女は求人アプリで探した。会社員が向いていないことは関西電力の3年間で嫌というほど思い知らされている。いつ転職先が見つかっても良いように、拘束の緩い単発や短期のバイトだけを標的にした。

 

イベント設営、引越し、倉庫作業と手当たり次第働いた。

彼女が現場に現れると、周囲の男達は一様に目を剥いた。人一倍大きな体躯に丸太のような腕。

「お前、ラグビーか何かやってたんか?」

「いえ、柔道です」

そう言って、男二人でも難儀する重い資材を一人で軽々と担ぎ上げる。その圧倒的な馬力はどこへ行っても重用され、フリーターの割にはそこそこ稼いだ。

特に倉庫での仕分け作業は、彼女の性に合っていた。誰とも会話せず、ただ飛んでくる荷物を黙々と処理する。肉体を酷使している間だけは、自分が何者であるかを考えずに済んだからだ。

だが、手元に残る日当は、孤独を埋めるには少な過ぎた。

ふらりと足が向くのは、天王寺駅前にあるパチンコ店。

派手な液晶の光、鼓膜を震わせる轟音。台に座り、ただ玉の行方を追う。

(簡単やな……勝負事っていうのは)

勝つ日もあれば、負ける日もある。だが、それは彼女が求めていた投資ではなかった。トータルの収支がマイナスに転じた頃、彼女は虚しさに襲われてパチンコは辞めた。

 

フリーター生活が2ヶ月を過ぎた。

ふと開いたFacebookには、かつての同級生達の近況が流れて来る。

「昇進しました」「結婚しました」「マイホームを建てました」

夜、スマートフォンの青白い光に照らされながら、彼女は暗い天井を仰いだ。

(周りはどんどん進んでいく中、私は26で日雇いのフリーター。何してんねやろ)

漠然とした不安はプロレスラーを引退してから常にあった。正社員になれば安心かもしれない。だが、自分に出来るのは、相手を投げ飛ばし、ねじ伏せることだけだ。運転免許以外の資格もなく、社会において、彼女は無用の長物に成り下がっていた。

 

そんなある日、YouTubeのおすすめに一つの動画が流れてきた。

『RIZIN FIGHTING FEDERATION』

画面の中で戦っているのは、かつて中学生の頃に彼女の魂を揺さぶった『PRIDE』や『DREAM』の系譜を継ぐ格闘家達だった。打撃が火花を散らし、組み合いから一瞬の隙を突いて関節技が決まる。

「……これや」

乾いた心に、一気に血が巡るのを感じた。

DREAM倒産後、あまり格闘技を見なくなったが再び興味が湧いた。

プロレスのような手加減は要らない。柔道のような伝統に縛られる必要もない。ただ、目の前の敵を完膚なきまでに叩き潰すことだけが正義とされる、真剣勝負の舞台。

柔道で培った体幹、プロレスで得た規格外の馬力。全てを解放出来る場所は、ここしかない。

次の日から、彼女の生活は一変した。

朝のロードワーク、腕立て、スクワット。キックボクシング、レスリング、ブラジリアン柔術のエッセンスを独学で、あるいは街のジムを渡り歩いて吸収した。若い内はいくらでもやり直せる。

 

インターネットで見つけた「THE OUTSIDER」の文字。ルールとリングの熱気を確認したゴリラ女は、迷うことなくエントリーのボタンを押した。

2017年5月21日。江東区・ディファ有明。

刺青を入れたアウトローが入り乱れる独特の緊張感が充満する会場の控室で、ゴリラ女は静かに青コーナーのテープを巻かれていた。

THE OUTSIDER 第46戦。プロレスというプロの世界を経験して来たとはいえ、本格的なMMAの実戦はこの日が初めて。セコンドもおらず、ほぼ手探りの独学で挑むデビュー戦だった。

コールを受け、両腕を挙げて「モアーイ!」と叫ぶ。周りの喧騒や相手のセコンドの声も、今の彼女にはただの雑音にしか聞こえない。必要最低限の視線で相手を見据え、ただ静かにゴングを待った。

 

カァァァン!

ゴングが鳴ると同時に、相手が勢い良く前傾姿勢で距離を詰めてくる。

独学で練習して来たたとはいえ、彼女の体に染み付いているのは大学まで叩き込まれた圧倒的な組みの強度と身体能力だ。

相手のフックをすっと見切り、距離が縮まった一瞬。

ゴリラ女は迷わず相手のクラッチを奪い、そのまま力技ではなく、物理的な道理に沿った完璧な軌道で畳……ではなくリングのマットへ叩き落とした。

「重い……!」

上を取られた相手が焦りの声を漏らす。ゴリラ女は一切の無駄な力を使わず、冷静に自らの体重を預け、相手の体力を削る。

パウンドを警戒して腕を前に伸ばしてきた相手の隙を、彼女の目が逃さなかった。

スッと自身の足を相手の首元へ滑り込ませ、相手の右腕を抱え込む。

(あ、もろたな)

体重移動と支点の作り方は、柔道でもプロレスでも体に染み付いた得意分野だ。

肘関節を完璧に極め、腰を静かに浮かせる。

パンパン!

堪らず相手がゴリラ女の太ももを連打してタップアウト。

1R、アームバーによる一本勝ち。

 

試合後、レフェリーに腕を掲げられても、派手なガッツポーズや叫び声はない。

呼吸を整え、相手と挨拶を交わすと、淡々とリングを後にした。

セコンドの居ない寂しい控室に戻り、バンテージをハサミで切り落としながら、自分の拳を見つめる。

「……なるほどな。打撃が入るだけで、距離感も崩しも全然違うわ」

勝ち誇る訳でもなく、ただ冷徹に自分のデビュー戦を分析するゴリラ女。

独学での2ヶ月間が間違っていなかった確信と、MMAという競技の奥深さ。ディファ有明のリングで静かに、そして圧倒的な内容で踏み出されたのだった。

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