カーストルーム・オブ・ザ・デッド   作:戦竜

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第1話 感染

2年Bクラス。

そこには、つい数分前まで、いつもと何一つ変わらない朝があった。

 

高度育成高等学校という場所は、

その特異な制度とは裏腹に、日常そのものは案外と平穏だ。

もちろん、特別試験ともなれば話は別である。

生徒たちは競い合い、蹴落とし合い、ときには友情さえ試される。

勝者と敗者が生まれ、退学という容赦のない結末が

現実のものとして突きつけられることもある。

 

だが、そうした極端な非日常は、常にそこにあるわけではない。

試験と試験のあいだに流れる時間は、拍子抜けするほど普通だ。

 

授業を受ける。

ノートを取る。

昼休みに軽口を叩く。

放課後になれば部活やケヤキモールへ向かう。

そんな学生らしい、ありふれた反復が、今日もまた続いていくはずだった。

 

少なくとも、誰もがそう思っていた。

 

教壇に立つ茶柱佐枝は、いつも通り淡々と日本史の授業を進めていた。

感情をほとんど乗せない抑揚の乏しい声。

マジックがホワイトボードを走る乾いた音。

教室のあちこちでペン先が紙を擦る微かな気配。

窓の外には、穏やかな日差しに照らされた校庭。

空調の音さえも、今日はやけに規則正しく聞こえる。

 

まるで、世界が秩序そのものに包まれているかのようだった。

 

綾小路清隆も、その秩序の一部として席についていた。

ノートには板書を丁寧に書き写している。字体にも崩れはない。

姿勢も、視線の置き方も、模範的な生徒そのものだ。

 

ただし、頭の中まではそうではなかった。

 

――退屈だな。

 

板書の内容自体は、彼にとって新鮮味のあるものではない。

幼少期の段階で既に処理済みの知識に過ぎず、

今さら興味を引かれるような情報ではなかった。

とはいえ、だからといって授業を無視する理由もない。

目立たず、周囲に合わせ、凡庸な生徒としてそこにいる。

それが綾小路の基本姿勢だ。

 

だから今日も、彼は適度に真面目な顔をしてノートを埋めていた。

 

教室の空気は静かだった。

須藤は大人しく前を向き、平田は相変わらず整った字でノートを取っている。

堀北は真面目そのものの表情でホワイトボードを見つめ、

高円寺は椅子に深く腰掛けながらも妙に様になっていた。

軽井沢は授業中だけは猫を被ることに成功しているらしく、

隣の様子を時折気にしながらも一応は板書に目を向けている。

 

その、均衡だった。

 

最初に異変に気づいた者がいたとしても、

それを「異変」と認識するまでには、ほんのわずかな遅れがあっただろう。

 

佐藤麻耶の呼吸が、少しだけ荒くなっていた。

 

それは、はじめは誰も気に留めない程度のものだった。

体調不良か、単なる息苦しさか。教室には40人近くの生徒がいる。

誰か一人の呼吸の変化など、授業中にいちいち意識されるものではない。

 

だが、それが数十秒と経たないうちに、無視できないものへと変わっていく。

 

ひゅう、ひゅう、と。

喉の奥が詰まったような、乾いた音。

まるで空気の取り込み方そのものを忘れたかのような、不自然でぎこちない呼吸。

 

隣の席にいた長谷部波瑠加が、さすがにおかしいと思ったのだろう。

彼女はわずかに顔を寄せ、小さな声で囁いた。

 

「……佐藤さん?大丈夫?」

 

本来なら授業中の私語は慎むべきだ。

だが、この状況でそれを責める者はいないだろう。

茶柱とて、生徒の体調不良を咎めるほど非情ではない……少なくとも、形式上は。

 

長谷部の声に反応したのか、佐藤がゆっくりと振り向いた。

 

その瞬間だった。

 

長谷部の顔から、表情という表情が消えた。

 

彼女が見たのは、いつもの佐藤麻耶ではなかった。

肌は不自然なほど青白く、血の気というものが根こそぎ失われている。

焦点の合わない眼は濁り、黒目の動きにも人間らしい意思がない。

唇は乾いて半ば開き、そこから垂れる唾液が糸を引いていた。

喉の奥から漏れているのは、言葉にもならない低いうめき声――。

 

「あ……」

 

長谷部の口から漏れたのは、意味を成さない息だけだった。

 

理解が追いつくより早く、佐藤の身体が跳ねた。

 

椅子を軋ませ、机を押しのける勢いで前へ飛び出し、

そのまま長谷部へと覆いかぶさる。

あまりにも唐突で、あまりにも人間離れした動きだった。

長谷部は反射的に両手を上げたが、間に合わない。

体勢を崩したまま椅子ごと後ろへ倒れ込み、教科書とノートが床に散らばった。

 

次の瞬間、教室に悲鳴が響いた。

 

「きゃ……っ!?」

「な、なに……!?」

「おい、どうした!?」

 

誰も、何が起きたのか理解できていない。

ただ一つ確かなのは、佐藤が普通ではないということだけだ。

 

長谷部は必死に抵抗しようとしていた。

両腕で押し返し、脚をばたつかせ、助けを求めるように声を上げる。

だが佐藤は怯まない。異様な力で組み伏せ、

そのまま首元へ顔を埋めるように食らいついた。

 

教室の空気が、そこで完全に壊れた。

 

悲鳴が重なる。

椅子が倒れる。

誰かが後ずさりし、別の誰かにぶつかり、机と机が乱雑にずれる。

みーちゃんが青ざめた顔で口元を押さえ、

三宅が立ち上がりかけたまま固まり、

松下が言葉を失っている。

軽井沢は信じられないものを見るように目を見開き、

池と篠原と本堂は何が起きたのか分からぬまま

混乱の中で距離を取ろうとしていた。

 

堀北鈴音でさえ、すぐには動けなかった。

冷静さを身上とする彼女の瞳にも、明白な動揺が宿っている。

平田洋介もまた、教室をまとめようと口を開こうとするが、

目の前の現実があまりにも現実離れしすぎていて、言葉が一瞬遅れる。

 

教壇の茶柱も、さすがに凍りついていた。

教師として、学校生活における多くのトラブルを見てきたはずだ。

喧嘩、揉め事、試験に関する衝突。

だが、生徒が生徒に獣のように襲いかかる光景など想定の外に決まっている。

 

教室の中心だけが、異様な静けさに包まれていた。

いや、静かではない。悲鳴も物音もある。

それでも、その一点だけは別の空間のように、現実感から切り離されて見えた。

 

綾小路は、それを見ていた。

 

無表情に。

だが、無関心ではなく。

 

この状況がどれほど異常であるかは理解している。

常識的な暴力ではない。発作でも、錯乱でも、説明がつかない。

人間の理性や痛覚や躊躇といったものが、一切抜け落ちた動き。

しかも力が異様だ。長谷部が抵抗しても、佐藤の身体は止まらない。

細身の女子生徒とは思えないほどの執着と出力がある。

 

――感染か。

 

その単語が、綾小路の頭の片隅で形を持ち始める。

もちろん断定はできない。だが、少なくとも「普通の体調不良」などではない。

 

長谷部の悲鳴が、次第に弱くなっていく。

その現実が、ようやく須藤健の身体を動かした。

 

「ふざけんなッ!」

 

怒号とともに、須藤が前へ出る。

考えるより先に身体が反応したのだろう。

彼はもともと、こういうときに頭より拳が先に出る男だ。

良くも悪くも単純で、

目の前でクラスメイトが危険な目に遭っているのを見過ごせない。

 

須藤は佐藤の肩を強引に掴み、長谷部から引き剥がそうとした。

 

だが、そこで彼の顔色が変わった。

 

「なっ……!?」

 

重い。

いや、それ以上だ。

佐藤の身体は華奢な女子のそれのはずなのに、

まるで床に食い込んでいるかのようにびくともしない。

力任せにはがそうとしても、異常な筋力で抵抗される。

 

次の瞬間、佐藤が振り向いた。

 

その瞳に意思はない。

にもかかわらず、獲物を見定めるような鋭さだけがある。

 

佐藤は須藤へ向かって腕を伸ばした。

爪を立て、噛みつこうとする。

須藤はとっさに身を引いたが、制服の袖を掠められ、布地が裂ける。

 

「チッ……!なんだよこいつ!」

 

さすがの須藤も、その一撃で理解したはずだ。

これは喧嘩ではない。理屈の通じる相手ではない。

 

そこで堀北がようやく我に返った。

 

「みんな、佐藤さんから離れなさい!近づいちゃ駄目よ!」

 

鋭い声が教室を打つ。

命令口調は普段と変わらない。

だが、声の奥には緊張が滲んでいた。

 

「落ち着いて!出口の近い人から順番に――」

 

平田も続く。

彼は恐怖に飲まれそうになっている空気を必死に繋ぎ止めようとしていた。

パニックの中では指示の有無が生死を分ける。少なくとも彼はそう知っている。

 

「押さないで!転ぶから!女子を先に――」

 

だが、理性は簡単に崩れる。

 

悲鳴を上げながら教室の後方へ逃げようとする者。

出入口に殺到しそうになる者。

足がすくんで動けない者。

教室という限られた空間の中で、

恐怖は目に見えない火のように一気に広がっていく。

 

茶柱は教壇を降りた。

その顔色は悪い。

だが、教師として行動しなければならないと自分に言い聞かせたのだろう。

 

「……緊急事態だ。全員、廊下へ――!」

 

言い終える前に、彼女は自ら教室の外へ飛び出した。

そして廊下に備え付けられていた火災報知器へ向かい、

ためらいなくカバーを叩き割る。

 

けたたましい警報音が、校舎中に鳴り響いた。

 

耳障りなその音が、事態の現実味をいやでも増幅させる。

隣のクラスの扉が開き、星之宮知恵や坂上数馬が顔を出す。

何事かと廊下へ出てきた他クラスの生徒たちも、ざわつき始める。

 

「茶柱先生!?何が……」

「どうしたんですか、火事ですか!?」

 

星之宮が問いかける。

だが茶柱は、即答できなかった。

 

生徒が突然、人を襲った。

しかも噛みつき、正気を失っている。

そんな説明を、教師である自分が口にして、

果たして誰がまともに受け取るだろうか。

自分自身でさえ、まだ完全には飲み込めていないのだ。

 

「2年Bクラスで……生徒が……いや、そんな――」

 

言葉が続かない。

 

一方、教室の中ではなおも事態が進行していた。

 

長谷部から引き離されかけた佐藤は、

次の獲物を探すようにぎこちなく首を巡らせる。

その動きはどこか壊れた人形のようでありながら、

標的へ向けて跳ぶ瞬間だけは異様に速い。

 

彼女の視線が、堀北に止まった。

 

距離は数メートル。

堀北は一瞬でそれを察し、足を引き、体勢を整える。

武術の心得がある彼女は、少なくとも無抵抗に噛まれるつもりはない。

両手を上げ、重心を落とす。相手の突進をいなして転倒させる、そのための準備。

 

だが、それより速く動いた者がいた。

 

綾小路だった。

 

床を蹴る音さえ小さい。

気づいたときには、彼は堀北と佐藤のあいだに割って入っていた。

 

佐藤の腕が伸びる。

綾小路はそれを正面から受け止めない。

半歩ずらし、力の向きを逸らし、その勢いのまま体勢を崩させる。

動きは簡潔で、無駄がない。暴走した力は制御を失い、

佐藤の身体は床へ叩きつけられる形になった。

 

周囲の生徒が息を呑む。

 

だが綾小路は、そこで止まらなかった。

 

躊躇がない。

迷いがない。

この相手を「制圧」ではなく「排除」すべき対象と判断した、

その結論だけが動作に現れていた。

 

床に倒れた佐藤がなおも起き上がろうとする。

人間なら、あれだけ強く打ちつけられれば一瞬は動きが鈍る。

だが彼女にはそれがない。痛みも、恐怖も、理性もない。

 

だから綾小路は一切の遠慮なく踏み込んだ。

佐藤の頭部を足で踏み潰したのだ。

 

鈍い衝撃音。

それだけで、教室は凍りついた。

 

何が起きたかを、全員が正確に見たわけではない。

ただ、もう佐藤麻耶が起き上がることはない。

それだけは誰にでも分かった。

 

「…………」

 

誰も声を出せなかった。

 

松下が震え、みーちゃんは顔を逸らしてしまう。

軽井沢は息を呑んだまま固まり、池は青ざめた顔で後退る。

高円寺ですら、その口元からいつもの芝居がかった余裕を消していた。

平田は言葉を失い、堀北は綾小路を見つめたまましばし動けない。

 

彼らが恐れていたのは、佐藤の異常だけではない。

その異常に対し、一切の迷いなく最適解を実行した

綾小路清隆の在り方もまた、別種の冷たさを帯びていたからだ。

 

綾小路は無表情のまま、倒れた佐藤から視線を外した。

呼吸も乱れていない。

手足の震えもない。

まるで、必要な処理を一つ終えただけであるかのように。

 

「綾小路くん……」

 

堀北が、かすれた声でその名を呼ぶ。

 

だが彼は答えなかった。

答えるべきことが多すぎる状況で、今は何一つ確かなことがないからだ。

 

代わりに、綾小路は教室全体を見回した。

 

長谷部は倒れている。

生きているのか、もう駄目なのか、ぱっと見では判断しづらい。

周囲には恐慌状態の生徒。出口付近に集まりかけている者たち。

腰を抜かしている者。泣き始めている者。指示を飛ばそうとしている堀北と平田。

廊下では教師たちがまだ状況を把握し切れていない。

 

そして何より。

火災報知器が鳴っているのに、校内放送は一向に避難誘導を始めない。

 

それが妙だった。

 

この学校は管理体制だけで言えば異常なほど整っている。

何かトラブルが起これば、監視カメラや教職員のネットワークが即座に機能するはずだ。

にもかかわらず、今この瞬間、対応の初動が妙に鈍い。

 

嫌な予感がした。

 

すると、廊下の方から別の悲鳴が上がった。

 

「うわぁぁぁぁっ!?」

「と、時任くん!?何して――!!」

 

クラスの空気がさらに張り詰める。

茶柱も星之宮も真嶋も坂上も、一斉にそちらへ顔を向けた。

教室内の生徒たちも、恐る恐る視線を動かす。

 

そこに見えたのは、隣のクラスの生徒が、

倒れた別の生徒に馬乗りになっている姿だった。

 

遠目でも分かる。

動きがおかしい。

押さえつけているのではない。

襲っているのだ。

 

「……嘘でしょ」

 

松下が呟いた。

 

誰か一人の発狂ではない。

誰か一人の異常ではない。

 

同時多発的に、校舎のあちこちで何かが起きている。

 

その認識が共有された瞬間、2年Bクラスの教室から一斉に音が失われた。

悲鳴さえ引っ込んだ。恐怖が一定量を超えると、人間はむしろ黙る。

 

それを破ったのは高円寺だった。

 

「フム。どうやらこれは、なかなか退屈しない余興のようだねぇ」

 

普段なら癇に障るだけのその言葉も、今は不思議と誰も反論しなかった。

余裕を装っているのか、本当に平然としているのかは分からない。

だが少なくとも、彼は恐怖に呑まれてはいない。

 

須藤が舌打ちしながら言う。

 

「余興で済むかよ……!クソ、何なんだよこれ!」

「騒いでも仕方ないわ」

 

堀北が即座に切り返す。

 

「まず状況を整理する。あれは……明らかに普通じゃない。

理性を失って、人に噛みつく。しかも力が異常に強い。

断定はできないけれど、感染症の可能性が高いわ」

「そんなこと聞いたこともねぇけど……」

「実際にインフルエンザなどのウイルスに感染した患者に薬剤を投与したところ、

傷害、殺人、自殺などの異常行動を起こした症例も世界にいくつか報告があるわ」

「佐藤さんもそれに近い症状だと?」

 

平田が低く問う。

 

「堀北の言うように可能性はある」

 

綾小路が初めて口を開いた。

その声は妙に静かで、逆に教室の全員の耳に届いた。

 

「少なくとも、同じ症状が複数箇所で発生しているなら、偶発的な事件じゃない。

原因は一つじゃなく、広がっていると見た方がいい」

「清隆……広がってるって……何が?」

 

軽井沢の声が震える。

 

綾小路は数秒、答えなかった。

不用意な単語はさらなる混乱を招く。

だが、すでに現実は言葉を選んでいる段階ではない。

 

「……噛まれたら危険だ。ああいう状態になる可能性がある」

 

その一言で、全員の視線が長谷部へ向いた。

 

倒れたままの彼女は、微かに痙攣していた。

まだ意識があるのかもしれない。助かるかもしれない。

そう思いたい気持ちは誰の中にもあった。

 

だが、彼女の指先が不自然に動き、

喉の奥からかすかなうめきが漏れた瞬間、

その希望は音を立てて揺らぎ始める。

 

「そんな……」

 

みーちゃんが涙声になる。

 

「長谷部さんまで、そんなこと……」

「一旦ここを出るぞ」

 

綾小路ははっきりと言った。

 

「教室は狭すぎる。入口も一つ。

もしここでまた変異した相手が出たら、逃げ場がなくなる」

「でも廊下も安全じゃないわ」

 

堀北が言う。

 

「さっきの様子だと、隣のクラスでも発生してる」

「だったらなおさら留まるのは悪手だ」

 

綾小路は即答した。

 

「ここに籠もっても救助が来る保証はない。

まずは状況確認と、安全な場所の確保が必要だ」

 

平田がすぐに乗った。

 

「みんな聞いて欲しい!一人で勝手に走らないで!まとまって動こう!

足の速い男子は後ろを警戒、女子は真ん中に!」

 

その指示は完全ではない。

だが、何もないよりは遥かにいい。

パニックの中で「誰かが仕切っている」という事実だけでも、人は動ける。

 

茶柱もようやく教師としての顔を取り戻しつつあった。

 

「……校内放送がない以上、職員室か放送室に異常が起きている可能性もある。

まずは廊下の安全を確認し、他クラスの教員とも合流する」

 

そこで、本堂が半泣きで言った。

 

「で、でもよ……もし学校中こんなんだったらどうすんだよ!?

外に逃げればいいだろ!?」

 

誰もが一瞬、それに希望を見た。

外へ出る。校門を抜ける。警察を呼ぶ。救急車を呼ぶ。

当たり前の避難行動だ。

 

だが綾小路は、その希望すら楽観できないと感じていた。

 

この学校は、普通の学校ではない。

閉鎖性が高く、管理も厳重だ。

もしこの事態が校内限定ではなく、

何者かの意図によるものだとしたら――外に出れば終わり、

などという単純な話で済むだろうか。

 

嫌な推測が、頭の底に沈んでいく。

 

しかし今は、それを言葉にする段階ではない。

 

「まず移動だ」

 

綾小路は短く告げた。

 

「考えるのは、そのあとでいい」

 

そのときだった。

 

倒れていた長谷部の身体が、びくりと大きく跳ねた。

 

教室の空気が再び凍る。

 

彼女はゆっくりと、あまりにもゆっくりと上体を起こした。

髪が顔にかかり、表情は見えにくい。

だが、その首の角度、その動きの鈍さ、その息遣いだけで十分だった。

 

もう、元の長谷部ではない。

 

誰かが短く悲鳴を漏らした。

軽井沢が堀北の腕を掴む。

松下はその場にへたり込みそうになり、三宅が咄嗟に支える。

 

長谷部は立ち上がるでもなく、四つん這いに近い体勢で顔を上げた。

その眼に宿るのは、苦痛でも理性でもなく、空虚な飢えだけだった。

 

教室の中に、絶望に近い沈黙が落ちる。

 

これで確定した。

噛まれた者は、変わる。

 

感染は、本当に起きている。

 

綾小路は、静かに呼吸を整えた。

 

これはもはや、一つの教室で起きた異常事件ではない。

学校全体を呑み込む災厄の、ほんの入口に過ぎない。

 

教員も、生徒も、クラスも、ポイントも、序列も。

それらすべての上にあった「高度育成高等学校」という秩序そのものが、

今まさに崩壊を始めている。

 

そして彼は直感する。

 

この悪夢は、偶然なんかじゃない。

 

この学校のどこか深い場所に、最初から埋め込まれていたものがある。

見えないまま、隠されたまま、

ずっと息を潜めていた何かが、ついに牙を剥いたのだと。

 

綾小路清隆は、騒然とする教室の中でただ一人、視線を窓の外へ向けた。

 

穏やかな青空は、何一つ変わっていない。

校庭も、木々も、遠くの校舎も、朝と同じように静かだった。

 

だからこそ不気味だった。

 

世界はこんなにも平然としているのに、日常だけが中身から腐り落ちていく。

 

その対比の中で、綾小路ははっきりと理解した。

 

今日という日は、2年Bクラスの誰にとっても、

そしてこの学校そのものにとっても、決定的な境界線になる。

 

ここから先は、もう元の日常には戻れない。

 

生き残る者と、そうでない者。

人間のままでいられる者と、そうでなくなる者。

その線引きが、今この瞬間から始まったのだ。

 

火災報知器の耳障りな警告音は、まだ止まらない。

 

まるで校舎全体が、遅すぎる警告を上げ続けているかのようだった。




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