2019年末。天王寺の自宅。
その日の夕食は、いつも通りの光景だった。テレビからはバラエティ番組の音が流れ、母が台所から大皿を運び、誰かが風呂から上がって来る。他愛ない会話が飛び交う、平凡で賑やかな母子家庭の食卓。
しかし、ゴリラ女だけは少し違った。
箸を動かしながらも口数は少なく、何かを考え込んでいる。その様子に、長女の猿女だけは薄々気づいていた。
(……何か話あるな、こいつ)
ゴリラ女は味噌汁を一口啜ると唐突に、しかしあまりにも普通に切り出した。
「……多分、MMA辞めると思う」
一瞬、食卓が静止した。
全員の箸が止まり、テレビの笑い声だけが虚しく響く。
「は!? なんで!?」
真っ先に感情を爆発させたのは、三女のチンパンジー女だった。
「……早ない?」
猿女が冷静に、だが驚きを隠せずに聞き返す。
「何かあったん?」
四女のオランウータン女が心配そうに顔を覗き込み、母は真っ先に彼女の身体に目を向けた。
「怪我? どこか痛めたんか?」
「いや、怪我ちゃうねん」
ゴリラ女は、淡々と、自分の中に溜まっていた現実を口にした。
「まず、女子の重量級が全然おらん。試合が全然決まらへんねん。決まっても体重合わせるキャッチウェイトばっかりやし、次いつオファー来るか分からん状態で待つだけなのは、もうキツい」
そして、最も現実的な問題を口にした。
「試合がないと収入にならんし、生活が安定せえへん」
この家族は母子家庭であり、全員が現実重視の価値観を持っている。夢や理想だけで腹は膨れないことを、身を以て知っているのだ。「生活の安定」という言葉の重みは、家族全員の胸に等しく響いた。
「……そらそうやな」
猿女が重く頷く。競技者としての厳しさを理解した上での同感だった。
だが、ここでゴリラ女が続けた。
「でもな、UFCの話が来てるねん。2試合だけ契約することになった」
「マジで!?」「アメリカ!?」「UFCってあの世界一の!?」
チンパンジー女のテンションが再び跳ね上がる。母は「海外……?」と不安を先立たせたが、ゴリラ女の表情は晴れない。
「でも、それ終わったら長くはやらんと思う。2試合、きっちりアメリカで戦って、それで終わりにする」
「え……?」
家族の顔に困惑が広がる。世界最高峰の舞台への切符を手にしながら、同時に引退を決める。その矛盾した決断が理解できなかった。
「さっきも言った通り、待ち続けるのがしんどいねん。UFCまで行っても、状況はそんなに変わらん。やから、2試合やって、区切りをつける」
最初は「勿体ない」という空気が漂った。29歳という格闘家としてこれからという時期だ。だが、彼女の「オファーを待ち続ける空白の時間」の苦しさを聞くうちに、家族の空気は「それはキツいな……」という理解へと変わっていった。
「で、辞めた後やけど……」
ゴリラ女が少し背筋を伸ばした。
「大学院に行こうと思う。大体大の院。そこでもう一回勉強して、柔道に戻るわ」
その瞬間、空気が少しだけ和らいだ。
特に母の顔には、明確な安心の色が浮かんだ。「辞めた後が空白ではない」ことが、何よりの救いだった。
「お前、また大学行くんか」
猿女が呆れたように笑う。
「急にインテリ路線やん。似合わへんなあ」
チンパンジー女が半分いじりながらも、場を明るくした。
「柔道、全柔連のルールで引退後3年は公式戦出られへんけど、その間に院で研究して、32歳で復帰するつもりや。もう決めたから」
それは相談ではなく、確定した「報告」だった。
格闘家として未練がゼロなわけではない。だが、彼女の瞳には、かつて授業をサボって寝ていた大学時代とは違う、明確な知性と覚悟が宿っていた。
食後、家族は驚くほど普通に戻った。
誰かが皿を下げ、誰かが風呂に入り、明日の準備を始める。
しかし、家族の誰もが心の中で思っていた。
今日の夕食は、彼女の、そしてこの家族の人生が大きく変わる分岐点だったのだと。
ゴリラ女の新しい戦いは、この夜、この食卓から始まった。