エレベーターは、驚くほど静かに降下していた。
体育館倉庫の奥に隠されていたあの大型エレベーターは、
見た目の無骨さに反して振動が少ない。
床を踏みしめる足裏に、かすかな機械の唸りが伝わってくるだけだ。
普通のビルの昇降機なら、
途中でわずかな揺れや軋みがあるものだが、これは違う。
まるで最初からこの学校の地下深くに
人を運ぶためだけに設計された専用設備のようだった。
いや、実際にそうなのだろう。
体育館の地下に、こんなものがあること自体が異常だ。
しかもその行き先は、ただの倉庫ではない。
月城が「然るべき地で待っていますよ」と言い残した場所。
ワクチンがあるかもしれない場所。
そして、この学校の裏側――ブラックルームの中枢。
密閉された箱の中で、六人はそれぞれに沈黙していた。
綾小路清隆は、壁にもたれずに立っている。
手には新たに持ち替えたベネリM3ショットガン。
視線は閉じていないが、どこか焦点を外しているようにも見える。
ただ、それが弛緩ではないことは、ここにいる誰もが分かっていた。
むしろ逆だ。
集中している。
必要な情報以外を削ぎ落とし、次に起こることへ備えている。
坂柳有栖は杖を握り、呼吸を乱していない。
橋本正義の感染を知ってなお、その表情には大きな動揺がない。
いや、動揺はあるのだろう。
ただ、それを感情として表へ出すことが、
今の彼女には無意味だと分かっているだけだ。
ワクチンを得る。
それだけが目的。
そこへ至るまでの雑音を、彼女は頭の中から排除している。
龍園翔は、疲労が蓄積した肩を一度だけ回してから、口元を歪めた。
痛みはある。
だが、それが何だという顔だ。
むしろ、痛みがあることが
この先にまだ戦いがある証のようにすら思っているのかもしれない。
堀北鈴音は視線を落とし、何度も頭の中で状況を整理していた。
地下研究所。
月城。
ワクチン。
橋本の時間。
上で待っている仲間たち。
そして、自分たち六人でどこまでやれるのか。
須藤健は拳を握り、開き、また握った。
こういう時の彼は正直だ。
不安も、焦りも、全部ある。
だがそれ以上に、目の前の仲間を助けたいという気持ちが強い。
だから立ち止まらない。
アルベルトは無言のまま、わずかに顎を引いていた。
その沈黙は、恐れではない。
戦う前の獣のような静けさだった。
この男はいつもそうだ。
多くを語らず、必要な時にだけ圧倒的な存在感を見せる。
そして、橋本。
彼はエレベーターに乗ってはいない。
上で茶柱たちとともに待機している。
だが、この箱の中にはずっと橋本の時間制限が漂っているような感覚があった。
数十分後か、もっと早いかもしれない。
いつ発症してもおかしくない。
その現実が、六人の背中を無言で押していた。
やがて、エレベーターが減速を始める。
ほんのわずかな変化だ。
だが全員の意識が一斉に鋭くなる。
龍園が顔を上げ、綾小路の指が
ショットガンのグリップを握り直し、須藤が息を止める。
電子音が一度だけ鳴る。
扉がゆっくりと左右へ開いた。
その瞬間、空気が変わった。
冷たい。
ただ冷たいだけではない。
刺すような冷気だった。
湿り気を失った冷えが、むき出しの肌へ針のように触れてくる。
地下に降りたというより、巨大な冷蔵庫か、
あるいは棺を保管する霊安室へ足を踏み入れたような温度だった。
須藤が思わず息を呑む。
「……なんだよ、ここ」
声は自然と小さくなった。
大きな声を出すこと自体が、この場に対する冒涜のように感じられたからだ。
そこは、広大な黒い一室だった。
床は黒。
壁も黒。
天井も黒。
装飾はなく、温かみもない。
病院の手術室を無限に拡張したような人工的な、
しかし白とは真逆の黒。
清潔という印象はまったくない。
むしろ逆だ。
黒すぎるからこそ、闇に隠されている異常が際立つ。
静かだった。
完全な無音ではない。
壁面を埋め尽くす無数のモニターが低い電子音を発しているし、
どこかで液体が循環するような微かな音もある。
だが、それらはすべて冷気の中に溶け込んでいて、むしろ静寂を強調していた。
青白い光が、壁一面のモニターから不規則に瞬いている。
波形。
数値。
培養データらしき文字列。
サーモグラフ。
心拍のようなもの。
ウイルス名らしきコード。
それらが意味を持って視界へ入ってくる前に、
まず異常な管理空間だという印象だけが脳へ刻み込まれる。
そして、部屋の中央。
そこにあるものを見た時、六人全員の足が止まった。
カプセルだった。
円筒形の大型培養カプセル。
それが何本も、何十本も、等間隔で林立している。
緑がかった培養液。
その向こうに、人影がある。
いや――人影と呼ぶにはあまりにも歪だ。
異様に肥大した筋肉。
不自然に湾曲した背骨。
肘や肩から骨が突き出したような個体。
皮膚の色が灰色へ変わり、目を閉じたまま浮いているもの。
片腕だけが異常に巨大化し、別の生き物のようになっているもの。
それらすべてが、生きていた。
眠っているのか、鎮静化されているのか。
完全に静止しているわけではない。
ときおり、ぴくり、と筋肉が震える。
泡が細かく上がる。
培養液の中で、指がわずかに動く個体もいた。
それを見た瞬間、誰もが理解してしまった。
ここは研究所ではない。
人間の墓場だ。
しかも、死んだ者を弔うための墓場ではなく、
加工し、保存し、再び兵器として引きずり出すための冷凍墓場。
須藤が言葉を漏らす。
「……すげぇ……」
それは感嘆ではない。
理解を拒みきれなかった人間が、
とっさに口から漏らしただけの音だった。
龍園が鼻で笑う。
「悪趣味にもほどがあるぜ」
その一言は、感想というより判決に近かった。
坂柳は、カプセル群を一瞥したあと、すぐに奥へ目を向けた。
「あれですね」
彼女の視線の先には、ひときわ大きな装置があった。
複雑に入り組んだ配管。
透明なチューブの中を流れる液体。
複数の容器の中で攪拌される薬液。
機械の脈動に合わせて点灯するランプ。
ワクチン製造プラント。
それがどういう仕組みで動くかまでは、その場の全員には分からなかった。
だが、ここで何かが作られていることだけははっきりしていた。
ウイルスという絶望に対抗するための、唯一の希望が。
坂柳は杖をつきながら、その機械へ向かう。
綾小路と堀北は、中央のカプセル群を見ていた。
綾小路が静かに言う。
「これが全部、過去にこの学校を退学していった生徒たちだ」
堀北の目がわずかに揺れた。
「……本当に、こんなものが作られていたなんて」
その声には、嫌悪と衝撃と、どこか信じたくない気持ちが混ざっていた。
退学。
高度育成高等学校における退学は、
これまで敗者が学校の外へ追い出されることだと思っていた。
だが違った。
ここへ来てしまえば、その認識はもう保てない。
退学者は消えていなかった。
行方不明になっていたわけでもない。
この地下で、こうして材料として保管されていたのだ。
その時だった。
鋭い銃声が響いた。
パンッ、と乾いた音。
綾小路の足元、床の黒いタイルが弾ける。
破片が飛ぶ。
全員が反射的に振り返る。
そこに立っていたのは三人。
八神拓也。
天沢一夏。
そして、その中央からゆったりと一歩前へ出る月城理事長代理。
八神はハンドガンを構えたまま、表情を硬くしていた。
その視線は綾小路だけを真っすぐ射抜いている。
憎悪と敵意が入り混じったような、異様な熱量を持った目だ。
天沢は逆に、いつものような軽い笑みを浮かべている。
だがその笑顔の薄皮の下に、獣のような殺気がある。
そして月城。
穏やかだった。
あまりにも穏やかだった。
その場の誰よりも静かで、落ち着いていて、
まるでここが自分の応接室であるかのような顔をしている。
綾小路、堀北、龍園、須藤、アルベルトが一斉に銃を構える。
月城はその光景を楽しむように微笑んだ。
「待っていましたよ、綾小路清隆くん」
低く、柔らかな声。
だが、その中身には一切の温度がない。
「これより最終特別試験を開始します」
須藤の眉が険しくなる。
龍園は鼻で笑い、堀北は無言のまま照準をぶらさない。
月城は続けた。
「私たちを倒し、見事この学校から脱出してみてください」
綾小路が一歩だけ前へ出る。
「本気で殺し合いをするつもりなんだな?」
問いは短い。
だが、その裏にある意味は重い。
月城は肩をすくめるようにして答える。
「もちろん、と言いたいところですが」
口元の笑みが、わずかに濃くなる。
「あなたを殺してしまっては意味がありませんので、
せいぜい瀕死にする程度にしておきましょう」
その言い方が、あまりにも自然だった。
人間を追い詰め、壊し、回収することが、
自分にとっては何でもない過程に過ぎないとでも言うように。
そして、続ける。
「あなたは優秀だ。実に惜しい人材です」
淡々とした声音。
だがそこに宿るのは、評価ではない。
資源としての価値の確認に過ぎない。
「このまま失うには、あまりにももったいない」
一歩、距離を詰める。
「ですから――別の形で、有効活用させていただきます」
その言葉の意味は、あまりにも明白だった。
退学。
社会からの抹消。
そして――回収。
人としての立場を剥奪された後、彼は実験体として扱われる。
意思も、尊厳も、未来も奪われ、ただの素材へと変えられる。
生物兵器。
それは兵士ですらない。
命令に従う存在ですらない。
ただ戦うためだけに作り替えられた、消耗品。
「あなたの肉体も、思考も、適応力も……すべてが理想的だ」
月城の目が細められる。
「ホワイトルームの到達点として、これ以上ない完成度になるでしょう」
微笑む。
それは人に向ける笑みではない。
解体前の標本を眺める研究者のそれだ。
その言葉に、空気がわずかに揺れた。
「……ホワイトルーム?」
堀北の眉が、僅かに寄る。
理解できない単語に対する警戒と、言いようのない不気味さがその声に滲む。
龍園もまた、目を細めた。
「……なんだ、それは」
軽口はない。
ただ、今までにない質の違う危険を本能的に察知していた。
「安心してください」
静かに告げる。
「あなたは無駄にはなりません」
その一言が、何よりも残酷だった。
「もっとも」
月城の視線が綾小路以外へ移る。
「他の生徒たちの命の保証はしかねますが」
その一言で、空気の温度がさらに下がる。
天沢が、いかにも楽しそうに首を傾げる。
「全力で来てくださいね、先輩~」
軽い声。
ふざけたような口調。
だが、そこにある本気は本物だ。
八神はシグ ザウエル P226というハンドガンのスライドをカチャッと引く。
「僕はあんたを越えて、先生たちに認めてもらうんだ」
先生たち。
ホワイトルームの教官。
評価する者。
成功例を測る者。
その言葉ひとつで、この少年の価値観がどこに縛られているかが分かる。
一方で坂柳は、彼らの存在すら視界から外したように
ワクチン製造プラントへ向かっている。
綾小路もそれに合わせるように、ゆっくりと坂柳のほうへ歩み寄った。
「時間稼ぎできるか?」
短い問い。
龍園がすぐに吐き捨てる。
「ハッ、俺に歯向かう奴は誰であれぶっ潰すだけだ」
須藤はショットガンを握り直す。
「鈴音のことなら、俺が全力でカバーするぜ!」
堀北も、月城たちから目を逸らさないまま言う。
「あなたたち二人はワクチンを作ることに集中していい」
アルベルトは無言で頷いた。
それだけで十分だった。
戦闘開始は、一瞬だった。
八神と天沢が同時に発砲する。
乾いた銃声が空間へ走る。
だがこちらもすでに構えている。
龍園のアサルトカービンが火を噴く。
堀北のアサルトライフルが連射。
須藤のショットガンが重い轟音を放つ。
そして、アルベルトがグレネードランチャーを撃ち込む。
爆発。
一つのカプセルが培養液ごと吹き飛び、
ガラス片と緑の液体が周囲へ撒き散らされる。
中にいた異形の生物兵器もろとも爆散した。
普通の人間なら、これで終わる。
だが。
八神と天沢は違った。
二人は、ほとんど同時に床へ転がっていた。
受け身。
衝撃を殺し、体勢を低くして、次の射線から身を隠す。
あまりにも滑らかだ。
堀北が一瞬だけ目を見開く。
それほどまでに、動きが人間の反応速度を外れていた。
二人はそのまま物陰へ入り込み、また即座に発砲してくる。
こちらも遮蔽物へ移るしかない。
龍園が低く舌打ちしながらカプセルの陰へ滑り込む。
堀北は機械の支柱へ身を寄せ、
須藤は柱の一つを盾にしながらショットガンの装填を行う。
アルベルトは半歩遅れて、より正面から圧をかける位置を取っていた。
その時、月城が懐から取り出したのはサブマシンガンだった。
H&K MP5クルツA4という連射性能が高く、コンパクトで扱いやすいモデル。
「では、教師役はここまでにしましょう」
そんな冗談めいた言葉とともに、弾丸の雨が降る。
龍園たちの位置へ、躊躇なく。
その動きもまた異常だった。
八神と天沢が明らかに高い身体能力を持っていることはすでに分かっていた。
だが月城は、それと同等――あるいはそれ以上だ。
移動に一切の無駄がない。
しゃがみ、滑り、跳び、遮蔽物を使い、次の射線へ移る。
ただ銃を扱えるだけではない。
銃撃戦そのものへ慣れきっている動きだ。
アルベルトが反撃する。
アサルトライフルの連射。
しかし月城は、信じがたいほど正確にそれを躱す。
横へ。
低く。
小さく。
人間の身体を最も効率よく使っている者の動きだった。
そして反撃。
短いバースト。
アルベルトの腕へ弾丸が食い込む。
「……ッ」
アルベルトが短く息を漏らす。
致命傷ではない。
だが、確実に火力は削られる。
龍園も被弾していた。
八神の弾丸が肩と腕を掠めている。
「チッ……!」
それでも龍園は歯を剥き、撃ち返す。
だが、焦りは隠しきれない。
このままでは押し切れない。
誰の頭にも、同じ不安が浮かび始めていた。
天沢は、いつの間にか堀北の近くまで入り込んでいた。
「近いですね、堀北先輩」
笑顔。
そのまま懐からナイフを抜く。
堀北はすぐに格闘姿勢へ移る。
銃だけでは間に合わないと判断したのだ。
天沢の踏み込みは軽い。
軽いのに速い。
そして重い。
ナイフが閃く。
堀北が受け流す。
体勢を崩さない。
だが押し返せない。
天沢一夏の身体能力は、
もはや女子生徒というカテゴリで見てはいけない領域に達していた。
須藤は撃てない。
ショットガンでは巻き込む。
堀北ごと吹き飛ばしてしまう。
だから須藤は舌打ちすると、天沢へ直接飛びかかろうとした。
「鈴音から離れろッ!」
だが、それすら止められる。
天沢の片腕が、須藤の侵入を読んでいたかのように肘を打ち込む。
須藤の巨体がわずかにぶれる。
「甘いですよ~」
軽い口調。
だが、その軽さの奥に、骨まで届くような圧がある。
一方、八神と月城は龍園とアルベルトへ距離を詰めていた。
遮蔽物越しの撃ち合い。
一歩ずつ、だが確実に。
このまま近接戦に持ち込まれれば、不利なのはこちらだ。
彼ら四人の頭の中には、常に時間稼ぎという言葉がある。
綾小路と坂柳がワクチンを完成させるまで持ちこたえる。
それが最優先。
だが――劣勢だ。
その現実が、少しずつ全員の呼吸を浅くする。
綾小路と坂柳は、その戦闘を背後へ置いたままワクチン製造へ集中していた。
坂柳の集中力は異様だった。
背後で銃声が鳴り、爆発が起き、人が傷つき、叫びが上がっている。
それでも、彼女の視線は機械の表示から一度も外れない。
液晶の数値。
薬液の濃度。
反応速度。
混合順序。
培養パターン。
彼女の手は迷わない。
必要なレバーを引き、必要なボタンを押し、必要な試薬を選び取る。
名家の令嬢として必要最低限の教養を叩き込まれてきた坂柳の頭脳は、
こういう極限の場でも正確に動いていた。
綾小路もまた、半分はプラントへ、半分は戦場へ意識を割いている。
ワクチン製造に必要な知識はある。
構造も読める。
だが、その一方で、背後の戦況の変化も一切見落としていない。
龍園の被弾。
アルベルトの位置。
堀北と天沢の距離。
八神の射線。
月城の移動パターン。
その全部を把握したうえで、まだ動かない。
理由は単純だ。
いま自分が中途半端に参戦しても、
ワクチン完成が遅れるだけで全体最適にはならないからだ。
だが、その均衡も限界へ近づいていた。
龍園の肩にまた一発。
アルベルトの腕から血が滲む。
須藤の息は荒い。
堀北は天沢のナイフに押され続けている。
このままでは――持たない。
その時だった。
坂柳が、淡々と言った。
「ワクチン完成です」
たったその一言で、空気が変わる。
綾小路清隆が――ついに動いた。
懐からハンドガンを抜く。
照準。
発砲。
一発目は、八神。
二発目は、月城。
狙いは正確すぎるほど正確だった。
八神と月城は即座に回避する。
だが、それでも十分だった。
こちらへ向けていた圧が一瞬途切れる。
綾小路はその隙にマガジンチェンジを終える。
その動作は、ほとんど見えない。
速い、というより、無駄がない。
撃つ、切る、入れる、戻す。
それぞれの工程が、独立した動作ではなく一本の流れになっている。
八神と月城が応戦する。
銃口が火を吹く。
弾丸が降る。
だが、綾小路はその雨をすべて躱す。
跳ぶわけではない。
大きく避けるわけでもない。
必要最小限の動きだけで、弾道の外へ身体を滑らせる。
そして――次の瞬間には、予想外の角度から発砲していた。
八神の急所へ命中。
「っ……!」
八神の動きが一瞬止まる。
致命傷ではない。
だが、確かに戦線から数秒外れるだけのダメージ。
月城は、それを見てほんのわずかに笑みを深めた。
一方で、綾小路はすでに次の目標へ照準を変えている。
堀北と天沢。
取っ組み合い寸前の距離。
ナイフが閃く。
そこへ、綾小路の弾丸が飛ぶ。
ナイフの刃に命中。
金属音。
天沢の手元がぶれる。
「……っ」
堀北がその隙に体を離す。
天沢は舌打ちし、物陰へ滑り込んだ。
ほんの数秒。
それだけで、崩れかけていた戦線が一気に立て直された。
綾小路の参戦。
それは単なる一人の戦力追加ではなかった。
盤面そのものを塗り替える存在が動いた、ということだった。
だが――。
月城は笑っていた。
むしろ楽しげにすら見えた。
「素晴らしい」
そう言いながら、彼は懐から小さなスイッチを取り出す。
押す。
その瞬間、部屋の中央に並ぶカプセル群の一つが低い警告音とともに解除される。
液体が抜ける。
気密ロックが外れる。
重い音を立ててカプセルが開く。
その中から――それが出てきた。
最初は、人の形に見えた。
タイラントと比較すると小柄だが、それでも2メートル近くある。
細い首。
長い髪。
だが、次の瞬間には、その認識が裏切られる。
皮膚の色が異常だ。
筋肉の付き方が、人間の比率ではない。
片腕が大きく変形している。
背中から骨のような突起が見える。
そして肩口から胸元にかけて、無理やり肉を押し分けるようにして、
巨大な目玉がいくつも露出していた。
濁った黄白色の眼球は異様に大きく、
脈打つ肉の中でぬらぬらと湿った光を放っている。
まるで身体そのものが別の生き物へ侵食され、
内側から見ているかのようだった。
身体全体が、内側から無理やり膨らまされているような不均衡さを持っていた。
「……佐倉さん……?」
堀北が、信じられないというように呟く。
佐倉愛里。
あの内気で、争いごとを嫌い、
どちらかといえばこの学校の競争についていけずに退学していった少女。
その名と、目の前の怪物が結びつくまで、数秒の空白が必要だった。
月城が、穏やかに言う。
「これこそが、ブラックルームの最高傑作『G』こと――」
その声音は、芸術品を紹介するようですらあった。
「佐倉愛里です」
その名前が、冷たい空間へ響く。
その瞬間。
空気そのものが変わった。
『G』――佐倉愛里だったものが、ゆっくりと頭を上げる。
その動きは遅い。
だが、その遅さがかえって不気味だった。
眠りから覚めたばかりのように首が揺れ、
肩がわずかに痙攣し、巨大化した片腕が床を擦る。
粘つくような液体が滴り落ちる。
目が開く。
そこに理性はない。
だが、完全な空虚でもない。
何かを探している。
何かへ向かおうとしている。
そして――喉の奥から、かすれた音が漏れた。
「……き……よ……た……」
その一音だけで、場にいた全員の背筋が凍る。
清隆くん。
その名前を呼ぼうとしたのか。
あるいは、かつての記憶の残滓がそういう形で漏れただけなのか。
どちらにせよ、それが余計に残酷だった。
完全な怪物なら、まだ割り切れる。
だが、この『G』には、かつて佐倉愛里だった頃の断片が残っている。
月城が微笑む。
「優秀でしょう?」
誰も答えない。
答えられるはずがない。
次の瞬間、『G』が咆哮した。
耳を裂くような音ではない。
むしろ、湿った何かが喉の奥から絞り出されるような、低く重たい声。
そして――動く。
速い。
その小柄な体格からは想像できない加速だった。
床を蹴る。
コンクリートが砕ける。
一直線に――綾小路へ。
「来るぞ!」
龍園が叫ぶ。
だが、その警告とほぼ同時に『G』はすでに距離を詰めていた。
綾小路が最小限の動きで回避する。
肩を捻り、半歩だけ軸をずらす。
『G』の爪が空を裂き、直後に綾小路のショットガンが火を吹く。
至近距離。
弾丸が『G』の上半身へ叩き込まれる。
吹き飛ぶ。
だが、倒れない。
床へ手をついて体勢を立て直し、そのまま別方向から再び飛び込んでくる。
異常な機動力。
異常な再生。
異常な執着。
完全に――生物兵器だった。
須藤がショットガンを撃つ。
轟音。
『G』の脇腹が抉れる。
それでも進む。
アルベルトがアサルトライフルで連射する。
堀北もアサルトライフルで追撃する。
龍園もカービンを叩き込む。
弾は当たる。
だが、止まらない。
「クソが……!」
龍園が吐き捨てる。
『G』の視線は、綾小路へ固定されていた。
やはりそこに執着がある。
記憶なのか、本能なのか、あるいは月城がそう仕込んだのか。
綾小路は、その執着を利用するように動いた。
正面から行く。
引きつける。
ギリギリまで待つ。
『G』の変異した腕が振り下ろされる。
その一撃は、佐倉愛里という名前からは到底結びつかないほど重く、凶暴だった。
だが、綾小路は躱す。
最小限。
ほんのわずか。
必要なだけ。
そして、ゼロ距離。
ショットガンを頭部へ叩き込む。
弾丸が当たる。
『G』の顔が仰け反る。
その瞬間、龍園、堀北、アルベルトが一斉に射撃する。
集中砲火。
一点へ。
頭部。
中枢。
そこだけを狙って。
須藤も、今度は距離を見て撃った。
ショットガンの散弾が『G』の首から上を大きく揺らす。
それでもなお、完全には止まらない。
再生が早い。
致命傷になる前に、組織が修復されているようにすら見える。
「頭だ!」
綾小路が短く言う。
「中枢を潰せ!」
それが合図だった。
今度は龍園が横から回り込み、堀北が逆側へ散る。
アルベルトが正面で圧をかける。
須藤が次の一撃のために距離を詰める。
『G』の視界を分断する。
一方向だけを見られないようにする。
小柄で高速な敵に対して、こちらは陣形で潰す。
坂柳はその間、ワクチンの最終調整を続けていた。
彼女は振り返らない。
だが、状況の変化はすべて耳で拾っているのだろう。
一瞬の躊躇もない。
綾小路が再び踏み込む。
今度はフェイントを入れる。
右へ動くと見せて、左へ。
『G』の反応が一瞬遅れる。
そこへ、綾小路のショットガン。
頭部へ。
弾丸がめり込む。
動きが止まる。
ほんのわずか。
だが、それで十分だった。
「今だ!!」
龍園の叫びと同時に、全員の弾丸が一点へ集まる。
頭部。
頭部。
頭部。
弾丸の雨。
肉が裂ける。
骨が砕ける。
再生が追いつかない。
そして最後に――須藤のショットガンが至近距離から叩き込まれた。
『G』の頭部が、大きく裂ける。
ぐらりと揺れる。
その体から、力が抜けた。
膝が折れる。
崩れ落ちる。
今度こそ、完全に沈黙した。
誰も、すぐには喋らなかった。
目の前に倒れた怪物を見つめる。
それがもう動かないことを、全員が確認する。
そして同時に、その正体の重みが胸にのしかかる。
佐倉愛里。
かつてのクラスメイト。
あの気弱で、戦いとは無縁だった少女。
その面影を持つものを、自分たちはいま確かに撃ち倒した。
月城が、ゆっくりと拍手をした。
乾いた音が、冷たい空間へ響く。
「見事です」
その声音には感心があった。
だが、そこに人間的な哀悼や躊躇は一切ない。
それが逆に、この男の異常性を際立たせる。
綾小路が月城を見る。
「これがお前の答えか」
静かな声だった。
怒りも、悲しみも、表面には出ない。
だが、その内側で何かが確かに変わりつつあるのを、龍園も堀北も感じていた。
人を育てる場所のはずだった学校。
そこで退学者を兵器へ変える。
それが月城の管理下で行われていた。
月城は微笑んだままだ。
「答えというより、成果物ですよ」
その言葉に、龍園が吐き気をこらえるような顔をする。
「どこまで腐ってやがる……」
須藤も、息を荒くしながら『G』の残骸を見ていた。
口を開きかけて、閉じる。
何を言っても追いつかないと分かっているのだろう。
堀北は拳を握る。
ブラックルーム。
退学者。
生物兵器。
そのすべてが、これまで自分たちが生きてきた
学校生活そのものを侮辱しているように思えた。
だが――戦いはまだ終わっていない。
月城。
八神。
天沢。
三人とも、まだ健在だ。
しかも月城は、たった今、
最高傑作の一体を失ったにもかかわらず、少しも動揺していない。
それが意味することは一つ。
まだ、切り札を残している。
あるいは、自分自身が最大の戦力だという自負がある。
その空気を断ち切るように、坂柳が言った。
「あとは帰るだけです」
その一言だけで、六人の意識が再び一つに戻る。
橋本を助ける可能性であるワクチン。
それを得たという事実が、この戦場に明確な目的を与え直した。
綾小路はショットガンを構え直す。
龍園も血の滲む肩を無視してカービンを持ち上げる。
堀北はアサルトライフルの残弾を確認し、須藤はショットガンのポンプを引く。
アルベルトは負傷した腕を押さえず、ただ前を見る。
残るは、月城たちを倒すだけだ。
その瞬間、月城の笑みがわずかに深くなった。
まるで、ようやく本番だと言わんばかりに。
冷凍墓場の空気は、再び張り詰める。
その、次の瞬間だった。
――ぐちゃり、と。
水分を含んだ肉が歪に蠢くような、
不快な音が床に転がる『G』の亡骸から響いた。
誰もが反射的に視線を向ける。
「……なに……?」
堀北が思わず息を呑む。
崩れ落ち、完全に沈黙していたはずの『G』の身体が、わずかに痙攣していた。
ぴくり、ではない。
びくり、と。
明らかに死体の動きではない。
その異変は一瞬で拡大する。
裂けた頭部の肉が、ぶくぶくと泡立つように膨張し始めた。
撃ち抜かれたはずの中枢が、あり得ない速度で再生していく。
いや――違う。
これは再生ではない。
「……おい、まさか……」
龍園の声に、初めて明確な警戒が混じる。
肉が、盛り上がる。
筋繊維が無秩序に絡み合い、
骨が内側から突き破るように伸び、皮膚がそれを押さえきれず裂ける。
修復が追いつかない。
だからこそ、形を保てない。
その結果として――より歪む。
「再生じゃない……」
堀北が低く呟く。
「進化……している……!」
上半身が、大きく変形していく。
特に損傷の激しかった頭部と胸部は、原型を留めていなかった。
砕けた骨が再構築される過程で、
より太く、より歪に、より攻撃的な形状へと変わっていく。
筋肉は異常な速度で膨張し、その表面を覆う皮膚は何度も裂けては再生し、
結果として分厚く、硬質な外殻のような層を形成していく。
そして――
肩口から胸にかけて、肉を押し割るようにして、
あの巨大な目玉がさらに増殖していく。
一つではない。
二つでもない。
いくつもの眼球が、不規則に浮かび上がる。
それぞれが独立して動き、ぎょろり、と周囲を見回す。
そのすべてが、同時に綾小路を捉えた。
ぞわり、と。
生理的嫌悪が、空間を支配する。
「ふざけんなよ……」
須藤が思わず後ずさる。
先ほどまでの『G』とは、もはや別物だった。
人間の延長線上にある怪物ではない。
完全に――異形。
理性や名残など、もはや感じ取ることすらできない存在へと変貌していた。
その中心で、膨張した上半身が脈動する。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
まるで、巨大な心臓がむき出しになっているかのように。
そして。
ゆっくりと、それが立ち上がる。
片腕はさらに肥大し、もはや腕というより巨大な塊。
もう片方は逆に細く変形し、鋭利な骨が刃のように突き出している。
頭部だったものは、原形をほぼ失っていた。
そこには顔ではなく、複数の目と裂けた肉の集合体があるだけだ。
その異様な姿を前にしても。
月城は、微笑んでいた。
「『G』の最終形態」
その声は、どこまでも穏やかだ。
まるで、完成した作品を披露する研究者のように。
「本当の戦いは、ここからです」
その一言で。
絶望が、再び現実へと引き戻される。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると助かります。