高円寺グループと合流した茶柱佐枝、星之宮知恵の二人は、
ほんの一瞬だけ張り詰めていた神経を緩めたあと、すぐに表情を引き締め直した。
安堵している時間はない。
むしろ、ここからが本当の意味での分岐点だった。
自分たちが理事長室で聞かされた情報。
月城が語った狂気の試験の概要。
綾小路清隆という一人の生徒を巡って、
学校全体が戦場へ変えられているという事実。
体育館の危機管理用備品庫。
ブラックルームへ繋がる地下施設。
そして、自分たち教師に課せられた役割。
そのどれもが、この場にいる生徒たちへ共有しなければならない内容だった。
だが、ただ説明すればいいというものではない。
いまの彼らは極限状態にある。
小野寺かや乃を失った直後であり、
水没エリアの潜行戦を辛うじて切り抜けたばかりだ。
身体も疲弊している。
精神も摩耗している。
そこへ理解不能な情報を雑に投げつければ、
思考停止か混乱を呼ぶだけになる。
だから茶柱は、できる限り簡潔に、
だが要点だけは一切ぼかさず伝える必要があると判断した。
「よく聞け」
その一言で、場の空気が変わる。
須藤も、石崎も、伊吹も、さっきまでの荒っぽい感情を一旦横へ置く。
平田と一之瀬と櫛田は、言葉を聞き漏らさないように視線を向ける。
アルベルトは無言のまま立ち、ただ高円寺だけがいつものような余裕を崩さず、
しかし明らかに関心を持って茶柱を見ていた。
星之宮もまた、茶柱の横に並ぶ。
表情は疲れている。
目の奥に、坂上と真嶋を失った直後の衝撃がまだ色濃く残っている。
それでも彼女は教師として立っていた。
いま自分たちが崩れるわけにはいかないことを理解しているからだ。
茶柱は、一度だけ短く息を吸ってから言った。
「今回の一件は、偶発的に起きた災害じゃない」
その出だしだけで、生徒たちの目の色が変わる。
やはりそうか、と感じた者。
そこまで言い切るのか、と息を呑んだ者。
反応はそれぞれだった。
「これは、月城理事長代理が主導する特別試験だ」
沈黙が落ちる。
特別試験。
この学校の生徒にとって、その単語は日常の延長線上にある。
常に何かしらの試験があり、ルールがあり、勝敗があり、退学の危険がある。
高度育成高等学校とはそういう場所だ。
だが今、茶柱が口にした特別試験は、
彼らがこれまで知っていたものとは意味が違った。
「試験、だと?」
須藤が低く言う。
信じがたい、という顔だった。
無理もない。
目の前で仲間が死んだ。
ゾンビに襲われた。
水中で化け物と戦った。
その全部が、試験。
そんな理屈を、感情が受け入れられるはずがない。
茶柱は、その反応を無視しなかった。
だが、そこへ付き合いすぎることもしない。
「月城はそう説明した。デッドエスケープ特別試験――
命がけでこの学校から脱出することが、今回の試験内容だと」
今度は、誰もすぐには口を挟めなかった。
言葉そのものは理解できる。
だが、その内容が異常すぎる。
この学校から脱出する。
それは、この学校の大前提そのものを否定する話だった。
高度育成高等学校は、三年間を閉鎖空間で過ごすことに意味がある。
外界から切り離されるからこそ、この学校独自の選別と育成が成立している。
生徒たちもまた、その特殊性を当然のものとして受け入れてきた。
それなのに、脱出。
しかも、命がけで。
「そんな……」
櫛田が、かすれた声で呟く。
その顔には、驚愕と恐怖と、理解の拒絶が同時に浮かんでいた。
一之瀬は言葉を失っていた。
松下は無言で話を聞いている。
平田も、いつもなら状況を整理して言葉を返すところだが、
いまはただ茶柱の続きを待つしかない。
星之宮が、その沈黙を引き継ぐように口を開いた。
「それだけじゃないの」
彼女は一人ひとりの顔を見ながら、慎重に言葉を選んだ。
「この試験は、綾小路清隆という個人を退学に追い込むための意味も持っている」
空気が、さらに重くなる。
綾小路清隆。
その名前が出た瞬間、反応ははっきりと分かれた。
櫛田、一之瀬、平田は明らかに戸惑った。
彼らにとって綾小路は、確かに只者ではない部分を見せてきた生徒ではある。
だが、それでも学校全体を巻き込んだ試験の
中心に置かれる存在だとまでは認識していない。
一方で、高円寺、須藤、松下、伊吹、石崎、アルベルトは、
どこか腑に落ちたような顔をしていた。
完全に納得したわけではない。
だが、あいつならそういう扱いをされても不思議じゃないと
思えてしまうだけの片鱗を、すでに何度も見ているのだ。
綾小路清隆は、普通ではない。
その認識が、このメンバーには共有され始めている。
須藤が、腕を組みながら眉をしかめる。
「……あいつのために、ここまでやるってのかよ」
「正確には」
茶柱が訂正する。
「あいつ一人のために、というより、
あいつを外へ出すために学校全体を使っている、と言ったほうが近い」
そこが、この構造の最も狂っている部分だった。
退学に追い込む。
だが、死なせてしまっては意味がない。
だからこそ、教師に鍵を託し、生き残った生徒たちへ合流させ、脱出まで導かせる。
綾小路を確実に生きたまま学校の外へ出す。
それが月城の、そしておそらくはその背後にいる何者かの意図なのだと、
茶柱は理事長室で理解させられた。
「私たち教師に課せられた役目は」
茶柱は手の中のカードキーを見せた。
「生き残った生徒を導いて、
この二枚のカードキーを必要な場所へ届け、最終的に学校の外まで脱出させること」
体育館の危機管理用備品庫。
地下施設への鍵。
月城から押しつけられ、真嶋が死の間際に託し直した二枚のカードキー。
それはこの学校の最後の攻略手段であり、
同時に教師たちが背負わされた役割の象徴でもあった。
説明が終わる。
その場には、短くない沈黙が流れた。
誰もすぐには動かない。
言葉も出ない。
理解が追いつかないのではない。
追いついたからこそ、その意味の重さに押し潰されかけているのだ。
高度育成高等学校の生活が終わる。
その可能性を、いま初めてはっきりと言語化された。
この災厄が収まれば、またどこか別の校舎で学校生活が続くのではないか。
この建物が壊れても、制度は残るのではないか。
何だかんだで、この学校という枠組み自体は生き残り、
自分たちはまたそこへ戻るのではないか。
そんな希望とも諦めともつかない考えを、皆どこかで持っていた。
いや、持っていたかったのかもしれない。
どれだけ地獄になっても、
それでも学校生活が続いていくという前提があるなら、
まだ日常へ繋がる道を信じられる。
青春が完全に終わるわけではないと、そう思える。
それは奇しくも、綾小路清隆が学校生活というものへ執着し、
退学を拒み続けてきた意思と、どこかで重なっている。
この学校での時間。
クラスでの関係。
競争と衝突と成長。
それはただの管理された試験環境ではなく、
いつの間にか青春と呼べるものになっていた。
だからこそ。
その終わりを告げられることは、
生徒たちにとって単なる避難命令以上の意味を持った。
松下が最初に、静かに息を吐いた。
「……そういうこと。綾小路くんは常識を覆す存在ってことだね」
その声には、諦めと、納得と、痛みが混じっていた。
「つまり、もう戻る前提じゃないんですね」
「ああ」
茶柱は短く答える。
「少なくとも、月城はそういうつもりではない」
一之瀬が目を伏せる。
彼女はこれまでずっと、できるだけ多くの人を守る側であろうとしてきた。
皆で助かる方法を探し、誰か一人を切り捨てる発想を最後まで拒んできた。
そんな彼女にとって、学校生活の終わりという言葉は、
命の危機とは別の痛みを持っていたはずだ。
櫛田もまた、黙っていた。
彼女にとって学校は、表の顔を保ち続ける舞台でもあり、同時に居場所でもあった。
その舞台が崩れる。
そして自分たちは、そこから追い出されるようにして脱出しなければならない。
その事実は、彼女の中でも簡単に整理できるものではないだろう。
だが。
だからこそ、残された答えは一つしかない。
この学校を出る。
ただ出るのではない。
生きて。
できるだけ全員で。
青春を取り戻すために。
高円寺が、そんな空気の中で一歩前へ出た。
不敵な笑みを浮かべる。
あまりにもいつも通りで、あまりにも高円寺らしい顔だった。
「なるほど」
その声は、どこか楽しそうですらある。
「ならば、話は実に分かりやすいじゃないか」
彼は胸を張る。
「私は自分自身が唯一の最高にして最強の人間であると自負している」
その言葉に、須藤が眉をひそめ、
石崎が「また始まった」とでも言いたげな顔をする。
だが高円寺は構わない。
「綾小路ボーイに、私こそ実力が遥か上だと見せつける時だ」
そして、やけに大きなジェスチャーで天井のあたりを指さした。
「雲の上から見下ろすようにねぇ」
意味が分かるような、分からないような比喩だった。
だが、その傲慢さは妙に心を軽くした。
あまりにも高円寺らしい。
こんな状況になってまで、自分を巨大な存在として語ることをやめない。
だが、それが逆にまだ終わっていないという感覚を生徒たちへ与えた。
石崎が、鼻を鳴らす。
「俺だって負けてねえ!綾小路をびっくりさせてやるぜ!」
その言葉には、単なる対抗心以上のものがあった。
屋上で綾小路に翻弄され、差を見せつけられ、圧倒された。
だが今回は違う。
自分たちも生き残った。
戦ってきた。
ここまで来た。
ならば、今度こそ対等な顔をして見せたい。
アルベルトが、無言でうなずく。
その一度のうなずきだけで、石崎はそれで十分だと思えたようだった。
伊吹が腕を組み、少し苛立ったように言う。
「あいつの鼻、明かしてやるわ」
それもまた、伊吹らしい表現だった。
助けるとか、支えるとか、そんな素直な言い方はしない。
だが、向かう先は同じだ。
須藤は肩をすくめた。
「おまえらも同じ口かよ」
呆れたような口調。
けれど、その声からはさっきまでのささくれ立った反発が少しだけ抜けていた。
松下がその空気を引き継ぐように言う。
「だったら、なおさらだね」
平田の表情にも、ようやく方向が定まった人間の強さが戻っていた。
「なんとしてでも、全員で生き残ろう」
一之瀬も、今度ははっきりとうなずいた。
「うん。そうしよう」
櫛田も、明るい声を意識しながら言う。
「ここまで来たんだもん。絶対に、みんなでね」
それは単なる慰めの言葉ではない。
決意だった。
このとき、高円寺グループは初めて、本当の意味で一致団結した。
それまでは、戦力の集まりでしかなかった。
同じ方向へ進んではいても、心が同じ目標を向いているわけではなかった。
だが今は違う。
高円寺の傲慢さ。
石崎の対抗心。
伊吹の負けず嫌い。
須藤の不器用な熱さ。
平田と一之瀬の責任感。
櫛田の表面上の笑顔の奥にある焦り。
松下の状況を冷静に見極める判断力。
その全部が、ひとつの結論へ収束していた。
この学校を全員で脱出する。
そして、自分たちの時間を取り戻す。
そのために必要なのは、まず綾小路たちと合流することだった。
茶柱も、その結論へすぐに同意した。
「そうだ。いま一番必要なのは、綾小路たちのグループと情報を繋ぐこと」
体育館の危機管理用備品庫。
カードキー。
脱出の手がかり。
教師と生徒の役割。
それらを一方のグループだけが知っていても意味がない。
むしろ分断されたままでは、各個撃破される危険が高い。
「まずは放送室へ向かう」
真嶋も坂上も失ったいま、茶柱の言葉には自然と重みが生まれていた。
星之宮もすぐに補足する。
「校内放送なら、まだ届く可能性があるわ。もし設備が生きていればだけど……」
それで十分だった。
方針は決まる。
行動は早かった。
団結した直後の集団は強い。
さっきまで散漫だった空気が、いまは明確な方向性を持って前へ進み始めている。
そして、その変化は戦闘にも如実に表れた。
廊下へ出る。
ゾンビが来る。
だが、もう最初のころのようなぎこちなさはない。
高円寺が先を見て、進路を決める。
平田と松下が射線を整理する。
一之瀬が遠距離から先頭を落とす。
須藤が近づく個体をショットガンで吹き飛ばす。
伊吹と石崎が横から潰し、アルベルトが後方の押し寄せを火力で止める。
櫛田と星之宮がカバーに入り、茶柱が要所を締める。
高火力のごり押し、と言ってしまえばそれまでだ。
だが、そのごり押しがちゃんと連携として機能し始めていることが重要だった。
ゾンビは、もはやこのグループにとって絶対的な脅威ではなくなりつつあった。
もちろん油断はできない。
数が増えれば厄介だ。
不意を突かれれば危ない。
だが、勝てない相手ではない。
それが分かったことの意味は大きい。
数分後。
彼らは無事に放送室へ到達した。
放送室の扉は半開きになっていた。
中は暗い。
機材の一部はまだ電源が生きているらしく、小さなランプが点滅している。
だが、空気がおかしい。
動く影が見える。
「中にもいる」
一之瀬が小さく言う。
照準を合わせる。
放送部員だったのだろう。
生徒の一人が、椅子へもたれかかるような姿勢からこちらを振り向いた。
その隣には、顧問の教師らしき人影もいる。
どちらも、もうまともではない。
「やろう」
平田の一言で、短い制圧戦が始まった。
一之瀬の狙撃。
平田の二点バースト。
茶柱のマグナム。
狭い室内だったぶん、決着は早かった。
ゾンビと化していた放送部員と顧問教師は、その場で動きを止めた。
静けさが戻る。
モニターのノイズだけが、小さく響く。
「……だから、放送が止まってたんだ」
一之瀬が、少しだけ悲しそうに呟いた。
校内放送が途中から機能していなかった理由。
それは単純だった。
ここを使う人間が、もう使えなくなっていたのだ。
誰かが、機材の状態を確認する。
電源は生きている。
マイクも使える。
校内一斉放送もおそらく可能。
そこで、高円寺が当然のようにマイクを取った。
茶柱も星之宮も、一瞬だけ止めるか迷った。
だが結局、止めなかった。
いまこの場で最も自分の声を学校全体へ響かせることに躊躇がないのは高円寺だ。
その事実は、認めざるを得なかった。
高円寺はマイクの前に立つ。
咳払いひとつしない。
最初からこの瞬間を待っていたかのように、堂々と口を開いた。
「綾小路ボーイを含めた、生き残っている生徒諸君」
放送室のスピーカーが、その声音を学校全体へ乗せる。
「体育館に存在する危機管理用備品庫の
カードキーおよびパスワードは、我々が入手した」
実際にカードキーは茶柱が持っている。
パスワードももう一枚のカードキーに記されている。
「校内を迷走して死ぬ暇があるのならば」
その口調は、あまりにも高円寺らしい傲慢さに満ちていた。
「最強の私たちと合流しようではないか」
高々と宣言する。
まるで、自分が救済そのものであるかのような言い方だった。
放送が切れる。
数秒の沈黙。
そして、その場にいた全員が、ほとんど同時にやれやれとため息をついた。
「最後までああなんだね……」
松下が額を押さえる。
「まあ、高円寺だしな……」
須藤が半分呆れ、半分納得したように言う。
「でも、分かりやすい」
一之瀬が苦笑する。
「生きてるってことは、ちゃんと伝わるし」
それはそうだった。
高円寺の言葉は傲慢で、自己中心的で、少しも謙虚ではない。
だが、そのぶん妙な力がある。
少なくとも、放送を聞いた綾小路たちが高円寺グループは無事で、
しかも体育館の備品庫へ辿り着ける可能性が高いと理解するには十分な内容だった。
◯
そして、そのころ。
綾小路たちのグループでも、放送は確かに届いていた。
職員棟へ向かう途中。
破損した掲示板と割れた窓ガラスのある廊下。
そこへ流れ込んできた高円寺の声を、堀北鈴音が真っ先に拾う。
「みんな、聞いたわね!?」
その確認の声には、わずかな興奮が混じっていた。
生存者がいる。
しかも、別行動を取っていた高円寺たちだ。
それだけで情報の価値は大きい。
坂柳有栖が優雅に髪を揺らしながら、すぐに言う。
「当然です」
その口元には、ごく薄い笑みすら浮かんでいた。
状況が最悪であっても、他グループの生存と合流可能性は
盤面における大きなプラス材料だと理解しているのだろう。
橋本正義が呆れたように肩をすくめる。
「高円寺らしいな……」
本心そのままの感想だった。
椎名ひよりは、そのやり取りを見ながら小さく微笑む。
「みんなで行きましょう」
柔らかい声。
だが、その一言には大きな意味があった。
分断されたままではなく、再び合流できるかもしれない。
それだけで、人の心は確かに軽くなる。
軽井沢恵が、しかしそこで視線を前へ向ける。
「でも、まずはその前に……」
彼女の言葉に、全員の意識が一斉に前方へ戻る。
そこに立っていたのは――
トレンチコートを脱ぎ捨て、リミッターが解除された灰色の怪物。
さっきまでの個体とは圧が違う。
皮膚は灰色というより、
もはや生体組織と人工物の中間のような質感を帯びている。
異様に発達した筋肉。
肥大した両腕の鉤爪。
破壊のためだけに設計されたような体躯。
白目を剥いた顔には、もはや人間だった面影すら薄い。
スーパータイラント。
その存在が、彼らの進路を完全に塞いでいた。
龍園翔が、不敵に笑う。
「まずは、こいつをぶっ潰してからだ」
その笑みは獰猛だった。
だが、そこには以前のような無軌道さではなく、
戦うべき敵を見据えた冷静さがあった。
「そうだろ、綾小路」
軽井沢も一歩前に出る。
震えはある。それでも、まっすぐ綾小路を見た。
「あたしたちならできるよね、清隆」
その声は小さいが、確かな意志が込められていた。
綾小路清隆は、ショットガンを握り直しながら目の前の怪物を見た。
恐怖はない。
油断もない。
ただ、勝つための条件だけを冷静に計算しているような目。
そして、短く言った。
「ああ」
それだけで十分だった。
「負けるのは想像つかない」
その言葉は、強がりではない。
事実を述べるような、あまりにも静かな断言だった。
校内放送で繋がった二つのグループ。
一方はついに一致団結し、もう一方は最強の敵を前にしてなお崩れない。
高度育成高等学校という地獄の中で、盤面は次の段階へ進みつつあった。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると助かります。