カーストルーム・オブ・ザ・デッド   作:戦竜

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第15話 愛里

八神拓也、天沢一夏、月城理事長代理、そして進化した『G』。

 

その四つの脅威が、同じ空間の中で同時に存在しているという事実は、

単純な数以上の圧力を持っていた。

 

一体一体が、これまで綾小路たちが相手取ってきたゾンビや

大型個体とは比較にならない危険性を備えている。

八神と天沢はホワイトルームの成功例として

身体能力も判断力も異常な水準にあり、

月城はその二人と同等か、それ以上の練度と経験を持つ。

そして『G』は、もはや人が変異した怪物という段階を越えた、

純粋な破壊のための生物兵器だった。

 

四つの異質な死が、同時にこちらへ牙を剥いている。

 

その状況を前にしても、月城は穏やかな笑みを崩していなかった。

 

「これであなたたちは終わりです」

 

その声には激情がない。

怒りも、興奮も、焦りも、何もない。

ただ、事実を確認するような冷たさだけがあった。

 

「ましてや脆弱な坂柳有栖など、眼中にもありません」

 

その一言は、挑発というよりも評価だった。

 

戦闘力だけを見れば、坂柳はこの場で最も弱い。

それは誰も否定できない。

走れず、自力で距離を取れず、肉弾戦においても前線へ出られない。

月城が脅威ではないと判断するのも、戦力分析としては正しい。

 

だが、その正しさこそが彼の盲点だった。

 

坂柳は確かに戦えない。

だが、戦えないからこそ、別の意味で最も危険な存在になりうる。

盤面の外から、盤面そのものを組み替える側の人間だからだ。

 

しかし今、その事実を口に出す者はいない。

 

次の瞬間にはもう、会話の余地がなくなっていたからだ。

 

八神と天沢、そして月城が同時に動く。

 

ただ前へ出るのではない。

三方向へ散る。

 

それも、互いの射線を妨げない角度で。

しかも、こちらが遮蔽物へ逃げ込む可能性まで見越して、

それぞれの位置を選んでいるのが分かる。

この三人はただ速いだけではない。

戦い方を知っている。

人を追い詰める角度を、距離を、タイミングを、体に叩き込まれている。

 

発砲。

 

乾いた銃声が立て続けに重なり、

青白いモニター光に満ちた冷凍墓場の空気を切り裂いていく。

 

綾小路たちは即座に散開する。

 

龍園が左。

堀北が中央寄りの支柱へ。

須藤は床を蹴って斜め前方へ。

アルベルトはあえて半歩遅らせることで正面の火力を維持する位置を取った。

 

綾小路は坂柳の正面に立つでもなく、後ろに下がるでもなく、

彼女とワクチン製造プラントのあいだに最短で割り込める位置を選ぶ。

 

だが、それでも足りない。

 

なぜなら、三方向からの銃撃より速く接近してくるもう一つの脅威があるからだ。

 

『G』。

 

それはさっきまでの形状からさらに一段階、

いや二段階は異形へと踏み込んでいた。

損傷した上半身は再生しながら膨張し、

元の人体の比率を完全に失っている。

巨大化した右腕はもはや腕というより塊であり、

逆側の腕は長く細く変質し、

骨が外へ露出した刃のような形をしていた。

肩口から胸にかけては、肉を押し割るように巨大な目玉がいくつも生え、

濁った黄白色の眼球がそれぞれ別方向を見ながら、

なお中心にある本体の意志へ従って動いている。

背中からは骨のような突起がいびつに突き出し、

その全体像は進化というより破綻した再構築と言うべきものだった。

 

だが、速い。

 

あまりにも速い。

 

スーパータイラントも異常な俊敏さを見せた。

だが、あれは巨体に似合わない速度だったのに対し、

『G』のそれは構造そのものが速度へ最適化されているような動きだった。

 

跳ぶ。

 

いや、移動というより一瞬で滑り込んでくる。

遠近感が狂う。

 

綾小路の視界から一度消えたと思った次の瞬間には、もう目の前だ。

 

振り下ろされる爪。

 

回避しきれない。

 

綾小路は即座に判断する。

避けるのではなく、防ぐ。

 

ショットガンを両手で構え、身を沈め、斜めに受ける。

 

直撃。

 

衝撃が、武器を通して腕へ、肩へ、背骨へと突き抜ける。

握力が飛ぶ。

膝がわずかに浮く。

 

そのまま身体ごと弾き飛ばされ、背中から壁へ叩きつけられる。

 

鈍い音。

 

肺の空気が押し出され、視界が一瞬だけ白く弾ける。

 

それでも、綾小路は倒れきらない。

受け身を取り切れなかった分だけダメージはある。

だが、意識は完全に保っている。

 

『G』は止まらない。

 

追撃。

 

一撃目が通らなかったなら二撃目で仕留める。

その思考すらも、もはや人間的というより狩猟本能に近い。

 

振りかぶる。

 

その時。

アルベルトのグレネードランチャーが火を吹いた。

 

砲声は、通常の銃撃とは質が違う。

低く、重く、空気の密度そのものを揺さぶる音。

 

弾体が『G』の上半身へ命中する。

 

爆発。

 

肉片が散る。

複数の目玉の一つが潰れ、血と透明な液体が飛び散る。

巨体が大きくよろめき、数歩ぶん後退する。

 

「今だ!」

 

龍園が叫ぶ。

 

龍園と堀北が同時に連射する。

龍園のアサルトカービンは頭部へ。

堀北のアサルトライフルは巨大化した胸部と肩の目玉群へ。

 

須藤もショットガンを撃ち込む。

距離は近い。

散弾の拡散が逆に有効だ。

 

だが、『G』は止まらない。

 

損傷している。

それは確かだ。

 

しかし止まるという現象が起きない。

 

破壊された肉が、盛り上がる。

裂けた部分が閉じる。

潰れた眼球の周囲から新たな組織がせり上がる。

 

耐久力と再生能力。

そのどちらもが、スーパータイラントを大きく上回っていた。

 

同時に、八神、天沢、月城の銃撃が止まらない。

 

三方向からの射撃は、単純な量だけでなく圧力としてこちらへ働く。

顔を上げれば撃たれる。

位置を変えようとすれば、その移動先へ弾道が走る。

遮蔽物の裏にいても、いつ詰められるか分からない。

 

完全な劣勢だった。

 

綾小路であっても、この戦況を一瞬でひっくり返すことは簡単ではない。

 

だが、思考は止まらない。

 

グレネードが唯一、『G』へ決定打に近いダメージを通せる。

だが弾数は有限。

乱用すれば月城たちの制圧前に尽きる。

 

一方で、八神と天沢は月城に比べれば経験が浅い。

判断の質は高いが、盤面全体を見た冷酷さでは月城が上だ。

つまり、月城を残したまま『G』のみに集中するのは危険。

かといって月城へ寄りすぎれば『G』が綾小路に食らいつく。

 

倒すこと。

生き残ること。

そして脱出すること。

 

そのすべてを同時に成立させるには、順番と好機が必要だった。

 

綾小路は立ち上がる。

 

『G』はやはり、彼だけを見ていた。

 

複数の目玉がばらばらに動きながらも、中心にある意志は明確だ。

綾小路清隆を狙っている。

執拗に。

徹底的に。

 

どれだけ異形へ変わり果てても、

その本質はやはり佐倉愛里なのだと、綾小路は確信していた。

 

綾小路はわずかな角度で身をずらしながら、『G』の軌道を読む。

左へ来る。

次に下から払う。

いや、その前に一瞬だけ天井側を使って位置を変える。

 

来る。

 

予測通り。

 

爪を躱す。

そのまま体を入れ替え、ショットガンの銃口を八神へ向ける。

 

八神もまた異常な反応速度でそれを察知する。

遮蔽物の端を蹴り、低く横へ抜ける。

 

だが、その回避先へもう一つの銃口が向いていた。

 

須藤。

 

彼は綾小路の意図を完全に理解していたわけではない。

だが、「綾小路が追い込んだ先を潰す」という一点だけで十分だった。

 

二つのショットガンが、ほぼ同時に火を吹く。

 

轟音。

 

八神の肩口から胸にかけて散弾が叩き込まれる。

そのまま回避しきれず、二発目が腹部へ入る。

 

八神の顔が歪む。

信じられない、というより、悔しいのだろう。

自分が綾小路に届かなかったことが。

 

口から血が溢れる。

 

「ぼ、くは……」

 

その続きを言う余地もなく、八神は崩れ落ちた。

 

一人。

 

その死は、確実に戦況へ影響を与えた。

 

天沢の表情が初めて変わる。

軽さが消える。

笑顔の皮が剥がれ、感情が露わになる。

 

「……やってくれますね、先輩」

 

その声は低い。

 

だが、その一瞬の感情の揺れこそが隙だった。

 

龍園と堀北が、まるでその瞬間を待っていたかのように一斉掃射を浴びせる。

天沢はすぐに遮蔽物へ飛び込もうとする。

だが、そこへアルベルトのアサルトライフルが死角から叩き込まれた。

 

アルベルトは常に黙っている。

だが、その静けさの中で彼は自分にしか見えない射線を作っていた。

 

弾丸が天沢の胴を捉える。

 

彼女の体が大きく揺れる。

まだ倒れない。

だが、次の瞬間には龍園の追撃が来る。

そして堀北のアサルトライフルが、肩口から首筋へ連続で入る。

 

天沢一夏は、そこでようやく床へ膝をついた。

 

信じられないものを見る目で、綾小路を見た。

何か言いたそうに口を開く。

だが、血が先に出た。

 

そのまま横へ倒れる。

 

二人目。

 

だが、月城だけは笑っていた。

 

八神と天沢を失ってもなお。

その表情には焦燥がない。

 

むしろ、ここからが本番だとでも言いたげな笑みだった。

 

サブマシンガンが唸る。

 

弾丸が走る。

 

龍園の腹部へ一発。

続けて堀北の足へ。

 

「っ……!」

 

龍園の顔が歪む。

堀北は膝から崩れかけるが、辛うじて銃を手放さない。

 

須藤が即座に反撃する。

ショットガンを撃つ。

 

だが、月城には当たらない。

 

あまりにも滑らかに躱される。

さっきからそうだ。

この男だけは、戦い方の質が違う。

 

八神と天沢が優秀な子供なら、月城は完成された大人だ。

戦場での戦い方を知っている。

人を追い込む感覚を知っている。

無駄な感情がない。

 

そしてその間にも、『G』は標的を変えていた。

 

堀北へ。

 

足を撃たれて動きが鈍った堀北は、明らかに狙いやすい獲物だ。

『G』はそう判断したのだろう。

 

巨大な爪が迫る。

 

「鈴音!!」

 

須藤が飛び出す。

 

考えるより先に、身体が動いた。

 

堀北を抱え込むようにして横へ飛ぶ。

床を転がる。

 

ギリギリで躱す。

 

だが、『G』の追撃は止まらない。

 

もう一撃。

今度こそ二人まとめて捉えようとする。

 

その瞬間。

 

綾小路が口を開いた。

 

「好きだ、愛里」

 

静かな声だった。

 

叫びではない。

挑発でもない。

 

ただ、まっすぐ届くように言った一言。

 

『G』の動きが止まる。

 

ほんの一瞬。

だが、確かに。

 

巨大な腕の軌道が鈍る。

目玉のいくつかが不規則に揺れる。

 

記憶。

残滓。

それがまだ、完全には失われていない。

 

佐倉愛里は、生前、綾小路へ恋心を抱いていた。

その感情は、怪物へ変わり果てた後も完全には消えていなかったのだ。

 

意中の相手から愛の言葉を向けられる。

それは、彼女にとって最も強い感情刺激になりうる。

 

綾小路は、それを理解していた。

 

非情だ。

だが、最適だった。

 

その隙を見逃す者は、この場に一人もいなかった。

 

綾小路のショットガン。

須藤のショットガン。

アルベルトのアサルトライフル。

 

弾丸の雨が『G』へ叩き込まれる。

 

『G』が初めて、押される。

 

その光景に月城の笑みが消えた。

 

「……ッ!」

 

綾小路へ向けてサブマシンガンを連射する。

 

弾丸が綾小路の腕を掠める。

血が飛ぶ。

 

それでも綾小路は止まらない。

 

月城はなおも綾小路へ執着する。

ここで綾小路を止めなければ、この盤面は完全に崩れると分かっているからだ。

 

だが、その執着が――月城の運命を決定づけた。

 

龍園が動く。

 

重傷を負い、腹部から血を滲ませながらも、彼はまだ終わっていなかった。

 

懐へ手を入れる。

取り出したのは、手榴弾。

 

スーパータイラント戦で決定打となった特殊な置き土産とは違う。

武器庫で調達した、通常型の手榴弾。

だが、それで十分だった。

 

「終わりだ、月城」

 

低く吐き捨てて、投げる。

 

月城が気づいた時にはもう遅い。

 

爆発。

 

衝撃が月城の身体を吹き飛ばす。

遮蔽物もろとも弾き飛ばされ、床を転がり、綾小路の近くへ転がってきた。

 

月城はまだ生きている。

だが、動きは鈍い。

口元から血が流れている。

 

その瞬間。

『G』が、再び綾小路へ襲いかかった。

 

崩れ落ちたはずの巨体が、執念だけで立ち上がったような動きだった。

上半身は半ば崩壊し、巨大な目玉のいくつかは潰れ、肉は裂けて骨が露出している。

それでもなお、その怪物は止まらない。

止まれないというより、

最初から止まるという概念そのものを持っていないようだった。

 

複数の眼球が、ぎょろりと一斉に綾小路を捉える。

それはもはや視線ではなく、呪いに近かった。

 

距離は近い。

 

回避しても、完全には逃げきれない。

撃っても、今の『G』をその場で完全停止させる保証はない。

 

ほんの一瞬でそこまで計算した綾小路は、迷わなかった。

 

足元に倒れていた月城の身体を掴む。

 

襟元でも、腕でもない。

重心が最も取りやすく、かつ相手の身体を盾として

最大限機能させられる位置を、何の躊躇もなく選び取る。

 

月城の顔が、引きつった。

 

爆風で吹き飛ばされ、すでに致命傷に近い状態だったのだろう。

呼吸は乱れ、口元からは血が流れ、片目はまともに開いていない。

それでも、いま自分が何をされようとしているのかを

理解するだけの意識は残っていた。

 

「やめ――」

 

掠れた声。

 

懇願だったのか、怒声だったのか、その中間のような、情けなく潰れた音だった。

 

自分はこの男を追い詰め、壊し、

学校の外へ回収するためにここまでの地獄を用意した。

多くの生徒を巻き込み、教師を利用し、

退学者を兵器へ変え、命を試験の駒として使った。

その果てに、自分自身が最後は使い捨ての盾として処理される。

 

あまりにも皮肉で、あまりにも無惨な末路だった。

 

次の瞬間。

 

『G』の巨大な爪が振り下ろされる。

 

速い。

 

空気が裂ける音さえ遅れて聞こえるほどの速度だった。

その軌道に、ためらいはない。

そこにあるのが月城の身体だろうと、鋼の壁だろうと関係ない。

ただ、綾小路へ届くためだけに振るわれた破壊の一撃。

 

月城の身体が、その軌道上に入る。

 

衝突。

 

いや、それは衝突などという穏やかなものではなかった。

 

巨大な鉤爪は、月城の上半身へ容赦なく食い込んだ。

衣服が裂ける。

皮膚が裂ける。

肉が断たれる。

骨すらまともな抵抗にはならない。

 

鈍く、湿った破壊音が響く。

 

一瞬だけ、月城の身体が不自然に持ち上がった。

人間という形を保ったままではいられないほどの力が、一点へ集中したからだ。

 

「――ッ、が……!」

 

声にならない断末魔。

肺の中の空気が、血と一緒に吐き出される。

目が大きく見開かれ、その瞳から急速に生気が消えていく。

 

『G』の爪はそのまま月城の胴を深々と引き裂き、

勢いのまま身体を横へ薙ぎ払った。

月城の体は壊れた人形のように床へ叩きつけられ、

数度痙攣したあと、完全に動かなくなる。

 

死。

 

それはあまりにも一瞬で、あまりにも暴力的だった。

 

そして、その凄惨な一撃によって、

綾小路はわずかに生まれた空白の時間を手に入れる。

 

月城の身体を盾にしたことで、

『G』の攻撃の直線上から半歩ぶんだけ逃れられたのだ。

その半歩が、生死を分ける。

 

綾小路は月城の亡骸を放り捨てるように手放し、すぐさま後方へ滑る。

呼吸は乱れていない。

視線も逸れない。

 

ただ、目の前で起きた月城の死を、情報として処理している。

 

龍園が、短く息を呑む。

 

堀北も、言葉を失っていた。

 

誰も月城に同情していたわけではない。

恨みこそあれ、憐れむ理由などない。

それでも、いま目の前で起きた人間が怪物に引き裂かれる瞬間の

圧倒的な暴力性は、理屈抜きで神経をざわつかせるに足るものだった。

 

月城は、最後まで盤面を支配する側のつもりだった。

だが実際には、最後の最後でただの消耗品として盤面へ置かれ、

そして処分された。

 

その現実が、このブラックルームという場所の本質を何よりもよく表していた。

 

ここでは、人間は駒ですらない。

必要なら肉の盾にされ、役目を終えれば廃棄されるだけだ。

 

その月城の死を前にしても、『G』は止まらなかった。

 

いや、止まれなかったというべきかもしれない。

 

破壊し、食らい、届かぬものを追い続ける。

それだけが存在理由になってしまった怪物にとって、

一人の人間を引き裂いたことに意味はない。

目的はただ一つ――綾小路清隆。

 

複数の巨大な目玉が、月城の死骸を越えて再び綾小路を追う。

 

その執着は、もはや恋慕の残滓と呼ぶにはあまりにも歪みすぎていた。

それでも根底には、確かに佐倉愛里という少女の感情が残っている。

 

だからこそ、恐ろしい。

 

ただの怪物なら、ここまで執拗ではなかったかもしれない。

ただの兵器なら、ここまで一人だけを追い続けはしなかったかもしれない。

 

愛情の名残があるからこそ、執念もまた尽きない。

 

綾小路は、その事実を理解したまま、次の一手を選び取る。

 

月城は死んだ。

ならば、残る敵はこの『G』。

いや――佐倉愛里だけ。

 

そこで初めて、すべての条件が揃った。

 

綾小路が短く呟く。

 

「坂柳」

 

坂柳は、振り返らないまま答える。

 

「はい、準備完了です」

 

その返答は静かだった。

あまりにも静かで、耳を澄まさなければ

聞き逃してしまいそうなほどの声量だった。

だが、その短い一言の中には揺るぎがなかった。

 

まるで、最初からこの瞬間を待っていたかのように。

 

それが何を意味するのか。

 

この瞬間まで、月城も、八神も、天沢も、気づいていなかった。

いや、正確には――気づく機会を与えられなかったのだ。

 

坂柳は、ただワクチンを作っていたわけではない。

 

彼女は、ワクチンを完成させたあと、この死闘の最中、

その合間を縫うようにして、この冷凍墓場そのものへ細工を施していた。

 

部屋の中央を走る太い配管。

培養カプセルを支える基部。

モニター群の下部フレーム。

壁際に沿って這う電源ユニット。

研究プラントの制御盤の死角。

床材の継ぎ目。

一見すると無機質で何の変哲もない白い壁面の、ごく小さな凹凸の裏側。

 

そのすべてに、微細な爆薬が設置されていた。

 

もちろん、軍用の大掛かりな爆弾ではない。

一つ一つは小さい。

だが、小さいからこそ設置は容易で、戦闘の最中でも目立たず、

しかもこの閉鎖空間では強力すぎるほどの破壊力を持つ。

 

坂柳は戦えない。

 

それは事実だ。

銃の反動を殺しながら前線で撃ち合うことも、

怪物の爪を身体能力で躱し続けることも、彼女にはできない。

 

だが、だからこそ彼女は別の方法を選んだ。

自分が戦えないなら、戦場そのものを変える。

自分が弾丸を撃てないなら、

引き金を引かなくても勝敗を確定させる盤面を作る。

 

その発想そのものが、坂柳有栖という少女の本質だった。

 

戦力として見れば弱い。

けれど、盤面支配能力という一点においては、誰よりも強い。

 

月城たちはそのことを理解していなかった。

 

いや、理解しようとしなかったというべきか。

 

彼らは坂柳を脆弱な非戦闘員と見なした。

だから放置した。

だから後回しにした。

そして、その慢心が今になって致命傷として返ってきたのだ。

 

坂柳は、ただ守られていたのではない。

この戦闘が始まった瞬間からずっと、

自分にできる最適解を実行し続けていた。

 

ワクチンを作りながら。

戦況を耳で拾いながら。

味方の呼吸の乱れ、敵の移動音、銃声の間隔、爆発の位置、

そのすべてを情報として整理しながら。

 

そして最後には、この部屋全体を

月城たちごと葬るための爆殺盤面に変え終えていた。

 

その事実を知る由もなく、月城はすでに無惨な肉塊となって床へ転がっている。

八神も天沢もまた倒れ、残る敵はただ一つ。

 

『G』。

 

いや、佐倉愛里。

 

かつてそう呼ばれていた存在。

 

もはや少女という言葉では括れないほど醜く、歪み、膨れ上がり、

破綻した生物兵器となり果てたそれが、

それでもなお綾小路だけを追い続けていた。

 

巨大な目玉がいくつも脈打っている。

肩口から胸元にかけて肉を押し割るように露出した眼球群は、

瞬きをすることもなくぬらぬらと光を反射し、それぞれが別方向を見ながら、

しかし中心にある意志だけは綾小路へ収束していた。

 

異様だった。

 

人間らしさは、もう形では残っていない。

残っているのは執着だけだ。

 

だが、その執着がどこから来ているのかを、綾小路は知っていた。

 

だからこそ、ここで終わらせる。

 

ただ撃ち殺すのではなく。

ただ爆破に巻き込むのでもなく。

 

佐倉愛里の残滓ごと、確実に止める。

 

綾小路は、ゆっくりと『G』へ向かって歩き出した。

 

誰も止めない。

 

止める必要がないと、全員が分かったからだ。

 

ここから先は、綾小路にしかできない。

 

その確信があった。

 

血に濡れた床を踏む。

散乱したガラス片を踏み越える。

壊れたカプセルの破片が靴底で砕ける。

 

冷凍墓場の空気はなお冷たい。

だがその冷たさの中に、さっきまでの銃撃と爆発で熱を持った火薬の匂いが混ざり、

どこか現実感を失わせる異様な温度差を作っていた。

 

綾小路は、その異様な空間の中央に

立ち尽くす『G』を見据えたまま、静かに口を開く。

 

「可愛いな、愛里」

 

その言葉は大きくなかった。

叫びでもなければ、芝居がかった抑揚もない。

ただ、まっすぐ届くように、必要なだけの音量と温度で発せられた。

 

『G』の動きが止まる。

 

完全にではない。

だが、確かに鈍る。

 

巨大な腕がわずかに下がる。

複数の眼球が不規則に泳ぐ。

骨のような突起で構成された上半身が、ほんのわずかに揺れた。

 

それは反応だった。

 

まちがいなく。

 

「ずっと一緒だ」

 

さらに一歩。

 

綾小路は距離を詰める。

 

本来なら、自殺行為に近い。

いまの『G』の間合いに入るということは、死へ半歩近づくことと同義だ。

 

だが、『G』は動かない。

 

動けない。

 

怪物の中に残された、最後の少女が言葉へ反応しているからだ。

 

「オレや波瑠加たちも、愛里のことが大好きだ」

 

その言葉を聞いた瞬間、『G』の身体がさらに大きく震えた。

 

友人。

日常。

教室。

放課後。

清隆、波瑠加、啓誠、明人、そして――自分。

カメラのレンズを見つめる穏やかな時間。

 

みんな幸せそうな一枚の写真――。

 

 

放課後の教室に差し込む夕陽が、柔らかく机と床を染めていた。

何気ない雑談に笑い声が混ざり、特別でも何でもない時間がゆっくりと流れていく。

波瑠加が軽口を叩き、啓誠や明人がそれに突っ込み、また笑いが広がる。

その輪の中にいるだけで、理由もなく安心できた。

明日もまた、同じようにこの場所で顔を合わせるのだと、疑いもしなかった。

 

その中で、ふと彼に視線が吸い寄せられる。

何気ない仕草、静かな佇まい、そのすべてが気になってしまう。

名前を呼ばれるだけで、胸の奥がドキドキ脈打つ――そんな、ささやかな想い。

 

そうした断片が、この怪物の中にまだ残っているのかもしれない。

あるいは、残っていなくても、身体のどこかに刻み込まれた感情だけが、

その音を拾っているのかもしれない。

 

どちらでも同じことだった。

 

止まった。

 

完全に。

 

今この瞬間だけ、『G』は戦闘をやめている。

綾小路の目から、最後の迷いが消える。

もしそこに迷いがあったとしても、もう不要だった。

必要なのは、確実に止めることだけ。

 

ショットガンを持ち上げる。

ゼロ距離に近い。

外す理由はない。

引き金。

轟音。

 

【挿絵表示】

 

最初の一発が、『G』の胸元に群生した巨大な目玉の一つを吹き飛ばす。

粘ついた液体と肉片が爆ぜる。

怪物の身体が大きく仰け反る。

 

二発目。

 

今度は肩口。

再生の中心になっていた肉塊を抉るように撃ち抜く。

筋繊維が引き千切れ、骨のような突起が砕け散る。

 

三発目。

 

顔面だったものへ。

 

もはや顔とは呼べないほど変質している。

それでも認識の中枢が集まっている箇所を見抜き、そこへ叩き込む。

 

『G』が後退する。

 

足元が乱れる。

 

それでも綾小路は止まらない。

 

追撃。

 

ポンプ。

再装填。

照準。

発砲。

 

一連の動作に淀みがない。

 

まるで最初から、この瞬間にこの距離で何発必要かが計算済みであるかのように。

 

四発目が、巨大化した右腕の付け根を吹き飛ばす。

五発目が、上半身の中心部を抉る。

 

『G』の身体が、ついに耐えきれず崩れ始める。

 

膝が折れる。

 

異形の骨格が支えを失い、巨体が前のめりに沈んでいく。

 

最後に、綾小路は一歩だけ下がり、静かに見下ろした。

 

『G』は動かない。

 

再生もしない。

 

複数の目玉から光が失われていく。

 

佐倉愛里は、ここで本当に終わったのだ。

 

綾小路は、ほんの一瞬だけ視線を落とした。

それが哀悼だったのか、ただの確認だったのかは、誰にも分からない。

 

だが、次の瞬間にはもう前を向いていた。

 

「ここから脱出するぞ」

 

その一言で、全員が動いた。

 

戦いは終わった。

だが、ここはまだ敵地のど真ん中だ。

 

しかも、この空間そのものが、

すでに爆破されることを前提とした死地へ変わっている。

 

立ち止まる理由はない。

 

須藤が真っ先に坂柳のもとへ走る。

 

「乗れ!」

 

短い言葉。

坂柳は無駄な遠慮をしない。

 

「お願いします」

 

杖を離し、須藤の背へ体を預ける。

須藤は彼女の軽さに一瞬だけ驚くが、すぐに表情を引き締めた。

 

アルベルトは、倒れている龍園のもとへ向かう。

龍園は腹部の傷を押さえながらも、まだ意識ははっきりしていた。

 

「チッ……情けねえな」

 

アルベルトは無言のまま龍園を担ぎ上げる。

重い。

だが、彼にとっては問題にならない重量だった。

 

一方、綾小路は堀北のもとへ行く。

 

堀北は足を撃たれており、自力で走るのは厳しい。

それでも立とうとしていた。

 

「まだ歩けるわ……」

「無理だ」

 

綾小路は短く言い切る。

 

反論の余地を与えず、堀北を背負う。

堀北は一瞬だけ言葉を失うが、すぐに余計な抵抗をやめた。

 

この場で変な意地を張るほうが足を引っ張ると、彼女自身が理解しているからだ。

 

こうして、全員が再配置される。

 

綾小路は堀北を。

須藤は坂柳を。

アルベルトは龍園を。

 

それぞれが、それぞれの仲間を背負いながら、エレベーターへ向かう。

 

冷凍墓場の白い床を走る。

 

その途中、坂柳が一度だけ振り返った。

 

崩れたカプセル。

散乱する薬液。

壊れた研究装置。

床へ沈む『G』。

そして、動かない月城の亡骸。

 

この空間には、この学校のすべての腐臭が凝縮されているように思えた。

 

教育。

競争。

退学。

選別。

その果てにあったのが、ここだ。

 

だからこそ、消し去らなければならない。

 

エレベーターへ乗り込む。

 

全員の体勢を確認する。

扉が閉まる。

 

綾小路が短く言う。

 

「上げろ」

 

エレベーターが動き始める。

 

上昇。

 

だが、その瞬間だった。

 

下から、衝撃。

 

何かがエレベーターの外壁へぶつかったような振動が伝わる。

 

金属が軋む。

床が揺れる。

 

「まさか……!」

 

堀北が息を呑む。

 

次の瞬間、エレベーターの下部から、巨大な爪がぬっと突き出した。

 

『G』。

 

まだ死んでいない。

いや、死にきれなかったのだ。

執念だけで、崩れた肉体を無理やり動かし、エレベーターへ食らいついてきた。

 

その執着はもはや恋情でも、本能でもない。

ただ、終われないという呪いのようだった。

 

巨大な爪が、綾小路へ向かって伸びる。

 

この狭い箱の中では避けにくい。

背中には堀北がいる。

躱すだけでは済まない。

 

その時。

綾小路は、迷わず手を伸ばした。

 

「アルベルト」

 

それだけで通じる。

 

アルベルトがすぐにグレネードランチャーを差し出す。

綾小路は片手で受け取り、堀北を背負ったまま照準を合わせる。

 

狙うべき場所は、もう決まっていた。

 

頭部。

 

いや、頭部だったものの残骸の中心。

 

あそこを完全に吹き飛ばす。

 

引き金。

轟音。

 

狭いエレベーター内部で反響する爆発音は、鼓膜を叩き潰すようだった。

 

グレネード弾が直撃する。

 

『G』の頭部が、今度こそ粉々に粉砕される。

肉片と黒ずんだ液体が散り、

巨大な爪がわずかに痙攣したあと、力を失って外へ落ちていく。

 

それでも――完全には死んでいないかもしれない。

 

だが、もう関係ない。

 

勝負はついた。

 

この上昇するエレベーターから再び食らいつく時間はない。

そしてその前に、この地下そのものが消し飛ぶ。

 

坂柳が、静かに呟いた。

 

「これで本当に、チェックメイトです」

 

その声には、満足も慢心もない。

ただ、盤面を読み切った者の静かな確信だけがあった。

 

そして彼女は、手の中の起爆スイッチを見た。

 

小さく、無機質な装置。

だが、それはこの学校の闇そのものへ下す最後の断罪でもある。

 

ためらいは一切ない。

 

押す。

起爆。

 

最初は、わずかな振動だった。

 

次の瞬間、それが一気に連鎖する。

 

床下で何かが破裂する音。

続いて、配管が弾ける。

カプセル群が次々に爆散し、薬液と破片が空間を満たす。

 

モニターが一斉に白飛びする。

制御装置が火花を散らす。

冷凍墓場の白が、一瞬で爆炎と煙と赤い警告灯の色へ塗り潰される。

 

爆音が幾重にも重なる。

 

それは単発の爆発ではない。

研究所全体が、内側から順番に引き裂かれている音だった。

 

エレベーターが激しく揺れる。

 

金属が歪む。

ワイヤーが悲鳴を上げる。

警告音が鳴り響く。

 

だが、止まらない。

 

止まれない。

 

綾小路たちは、爆発の連鎖を背後に受けながら地上へ向かって上昇していく。

 

下では、ブラックルームが『G』ごと崩壊している。

人間を兵器へ変えるための冷たい墓場が、

ようやくその役割を終えようとしていた。

 

須藤は歯を食いしばって坂柳を背負い直す。

アルベルトは龍園の重みを片腕で支え続ける。

綾小路は堀北を背負ったまま、揺れる床で姿勢を崩さない。

 

堀北は、背中越しにその横顔を見ていた。

 

綾小路清隆。

理性と合理の塊のようなこの男が、ここまで多くの人間のために動いている。

 

それが、この学校で過ごした時間の結果なのだとしたら――。

 

そう考えかけたところで、また一段大きな爆発が下から突き上げてきた。

 

エレベーターが跳ねる。

誰かが息を呑む。

それでも、上昇は止まらない。

 

やがて――。

 

上層への到達を告げる音が鳴る。

だが、本当の地獄はまだ終わっていない。

 

なぜなら、彼らが地上へ戻るとき、

そこにはすでに学校全体を巻き込む最終崩壊が始まっているはずだからだ。

 

地下は終わった。

 

次に来るのは――学校そのものの終焉。

そして、その果てに待つのは――。

 

だが今はまだ、全員で生きて上へ出ることだけが先決だった。

 

エレベーターは、爆炎と崩壊の唸りを背後に残しながら、

ついに地上へと辿り着こうとしていた。




次が最終話です。

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