カーストルーム・オブ・ザ・デッド   作:戦竜

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第2話 崩壊

教室の外へ飛び出した瞬間、綾小路清隆は理解した。

 

さっきまで自分たちがいた2年Bクラスの教室で起きた惨劇は、

あくまで一つの教室で発生した局地的な異常ではない。

あれは、もっと大きな異変の一断面にすぎない。

 

廊下に満ちていたのは、

すでに学校という場所が持っていたはずの秩序ではなかった。

 

火災報知器の耳障りな警報音が、一定の間隔で鳴り続けている。

本来ならその音は避難のための合図であり、

人々を安全な場所へ導くための機能であるはずだった。

だが今この音は、誰かを救うためのものではなく、

むしろ校舎全体が発している悲鳴のように感じられた。

 

警報は鳴っている。

けれど、そこに誘導はない。

放送も、教師の的確な指示も、統制もない。

 

ただ、音だけがある。

 

その下で、もっと生々しい現実の音がいくつも重なっていた。

 

誰かが悲鳴を上げる声。

走る靴音。

転倒して床に身体を打ちつける鈍い音。

ドアが乱暴に開け放たれる音。

何人もの生徒が一斉に叫ぶことで生まれる、言葉として意味を結ばない騒音。

 

そして、その全ての隙間に混じるように、

喉の奥で潰れたような低いうめき声があった。

 

人間の声帯から出ているはずなのに、人間の言葉には聞こえない。

意思も理性も感じさせない、空洞のような音。

 

「閉じ込めるわよ!急いで!」

 

堀北鈴音の声が、廊下に飛び出した生徒たちの背中を叩いた。

その鋭さは、恐怖に飲まれかけていた何人かの意識を辛うじて現実へ引き戻す。

 

振り返ると、2年Bクラスの教室の扉の向こうでは、

長谷部波瑠加が完全に変わり始めていた。

 

さっきまで床に倒れ、苦しげに痙攣していたはずの身体が、

異様な角度で起き上がろうとしている。

肘のつき方がおかしい。

膝の動かし方がおかしい。

普通なら痛みによって止まるはずの動きが、止まらない。

 

人が立ち上がろうとしている、というよりも、

壊れた人形が無理やり関節を動かしているように見えた。

 

「机を運んで!早く!」

 

平田が叫び、須藤と本堂、

それに池が半ば反射的に教室へ戻りかけた机を引っ張り出す。

教室の入口付近にあった机と椅子を乱暴に積み重ね、扉の前へ押し付けていく。

 

その最中だった。

 

内側から、ドン、と鈍い衝撃音が響いた。

 

誰かの手が止まる。

 

また、ドン、と鳴る。

 

明らかに扉を叩いている。

いや、叩くというより、ぶつかっているのだろう。

そこに加減は感じられない。

ただ、こちらへ出ようとする衝動だけがある。

 

長谷部はもう、外にいる自分たちがかつての

クラスメイトであることなど理解していない。

理解しているはずがなかった。

 

綾小路は、その衝撃音を聞きながら無言で扉を見つめた。

あの中には、数分前まで確かに長谷部波瑠加という人間がいた。

軽口を言い、友人とつるみ、時には仲間を大切にする、2年Bクラスの生徒がいた。

 

だが今、そこにいるのは別のものだ。

 

そう認識しなければ、この先は動けない。

 

「……十分だ。行こう」

 

綾小路が短く告げると、

最後まで扉を押さえていた須藤が顔をしかめながら手を離した。

 

「クソッ……!」

 

須藤の吐き捨てるような声には怒りが滲んでいた。

恐怖よりも先に怒りが立つのが彼らしい。

理解できない状況、理不尽な事態、目の前でクラスメイトが変わってしまった現実。

それら全部を殴りたいのに、殴る相手がどこにいるのかも分からない。

そんな苛立ちが、その一言に凝縮されていた。

 

バリケードで封じた扉の向こうから、なおも鈍い衝撃音が続く。

だが、それに耳を奪われ続けている余裕はなかった。

 

廊下では、すでにもっと大きな崩壊が始まっていたからだ。

 

 

最初に視界へ飛び込んできたのは、龍園のクラスの混乱だった。

 

2年Cクラスの教室前には、多くの生徒が集まり、

いや、集まっているというより押し合いへし合いになっていた。

誰かが前に出ようとし、別の誰かが後ろへ下がろうとする。

悲鳴と怒鳴り声が交錯し、誰の指示も全体には行き渡っていない。

 

その中心で、ひときわ目立つ怒声が響いた。

 

「どけ!」

 

龍園翔だった。

 

彼は前方へ飛び出し、教室からよろめくように出てきた生徒へ、

迷いなく鋭い蹴りを叩き込んだ。

体勢の崩し方も、力の入れ方も無駄がない。

喧嘩慣れした龍園の蹴りは、ただ相手を遠ざけるためのものではなく、

確実に戦闘不能へ追い込むためのものだ。

 

普通の人間なら、一発で床を転がり、立ち上がるどころではない。

 

だが、相手は倒れなかった。

 

わずかに身体が揺れ、後方へ数歩よろめいただけで、すぐに重心を戻す。

そして、そのまま何事もなかったかのように、

再び龍園へ向かって腕を伸ばしてきた。

 

「……は?」

 

龍園の表情に、ほんの一瞬だけ空白が生まれる。

 

あり得ない。

効いていないわけがない。

今の一撃は、少なくとも常人の動きを止めるには十分すぎるほどだった。

 

だが現実に、目の前のそれは止まっていない。

 

口元を吊り上げた龍園は、すぐにその戸惑いを笑みに塗りつぶした。

 

「へえ……」

 

愉快そうですらある声。

だが、その瞳の奥にあるのは、単なる余裕ではない。

未知のルールを持ち込まれたときの、本能的な警戒だ。

 

龍園は恐怖に強い。

殴り合いにも、権力にも、集団の敵意にも慣れている。

だからこそ、この状況でも腰が引けない。

むしろ、その異様さそのものを噛み砕こうとする。

 

「なるほどな……退屈しなくて済みそうだ」

 

そう言った直後、彼は再び前へ出た。

 

 

一方で、坂柳有栖のいるAクラス側は、別の意味で不気味な静けさを保っていた。

 

もちろん、混乱していないわけではない。

悲鳴も上がっているし、生徒たちの顔色も悪い。

だが2年Cクラスのような剥き出しの騒乱とは違い、

どこか抑え込まれた空気があった。

 

その中心にいるのが坂柳だった。

 

橋本に背負われる形で廊下に出てきた坂柳は、

明らかに動揺を隠してはいなかった。

表情そのものは薄い。

だが、その瞳には普段の余裕とは違う緊張が宿っている。

 

それでも彼女は壊れない。

 

「近づかないでください」

 

小さな声だったが、不思議とよく通った。

 

「まだ状況は完全には把握できていません。

ですが、少なくとも、接触は危険です」

 

彼女のクラスメイトたちは、その言葉に従うように後退する。

混乱の中でも、坂柳が言うなら何か根拠があるのだろうと

本能的に感じるのかもしれない。

 

「橋本くん、少し左へ。……ええ、その位置です」

 

背負われたまま視線だけで状況を整理し、

最も危険が少ない位置を探っている。

自分の身体的なハンデを分かった上で、

それでもなお指揮を取ろうとしているのが見て取れた。

 

綾小路は、その横顔を見ていた。

坂柳は恐怖を知らない人間ではない。

ただ、恐怖を思考停止に繋げないだけだ。

 

 

一之瀬のクラスは、さらに対照的だった。

 

2年Dクラス――いや、今の2年Bクラスとは別の、旧来の一之瀬のクラス。

そこではまだ感染者が発生していなかったらしい。

 

そのことが、逆に混乱を深くしていた。

 

「な、何が起きてるの……?」

「え、嘘でしょ……何あれ……」

 

実際にクラスメイトが襲いかかるところを目の前で見たわけではない分、

理解が一歩遅れている。

何が起きているのか分からない。

分からないから判断もできない。

判断できないまま、ただ目の前の悲鳴と流血と暴走に押し流されていく。

 

一之瀬帆波は、その中心で声を張っていた。

 

「みんな、聞いて!」

 

普段の柔らかい声音ではない。

相手を安心させるための優しい声色でもない。

明確に通すための、責任のある声だった。

 

「今は一つのクラスだけで動くのは危険だよ!

4クラスでまとまって行動したほうがいい!」

 

その判断は正しい。

少なくとも現時点で、人数を分断させるメリットはない。

問題は、その正しさがパニックの中でどれほど機能するかだ。

 

 

人は、恐怖の渦中で集団の理性を保つことができるとは限らない。

 

目の前で誰かが噛みつかれた。

誰かが悲鳴を上げて倒れた。

誰かが助けを求めている。

その現実を目にした瞬間、

冷静な判断よりも先に身体が逃げようとするのは当然だった。

 

「押さないで!」

「待って、待ってよ!」

「やだ、来るな!来るなって!」

 

廊下は広いようでいて、160人近い生徒が一斉に動けば途端に狭くなる。

誰かが後ろへ下がり、誰かが横へ避け、その誰かにさらに別の誰かがぶつかる。

 

肩がぶつかる。

足がもつれる。

転ぶ。

 

そして、転んだ人間から順番に喰われる。

 

それはあまりにも単純な原理だった。

 

最初に一人。

次に二人。

誰かが助けようと手を伸ばし、逆に引きずられ、倒れる。

悲鳴が増え、後退しようとした生徒がさらに後ろの生徒を押し倒す。

 

パニックそのものが、新たな犠牲者を生み出していく。

 

綾小路は、その連鎖を冷静に見ていた。

 

助けられる人間と、助けられない人間がいる。

全員を救うという発想は、こういう場では最初に捨てなければならない。

捨てなければ、自分まで沈む。

 

だが、その現実を理解していてもなお、目の前で増えていく犠牲の数は重かった。

 

30人近い生徒が短時間で倒れた。

 

そして、問題はそこで終わらない。

 

倒れた者たちのうち、何人かの指先が小さく震え始める。

肩が跳ねる。

首が不自然に持ち上がる。

 

もう一度、立ち上がる。

 

だがそれは、生還ではなかった。

 

そこに戻ってくるのは、その人間ではない。

 

死体ですらない何か。

より正確に言えば、生きていた人間の形をした危険物だった。

 

悲鳴がさらに重なる。

 

「う、嘘だろ……」

「さっき死んだはずじゃ……」

「なんで、なんで動いてるのよ……!」

 

現実を認識する速度が、破局の進行速度に追いつかない。

そのわずかな遅れが、生徒たちをさらに混乱へ突き落としていた。

 

それでも、この場が完全に崩壊しきらないのは、

中心に立てる人間がまだ残っていたからだ。

 

堀北は叫ぶ。

 

「下がりなさい!勝手に散らばらないで!」

 

彼女の言葉は冷たい。

だがこういう場では、その冷たさが必要だった。

曖昧な優しさは命令として機能しない。

 

平田は別の角度から補う。

 

「女子は真ん中へ!動ける男子は外側へ回って!」

 

言葉の選び方が違うだけで、役割は同じだ。

秩序を繋ぎ止めること。

 

一之瀬は取り乱しそうになるクラスメイトへ声をかけ続ける。

 

「大丈夫、落ち着いて!一人にしないから!」

 

それは必ずしも事実ではない。

実際には、もう一人も取りこぼさないなんてことは不可能だ。

それでも、一之瀬はそう言わなければならない。

言葉によって人の心を支えるのが、彼女の立ち位置だからだ。

 

龍園は正面から異常へ踏み込む。

坂柳は離れた位置から戦況を読む。

そして高円寺は、まるでこの状況すら自分を

輝かせるための舞台にすぎないとでも言いたげに動いていた。

 

「フフ……実に醜い光景だねぇ」

 

高円寺六助はそう呟きながら、

廊下脇に設置されていたロッカーへと悠然と歩み寄った。

人が悲鳴を上げ、死に、変わっていくこの状況の中で、

その歩き方だけが不自然なほど普段通りだった。

 

ロッカーを開け、中を一瞥する。

清掃用具、工具、予備の備品。

その中から彼が選んだのは、数本の手斧だった。

 

「これが最も手っ取り早いだろう」

 

一本を綾小路へ放る。

一本を龍園へ放る。

 

綾小路はそれを受け取り、手の中で重さを測った。

柄の長さ。

重心。

振り抜きやすさ。

 

十分だ。

 

龍園は斧を受け取ると、口元を歪める。

 

「ようやく話が早くなったな」

「さすがに拳や蹴りで踊り続けるのは美しくないからねぇ」

 

高円寺はそう言うと、自分でも一本の斧を軽く振ってみせた。

その手の動きには妙な優雅さすらあった。

 

須藤がすぐに食いつく。

 

「おい、俺にも寄越せ!高円寺!」

 

石崎も声を上げる。

 

「こっちもだ!」

 

だが、ロッカーの中にそんなに多くの斧があるわけではない。

使えるものは限られている。

 

「数が足りないわ」

 

堀北が即座に判断した。

 

「家庭科室に包丁があるはずよ。まだ素手でいるよりはマシだわ」

 

数人の男子が頷き、別動で取りに向かおうとする。

そのとき、坂柳が静かに口を挟んだ。

 

「狙うべきは頭部です」

 

橋本に背負われたまま、しかし声だけは明瞭だった。

 

「胴体や手足を傷つけても、あれらの動きはほとんど鈍りません。

脳の機能を断つ。少なくとも今見えている範囲では、それが唯一の有効打でしょう」

 

綾小路も短く補足する。

 

「頭を潰せ。そこ以外は時間の無駄だ」

 

その一言で、この場のルールが共有された。

 

普通の暴力とは違う。

制圧では足りない。

躊躇すれば噛まれる。

噛まれれば終わる。

 

人間相手ならためらうような行為を、最初から前提に組み込まなければならない。

 

それが、この場の残酷さだった。

 

綾小路は、斧を握ったまま前へ出た。

 

目の前から一体が向かってくる。

制服は見慣れたものだ。

髪型にも見覚えがある。

だが、その顔はもう、個人として認識することを拒むように変質している。

 

綾小路は一歩踏み込み、相手の腕の伸びを見切る。

大振り。

速さはあるが単調だ。

理性がない分、駆け引きは存在しない。

だからこそ、パターンを掴めば対処はできる。

 

斧を横に払う必要はない。

余計な力が散る。

必要なのは最短距離で頭部へ重さを叩き込むことだけ。

 

振り下ろす。

 

鈍い手応えが腕へ返る。

相手の身体が崩れ落ちる。

 

立ち止まらない。

確認もしない。

次を見る。

 

龍園もまた、坂柳と綾小路の助言を即座に理解したようだった。

 

最初は胴を狙っていた。

だが、頭部が弱点だと分かったあとは迷いがない。

 

「オラァ!」

 

叫びながら斧を振るうその姿は荒々しい。

技術でいえば綾小路ほど洗練されてはいない。

だが龍園には龍園の強みがある。

 

躊躇がない。

恐怖で手が鈍らない。

相手が人の形をしていようと、その本質がすでに別物だと割り切れば踏み込める。

 

その資質は、今のこの状況では致命的なほど強い。

 

高円寺はさらに別格だった。

 

斧の扱いに慣れているようには見えない。

だが、身体能力がすべてを上回る。

踏み込みの速さ、軸の安定、体重移動の滑らかさ。

そのどれもが異常に高水準で、

即席の武器であるにもかかわらず動作に無駄がない。

 

彼はゾンビの群れへ突っ込むのではなく、

女子生徒たちの前に位置取って、壁のように敵を切り崩していく。

 

「心配はいらないよ」

 

そう言いながら、一体の腕をかわし、頭部へ斧を叩き込む。

 

「君たちは私が守ろう」

 

その言い方は芝居がかっている。

だが今、その芝居はむしろ必要だった。

誰かが守られているという感覚を与えなければ、集団はすぐに瓦解する。

 

その頃、須藤や石崎、

そして何人かの男子は家庭科室から包丁を持ち出していた。

 

当然ながら斧ほどの威力はない。

柄も短い。

間合いも危険だ。

だが、何も持たないよりは遥かにましだった。

 

「ふざけんなよ……こんなの、料理じゃねえんだぞ」

 

須藤は吐き捨てるように言いながら、それでも包丁を構える。

顔には明らかな嫌悪が浮かんでいた。

殴るのと、刃物で頭を狙うのとでは意味が違う。

覚悟の重さも違う。

 

だが彼は逃げなかった。

 

「来るなら来いよ……!」

 

そう言いながら一歩前へ出る。

その背後では、守られる側に回った女子生徒たちが怯えた目で見ていた。

 

堀北もまた包丁を手にしていた。

似合わない武器だ。

だが、今はそんなことを言っていられる状況ではない。

 

「動きをよく見なさい!」

 

彼女は周囲に言う。

 

「腕の振り方は単純よ!焦らなければ対処できる!」

 

自分にも言い聞かせるような声だった。

完全な自信があるわけではない。

だが、声に出して他者を動かすことで、

自分の足も止めないようにしているのだろう。

 

教師たちは、その場にはいなかった。

 

茶柱、星之宮、坂上、真嶋。

彼らは別働隊として職員室へ向かった。

 

情報収集。

校内放送の確認。

警備体制の把握。

外部との連絡手段の確保。

 

やるべきことは確かにある。

それは正しい判断でもある。

 

だが、同時にこの場の生徒たちは、

ほとんど教員不在の状態でこの地獄を捌かなければならなくなった。

 

頼れるのは、自分たちだけだ。

 

戦いは続いていた。

 

一体倒す。

二体目が来る。

その隙に別方向からまた別の一体が伸びてくる。

 

数が多い。

しかも増える。

 

最初から存在していた感染者だけではない。

逃げ遅れた者、転んだ者、守りきれなかった者。

その誰かが数分後には新たな敵として立ち上がる。

 

減らしても減らしても、状況が楽にならない。

 

綾小路は、その構造自体に嫌な既視感を覚えていた。

負けを前提に設計された試験。

人間の限界を見極めるための閉鎖環境。

観察され、淘汰され、生き残る者だけが次へ進むという発想。

 

それは、高度育成高等学校そのものにも通じる。

そしてさらに、その根底には――。

 

ホワイトルーム。

 

綾小路の中で、その名が静かに浮かび上がる。

 

この学校は何かを隠している。

いや、ずっと隠してきた。

今この瞬間、自分たちの目の前で噴き出しているこの異常は、

偶然起きた事故ではない。

もっと以前から準備され、埋め込まれていたものだ。

 

その直感が、背筋の奥で冷たく固まっていく。

 

そのときだった。

 

火災報知器の音とは別に、校内放送の機械音が割り込んだ。

 

ジ、と小さなノイズ。

それだけで、生徒たちの意識が一斉にそちらへ向く。

 

次に聞こえてきた声は、あまりにも落ち着いていた。

 

『生徒諸君』

 

月城理事長代理。

 

その声色には、焦りも狼狽もなかった。

まるで、この状況を最初から予測していたかのように。

 

廊下の空気がわずかに変わる。

悲鳴の中にも、耳を澄ませるような緊張が走った。

 

『現在、校内では非常事態が発生しています』

 

そんなことは誰でも知っている。

だが、その知っていることをわざわざ確認する口ぶりが、逆に不気味だった。

 

『生徒諸君には、危機管理用備品庫の使用を許可します』

 

一瞬、誰もその意味を理解できなかった。

 

危機管理用備品庫。

 

学校という場所にはあまりにも似つかわしくない言葉だ。

 

堀北が眉をひそめる。

一之瀬が戸惑いの表情を浮かべる。

周囲の生徒たちも、放送の内容をそのまま呑み込めず互いの顔を見合わせている。

 

月城の声だけが、淡々と続く。

 

『備品庫は二か所。体育館倉庫の奥、そして特別棟一階に設置されています』

 

綾小路はその言葉を聞きながら、表情を変えなかった。

 

『ただし、電子ロックは解除されていません』

 

当然のように続く。

 

『解錠には、カードキーおよびパスワードが必要です』

 

そこで、わずかな間が空いた。

まるで、その一拍ごとに聞いている生徒たちの反応を測っているかのように。

 

『それらは、私が所持しています』

 

その瞬間、廊下のあちこちからざわめきが上がった。

 

「ふざけんな……!」

「最初から開けとけよ!」

「なんでそんなもんが学校にあるんだよ!」

 

当然の反応だった。

危機管理用備品庫などという時点でおかしい。

しかも電子ロック付き。

さらに月城本人がカードキーとパスワードを握っている。

 

まるで、この事態が起きることを前提に用意されていたかのようではないか。

 

『合流を推奨します』

 

最後にそれだけ告げると、放送は途切れた。

 

唐突な静けさが、数秒だけ廊下を支配する。

もちろん現実には悲鳴も戦闘音も続いている。

それでも、月城の放送が残した違和感は、その全てを押しのけるほど濃かった。

 

「……どういうこと?」

 

一之瀬が呟く。

それは誰かに向けた問いというより、自分の理解を確認するための独白に近かった。

 

「学校に武器庫みたいなものがあるってこと……?」

「そんなの、聞いたこともないわ」

 

堀北も低く言う。

彼女の声には苛立ちが混じっていた。

理解できないものへの苛立ち。

この学校がまだ自分たちの知らない顔を持っていたことへの苛立ち。

 

綾小路は、二人のその反応を横目に見ながら、内心で静かに確信を深めていた。

 

やはり、そういうことか。

 

普通の学校ならあり得ない。

教育施設に、電子ロック付きの危機管理用備品庫がある。

しかも、それがこの種の非常事態に

対処できる装備を含んでいるような口ぶりだった。

 

さらに月城の声色。

状況を初めて知った人間のものではなかった。

 

退学した生徒たちの不可解な行方。

学校という名目にしては異様な閉鎖性。

国家直轄ともいえる管理体制。

ホワイトルームに酷似した思想。

 

断片だったものが、少しずつ輪郭を持ち始める。

 

この学校の地下には、何かある。

 

教育のためではない施設。

人を育てるのではなく、選別し、実験し、あるいは処分するための何か。

 

そして今、そこから漏れ出したものが、

自分たちのいるこの校舎全体を侵食している。

 

「綾小路くん……?」

 

堀北が呼ぶ。

彼の沈黙が、ただの沈黙ではないと感じ取ったのだろう。

 

「何か、気づいたの?」

 

綾小路はすぐには答えなかった。

ここで話しても、確証のない推測でしかない。

しかも今は、真相を解くことより、生き残ることが優先だ。

 

「……武器が必要だ」

 

彼が言ったのは、それだけだった。

 

「このままじゃ数を捌ききれない」

 

それは紛れもない事実だった。

斧も包丁も、今この瞬間を凌ぐには役立つ。

だが100人以上の生徒を守り切るには足りない。

各クラスのリーダーが健在で、綾小路や高円寺、

龍園のような例外的な人間が前線に立てている今でさえ、

犠牲は増え続けている。

 

武器庫が本当に存在するなら、そこへ向かわない理由はない。

 

龍園が、口の端を吊り上げた。

 

「ハッ。だったら決まりだろ」

 

斧を肩に担ぎながら、いかにも面白そうに言う。

 

「理事長とこまで行って、鍵でも何でも引っぺがすだけだ」

「言うほど簡単ではないでしょうけどね」

 

坂柳が静かに返す。

だがその口調も、完全な否定ではない。

彼女もまた、行くしかないと理解している。

 

一之瀬は周囲の生徒たちを見渡し、表情を引き締めた。

 

「……みんなで、動くしかない」

 

その言葉には、自分自身を奮い立たせる響きもあった。

もう優しいだけではいられない。

まとめるだけでも足りない。

進路を決め、その責任を負わなければならない。

 

堀北は一度だけ深く息を吸ったあと、鋭い目で前方を睨んだ。

 

「だったら、ここで止まっている暇はないわね」

 

綾小路は小さく頷く。

 

そうだ。

ここはもう、ただの廊下ではない。

生徒たちが毎日何気なく通っていた、

教室と教室を繋ぐだけの空間ではない。

 

ここから先は、生き残るための通路だ。

 

どこへ向かうのか。

誰を切り捨てるのか。

誰が生き延びるのか。

 

その全てが、この先の一歩一歩で決まっていく。

 

そして綾小路は、言葉にはしなかったが、はっきりと感じていた。

 

この災厄の中心には、月城がいる。

いや、月城だけではない。

もっと大きな意思。

もっと深い場所に根を張った、学校の本質そのものがある。

 

今、自分たちが戦っている相手はゾンビだけではない。

この学校が隠してきた正体そのものと対峙し始めているのだ。

 

そのときだった。

 

廊下の奥から、別種の音が響いた。

 

ドン。

 

重い。

 

ドン。

 

明らかに、人の足音とは違う。

 

ドン。

 

遅い。だが、一歩ごとの圧が異常だった。

 

その場にいた何人もの生徒が、反射的にそちらを見る。

誰もが本能で理解したのだろう。

 

これは、今までの連中とは違う。

 

ゾンビのような壊れた突進ではない。

もっと質量のある、もっと大きな何かが、こちらへ近づいてきている。

 

龍園の笑みが深くなる。

高円寺はむしろ面白そうに顎を上げる。

堀北の表情がさらに険しくなり、一之瀬は息を呑む。

坂柳の目だけが細く鋭くなった。

 

綾小路は斧を握り直した。

 

この学校の崩壊は、まだ始まったばかりだ。

 

教室で起きた惨劇。

廊下へ拡がった混乱。

30人近い犠牲者と、それが再び立ち上がる絶望。

武器庫の存在を知る月城の放送。

そして今、こちらへ近づいてくる新たな脅威。

 

どれ一つ取っても、もう日常へ戻る道など残っていないことを示していた。

 

高度育成高等学校という巨大な箱の中で、これまで生徒たちは試されてきた。

 

学力。

身体能力。

判断力。

協調性。

裏切りと忠誠。

そして勝者と敗者の線引き。

 

だが、それらすべてはまだ、人間としての枠の中にあったのだ。

 

今始まっているのは、もっと原始的で、もっと残酷な選別だった。

 

生き残る者。

死ぬ者。

そして、死んでもなお死にきれず、怪物として立ち上がる者。

 

秩序の仮面が剥がれ落ちた校舎の中で、綾小路清隆はただ静かに前を見ていた。

 

この先にあるのが脱出か、あるいはもっと深い地獄か。

まだ分からない。

 

だが一つだけ確かなのは――。

 

この学校は最初から、まともな教育機関などではなかった。

 

その真実に、自分たちはようやく触れ始めたのだということだけだった。




モチベ維持のために感想・評価をもらえると助かります。

ポケモンの小説になりますが、「携帯魔獣叛乱戦争」の方も本日、投稿開始です。
よろしくお願いします。
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