2018年9月、彼女はRIZINの契約書にサインした。
その瞬間、肩書きはフリーターから総合格闘家へと変わった。
彼女の人生で最も誇らしい肩書きだった。
RIZINは団体ではなくフェデレーションであるため多くの格闘家はDEEPやパンクラスなどのプロ団体に所属しながら派遣としてRIZINに参戦するか、特定の団体に所属せずフリーとして参戦するパターンがある。ゴリラ女はプロの団体で結果を出したパターンではないためフリー契約となった。
「デビュー戦が決まった。大晦日、さいたまスーパーアリーナや」
ジムのケージ際でセコンドに告げられた時、彼女は短く「はい」とだけ応えた。28歳でプロデビューだ。
12月30日。新大阪駅から東海道新幹線に乗り込む。窓の外、飛ぶように過ぎ去る冬の景色を眺めながら、彼女はこれまでの道程を反芻していた。
中学校の黒ずんだ道着、大学の単位との死闘、関西電力の窓際での退屈、そしてプロレス界での拒絶。
(やっと、思い切り暴れられる場所に行ける……)
拳を握りしめると、やる気が湧いた。
2018年12月31日。格闘技の聖地、さいたまスーパーアリーナ。
数万人の観客が発する熱気と、刺すような眩しさのスポットライト。青コーナーから入場する彼女の目に、臆する色は微塵もなかった。
ゴングが鳴った瞬間、彼女は本能を解放した。
相手のパンチが顔面を掠めるが、気にしない。重戦車のように突進し、強引に組み付くと、相手の重心を根刮ぎ奪ってテイクダウンを奪った。
マウントポジション。上から見下ろす視界には、逃げ場を失った獲物がいた。
(終わりやな)
一発、二発、三発。
柔道の抑え込みで培った体重移動と、プロレスで鍛えた広背筋から繰り出されるパウンドが、相手の顔面を打ち抜く。レフェリーが慌てて割って入り、試合を止めた。
1RTKO勝利。
控室に戻っても、彼女の息は殆ど乱れていなかった。セコンドの「ええやん」という賞賛に、「こんなもんです」と淡々と返した。
快進撃は止まらなかった。
2019年4月、横浜アリーナでのプロ2戦目。相手は彼女のパワーを警戒し、打撃の距離を取る戦略を見せた。
(組ませへんつもりか。なら、裏をかくだけや)
一瞬の交錯で背後に回ると、電光石火の勢いで極太の腕を相手の首に巻きつけた。頸動脈を容赦なく締め上げるリアネイキッドチョーク。相手はタップするしかなかった
。
続く7月のプロ3戦目。再びさいたまスーパーアリーナの舞台。
開始早々、圧倒的な圧力で相手をケージ際まで追い詰めると、力任せに抱え上げ、キャンバスへ叩き付けた。馬乗りになって放たれるパウンドの連打は、もはや暴力の域に達していた。再びのTKO勝利。
3戦3勝、全フィニッシュ。
RIZINのリングに突如現れた怪物は、一躍注目を集めた。しかし、あまりの強さと重量級故の層の薄さが、彼女に皮肉な現実を突き付けた。
「次、いつですか?」
「……相手が見つからなくて、未定ですね」
運営の言葉に、彼女は唇を噛んだ。
格闘家は試合のファイトマネーとスポンサー収入が主な収入源だ。試合が組まれなければ、預金残高は削られる。
(このままでええんか?)
そんな不安が脳裏をよぎった時、不思議と頭に浮かんだのは、かつて自分を形作った柔道だった。
2019年末。彼女は母校の大阪体育大学を訪れた。
「久しぶりやな。今、何してるんや?」
恩師の問いに、「総合格闘家です。でも、試合がなくて不安定で……」と正直に打ち明けた。
「柔道に戻りたいんか?」
「やりたいです」
即答だった。だが、そこには高い壁があった。全日本柔道連盟のルールにより、プロ格闘家は引退後3年間は柔道界に復帰できない。
「なら、大学院に来るか? バイオメカニクスを学び直せ。身体の使い方を学問として突き詰めれば、将来柔道に戻った時、お前の強さはもっと理にかなったものになる」
柔道への帰還か、MMAの継続か。
揺れる彼女の元に、マネージャーが更に巨大な話を持って来た。
「海外からオファーが来てる。アジアの雄『ONE』か、世界最高峰の『UFC』か。ONEの方が金は良いが……」
彼女はマネージャーの言葉を遮った。
「UFCは、世界一ですよね?」
「せやな。あそこが世界の終着点や」
迷いは、一瞬で霧散した。
「UFCに行きます。最後なんで世界最高峰の舞台で全部出し切って終わります」
UFC。正式名称はUltimate Fighting Championship。PRIDEがあった頃は業界2番手だったが、PRIDE崩壊後はMMA世界最高峰の団体となり世界中から強豪が集まる。
2019年末。彼女は日本人女子として数少ないUFCとの契約を勝ち取った。
RIZINでの3戦全勝という戦績は自信となった。
しかし、それは同時に、自らの現役生活のカウントダウンが始まったことを意味していた。
柔道への未練、学問への誘い、そして世界最強の舞台。
かつて暴風と呼ばれた彼女は、今や一人の表現者として、その命の輝きを世界に晒そうとしていた。
次は、世界。
そして、その先にある、本当の結末へ。