冬木の夜は、海の匂いより先に、血の匂いを運んだ。
港湾倉庫街の一角。人気の絶えた鉄の箱庭の中心で、描きかけの召喚陣が黒く焼け、七人いたはずの術者は、もう四肢の形を保っていなかった。切断面だけが異様に滑らかで、悲鳴が遅れて床を転がっている。
陣の中央に落ちていたのは、指だった。
干からび、なお腐らず、なお消えず、なお呪う。
それに縋った愚かな魔術師たちは、願いを叶える器に指を落とし、泥と魔力と血を混ぜた。結果として生まれたのは、英霊でもなければ使い魔でもない。
立っていたのは、王を名乗るにふさわしいほど、傲岸な異形だった。
四つの眼が、倉庫内の死骸をつまらなそうに見下ろす。口元に浮かぶのは笑みではなく、飽きだ。二本の腕が垂れ、もう二本がまだ乾ききらぬ血を払い落とす。その身にまとわる気配は、魔力とも瘴気とも断じきれぬ濃さで、空気そのものを軋ませていた。
「器にしては脆い」
低く、よく通る声だった。
「知らぬ術。知らぬ土地。だが、匂いは同じだな。下らん人間の欲だ」
足下で、まだ息のあった魔術師が、喉に溜まった血を吐きながら這った。
「ア、アーチャー……! 助け、ろ……命令権を――」
その言葉は最後まで続かなかった。
天井も壁もない空間から、金色のさざめきが開く。
揺らぐ光の縁から飛び出した一本の短剣が、這う男の頭を地に縫いとめた。悲鳴すら出ない。肉と骨の砕ける音だけが、湿っぽく響いた。
倉庫の梁の上に、いつの間にか男が立っていた。
黄金の鎧。夜そのものを見下すような赤い瞳。立っているだけで、場の全員が本来取るべき姿勢――平伏を、当然のものとして要求する気配。
「喧しい雑種だ。耳障りな断末魔まで我に始末をさせるか」
男は死骸に視線すら落とさず、陣の中央の異形だけを見た。
「さて。猿真似にしては派手だな。聖杯に泥を啜らせ、そこから這い出たか。見るに堪えん醜悪さだ」
異形――両面宿儺は、ゆるく顎を上げた。
「ほう」
それだけで、温度が一段下がる。
「随分と光るな。見世物か?」
「見世物は貴様だ、雑種」
男は笑った。笑みはある。愉快そうでもある。だがその実、愉快なのは相手そのものではなく、相手を裁く自分の立場に対してだった。
「名乗る栄誉すら惜しいが、特別に教えてやろう。我はギルガメッシュ。王の中の王だ。貴様のような出来損ないが、立ったまま声を発してよい相手ではない」
宿儺の口元が、初めてほんの少しだけ深く歪んだ。
「王、か」
乾いた笑いが、倉庫中の鉄骨をかすかに震わせる。
「面白い。こっちにもいたか。口だけは立派な奴が」
ギルガメッシュの目が細まる。
その変化はわずかだった。だがわずかで十分だった。周囲の空気が、たちまち刃物じみた緊張を帯びる。
「口だけ、だと?」
「違うか?」
宿儺は足下の死骸をつま先で転がした。
「自分で殺さず、道具を飛ばし、人間の残飯に名乗らせる。王を騙るには軽い」
「……成程」
ギルガメッシュは、今度ははっきり笑った。
「吠えるな、呪い風情。貴様のようなものは、せいぜい人の闇に巣食う寄生虫だ。王とは、地を治め、天を見上げる全てを所有する者のことを言う。この街も、その命も、その欲も、我が手の内だ。貴様はただの侵入者だよ」
宿儺の四つの目が、わずかに細くなる。
そこではじめて、彼は相手を“景色”から外した。
「所有?」
その声音に混じったのは、侮蔑より先に、純粋な不快だった。
「虫が巣の土を自分のものだと思っているらしい」
「不敬だな」
「命令するな」
一拍。
次の瞬間、ギルガメッシュの背後に三つ、金の波紋が開いた。
槍、剣、斧槍。
どれも名を持つに足る重みを宿したまま、躊躇なく射出される。牽制ですらない。ただ“立ったまま喋った罰”を与えるためだけの、雑な処刑だった。
宿儺は動いた。
右へ半歩。
一振り目の槍が頬をかすめる。二振り目の剣が胴を薙ぎに来る、その軌道に合わせるように、宿儺の指先がほんの僅かに動く。
何も見えなかった。
だが、剣は途中で二つに割れた。
鉄ではない、名のある武装が、まるで紙のように。
割れた刃の向こう、背後のコンテナ群がまとめて斜めにずれ、鈍い音を立てて崩れる。遅れて、切断面から火花が噴いた。
ギルガメッシュの眉が、ごく僅かに動いた。
三振り目の斧槍は、宿儺が肘で弾いた。金属音が倉庫街に甲高く鳴り、跳ね返った武器が地面に突き立つ。石畳が陥没した。
宿儺は自分の頬を親指で拭った。浅く裂け、血が一筋だけ付いている。
それを見て、彼は笑った。
「なるほど。玩具にしては、噛む」
ギルガメッシュはその血を見下ろし、逆に興が乗ったように口端を上げた。
「見えぬ刃か。風でも魔術でもないな。術式の類か、あるいは権能の劣化品か。面妖ではある」
「今ので全部わかった気になるなよ、金ピカ」
「貴様もな」
二人の声は重なり、同時に止んだ。
互いに、相手の“雑さ”が本質ではないと理解したからだ。
宿儺は見た。門のように開く黄金の亀裂。その向こうに、ただ武器があるだけではないことを。一本ごとに癖が違う。形だけではない。重みの在り方が違う。斬れば済むものと、触れたくないものがある。
ギルガメッシュも見た。斬撃は飛んでいない。走っているのでもない。結果だけが置かれるように現れる。目で追う種類ではない。ならば、見てから避ける戦いではなく、撃たせぬ位置取りか、当てても構わぬ盤面に持ち込むべき相手だと。
倉庫の外で、潮風が吹き抜ける。
その風に乗って、遠くの街の灯りが瞬く。人がいる。眠っている。知らないまま、今まさに二つの災厄に天秤を掛けられようとしていた。
宿儺が、外の街を一瞥した。
「この辺り、人間が多いな」
「だからどうした」
「退屈しのぎには困らんと思ってな」
その一言で、ギルガメッシュの目から笑みが消えた。
完全に、消えた。
「雑種」
声の高さは変わらない。だがそこに混じった温度が、先ほどまでとは別物だった。
「我が庭を荒らすつもりか」
宿儺は答えない。ただ、口の端だけで笑う。
肯定としては十分だった。
金の波紋が、一つではなく、十、二十、三十と夜空に咲く。
倉庫の壁、天井、外の路地、その全てを囲むように展開した門の群れは、もはや武器庫ではない。処刑場そのものだった。
それを見上げて、宿儺は楽しげに息を吐いた。
「ようやくか」
「勘違いするな」
ギルガメッシュはゆっくりと腕を上げた。
「これは遊戯ではない。貴様のような不快な塵を、ここで処分するだけだ」
宿儺の足下の影が、ぬるりと揺れた。裂けた口がもう一つ、腹の下で笑ったようにも見える。
「言ってみろ。死ぬ前に聞いてやる」
その瞬間だった。
金の門の一つから、武器ではなく鎖が放たれる。
速い、では足りない。認識の外から結果だけが巻きつくように、黄金の鎖が宿儺の右腕へ絡みついた。
初めて、宿儺の目がわずかに見開かれる。
そして次の瞬間、彼は心底嬉しそうに笑った。
「――いいな、お前」
夜空を埋める宝具の群れが、一斉にその切っ先を傾けた。