カーストルーム・オブ・ザ・デッド   作:戦竜

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第3話 怪物

重い足音は、比喩ではなかった。

 

ただ大きいだけの音ではない。

一歩ごとに床そのものが圧を受けて鳴っているような、

鈍く、低く、肺の奥へ直接響いてくる振動だった。

 

ドン。

ドン。

ドン。

 

規則的でありながら、生き物の歩行としてはどこか不自然な間がある。

急いでいるわけではない。

だからこそ不気味だった。

まるで逃げ惑う獲物たちが、

自分から近づいてくるのを悠然と待っている捕食者のように、

その音の主は一切の焦りを感じさせなかった。

 

悲鳴の飛び交う廊下の中で、その足音だけが異様にはっきりと輪郭を持っていた。

火災報知器の警報音さえ、一瞬だけ遠のいたように思えるほどだった。

 

やがて、廊下の奥の角から、その姿が現れる。

 

最初に見えたのは、黒だった。

 

長く垂れたトレンチコート。

それ自体は、どこにでもある冬物の上着に見えなくもない。

だが、それを着ている中身が問題だった。

 

背が高い、という言葉では足りない。

2メートルを優に超えている。

しかも細長いのではなく、質量そのものが大きかった。

肩幅が異様に広く、胸郭も厚い。

腕は常人のそれより一回りどころか二回りは太く、

トレンチコートの下からでも、その輪郭が明確に分かる。

まるで人間を無理やり拡大し、

さらに筋肉と骨格だけを悪意ある設計図で増築したような体だった。

 

そして、その顔。

 

肌色は、人間の血が通っている者のものではなかった。

灰色に近い。

冷え切ったコンクリートや、曇天の下の古い石像を思わせる色。

瞳には生気がなく、白目の占める面積が異様に広い。

鼻梁も口元も一応は人の形をしているのに、そこに人格が感じられない。

人間の部品を並べて人間の顔に似せてはいるが、

その奥にいるべきものが完全に欠落している。

 

化け物だった。

 

ゾンビのような元は人間だったものという気味の悪さとも違う。

目の前のそれは、最初から人の枠の外にある何かが、

無理やり人間の形を借りているように見えた。

 

その異様な存在感に、廊下の空気が変わる。

 

今までは、悲鳴も怒号も止まらなかった。

だがその姿を目にした瞬間だけ、

そこにいた百人近い生徒の意識が凍りついた。

 

「……マジかよ」

 

最初にそう漏らしたのは、龍園だった。

 

龍園翔。

 

あらゆる理不尽を面白がるような男。

暴力に慣れ、威圧にも怯まず、むしろ混沌そのものを支配しようとする人間。

 

そんな彼が、初めて明確な動揺を声に乗せた。

 

それは恐怖に呑まれた叫びではない。

だが、目の前に立っているものがこれまで自分が知っていた

強い相手の範疇から逸脱していると、本能の深いところで悟った反応だった。

 

高円寺六助ですら、口元の笑みを消していた。

 

普段ならどんな異常も自分の劇場へ塗り替えてしまいそうな彼が、

その怪物だけは無言で見据えている。

口元が釣り上がってるが目が笑っていない。

余裕の演技ではなく、純粋な観察として。

 

堀北鈴音は言葉を失っていた。

理性的に状況を整理し、命令し、秩序を立て直そうとしていた彼女ですら、

その体格差、その圧、その人間離れした顔を前にして、

瞬時に有効な対処法を出せない。

 

一之瀬帆波も絶句している。

彼女の目には、さっきまでのゾンビたちとは別種の絶望が映っていた。

あれだけの数に追われてなお、皆をまとめようとしていた彼女が、

今だけは言葉を発せない。

 

坂柳有栖だけが、静かに目を細めていた。

 

橋本の背中に身を預けたまま、その怪物を鋭く睨む。

彼女の表情に恐怖がないわけではない。

むしろ誰よりも、この異常の意味を理解し始めているからこその緊張だった。

 

人間ではない。

ゾンビとも違う。

しかもただ大きいだけではなく、

制御された兵器のような機能美を感じさせる体躯。

 

この学校に隠されているものが何であれ、

それはすでにここまで来ているのだと、彼女は理解したのだろう。

 

怪物は、ゆっくりと首を巡らせた。

白濁した目が、廊下に密集した生徒たちの群れをなぞる。

そこには感情がない。

怒りも、快楽も、殺意すらない。

ただ、標的を選ぶ機械的な視線だけがある。

 

そして、その視線が止まった。

 

綾小路清隆の上で。

 

なぜ、と思った者は多かっただろう。

群れの中には他にも前に立っている人間がいた。

龍園も、高円寺も、須藤も、堀北も。

それなのに怪物は、まるで最初からそこに立つ綾小路だけを

認識していたかのように、正面へ身体を向ける。

 

綾小路はその事実に、わずかな違和感を覚えた。

 

だが考える時間はない。

怪物の右腕が、前触れなく振り上げられたからだ。

 

速い。

 

巨体に似合わない、どころではない。

あの体格から繰り出される攻撃としては異常な加速だった。

速度だけなら大型肉食獣の突進にも匹敵するかもしれない。

しかも、そこに乗っているのは人間離れした質量と筋力だ。

 

ヒグマや虎のような猛獣の一撃ですら、正面から受ければ骨が砕ける。

目の前の怪物は、その比較対象すら軽々と踏み越えている。

 

綾小路の身体が、ほとんど反射の領域で動く。

 

真正面から下がらない。

半歩外す。

最短距離で軌道の外へ抜ける。

 

直後、怪物の剛腕が空を裂く。

 

風圧だけで前髪が揺れ、すぐ後ろの壁に衝撃が叩きつけられた。

コンクリートが鈍い音を立て、表面に亀裂が走る。

 

その威力を見て、後方の生徒たちから息を呑む音が漏れた。

 

もし、いまの一撃をまともに受けていたら。

 

想像するまでもない。

 

綾小路は回避と同時に踏み込んでいた。

 

怪物の懐。

通なら最も危険な位置。

だが、綾小路はそこへ入る。

 

斧を頭上へ引き上げる。

狙いは頭部。

ゾンビ相手に有効だったのと同じ発想。

脳を破壊できれば、少なくとも機能停止の可能性がある。

 

振り下ろす。

 

だが――。

 

怪物の反応は、さらにその上をいった。

 

巨体に似合わない、という表現ですら追いつかない。

綾小路の斧が到達するよりわずかに早く、怪物の腕が上がる。

防御というより、本能的な迎撃。

それでも精度は異常だった。

 

斧の柄ごと受け止める。

次の瞬間、弾き飛ばす。

 

綾小路の腕に、尋常ではない衝撃が返る。

人間同士なら押し返す、という程度の言葉で済む。

これは違う。

質量そのものに殴り飛ばされた感覚だった。

 

身体が浮く。

 

そのまま横へ弾き飛ばされ、綾小路は壁へ叩きつけられた。

 

「綾小路くん!」

 

堀北が叫ぶ。

 

しかし綾小路は、壁へ激突する瞬間に体勢を殺していた。

背中からまともに受けるのではなく、肩と脚へ衝撃を逃がす。

受け身としては最適。

呼吸は乱れたが、骨まではいっていない。

 

それでも、その動きは尋常ではなかった。

 

それを見ていた者たちの反応が、それを物語っていた。

 

櫛田桔梗は息を呑んだまま目を見開いている。

松下千秋の表情からは完全に余裕が消えていた。

三宅明人も、無意識に一歩前へ出かけた足を止めている。

須藤でさえ、その視線は怪物より一瞬、綾小路へ吸い寄せられていた。

 

いまのを避けた。

あのタイミングで。

しかも反撃まで入れた。

 

それは運動神経がいいで片づく領域ではない。

 

龍園が、不敵に笑った。

 

「やっぱりテメェ、ただ者じゃねえな」

 

その声は、怪物に向けたものではない。

綾小路に向けている。

 

その一言が、周囲にいた生徒たちの認識を揺さぶった。

 

池寛治。

篠原さつき。

本堂遼太郎。

それに、普段の綾小路を目立たない生徒、特徴の薄い普通の男、

としてしか見ていなかった何人もの生徒たち。

 

彼らの中で、何かが修正されていく。

 

これまでの認識が、剥がれ落ちる。

 

綾小路清隆は、ただ目立たないだけの生徒ではなかった。

平凡を装っていたにすぎないのではないか。

そんな疑念が、恐怖と混乱のただ中で、逆に妙な鮮明さをもって浸透していく。

 

だが、その真実を考察している余裕など、すぐに奪われる。

 

怪物が止まらないからだ。

 

綾小路へ向けていた視線が、次の瞬間には最も近い位置にいた龍園へ移る。

振り向きざまに腕が振るわれる。

 

龍園が舌打ちしながら後方へ飛ぶ。

間一髪。

その一撃が廊下の壁を抉り、白い破片が散った。

 

「クソが……!」

 

龍園は着地と同時に斧を振るう。

狙いは首筋。

だが怪物の体表は、常識的な肉の感触ではなかった。

硬い。

人間の筋肉ではなく、

厚いゴムと鋼線を何層にも重ねたような嫌な手応えがある。

 

浅い。

 

斧の刃は確かに食い込んだ。

だが、それは人間相手なら致命傷になっていたはずの深さには程遠かった。

怪物は首をわずかに傾けただけで、痛みに反応した様子すらない。

 

龍園は舌打ちすると、即座に理解する。

自分の腕力では足りない。

 

「アルベルト!」

 

短く叫ぶと同時に、龍園は手にしていた斧を後方へ放った。

 

それを受け取ったのは、龍園クラスの巨漢――山田アルベルトだった。

無言。

ただ、その大きな手が斧の柄を掴んだ瞬間、

周囲の空気がわずかに張り詰める。

 

アルベルトは須藤と並んで学年屈指の身体能力を持つ男だ。

しかも、その体格は須藤をさらに上回る。

鍛え上げられた腕と分厚い上半身から繰り出される一撃は、

単純な威力だけならこの場の誰より重い。

 

一歩、踏み込む。

 

床板が軋む。

次の瞬間、アルベルトは全体重と腕力を乗せて、

怪物へ向けて斧を振り抜いた。

 

その一撃は、もはや振るうというより叩き潰すに近かった。

まともに入れば、人間の骨格など頭蓋ごと陥没し、

首から上を原形のまま保つことなど不可能な威力。

 

だが――。

 

鈍い衝撃音が廊下に響いたにもかかわらず、怪物は止まらない。

 

その巨体が、ほんのわずかに揺れただけだった。

 

斧は確かに命中している。

それでも、まるで分厚い装甲板を殴ったかのように、

致命的な損傷には至っていない。

 

アルベルトのサングラスごしの眉が、初めてわずかに動く。

 

驚愕。

 

それは声にならない。

だが、彼ほどの男が無言のまま硬直した、その事実だけで十分だった。

 

効いていない。

 

アルベルトの全力の一撃ですら、目の前の怪物には決定打にならない。

 

その現実が、周囲にいた生徒たちの背筋をさらに冷たく凍らせた。

 

高円寺が横から踏み込む。

無駄のない軌道で、怪物の側頭部めがけて斧を打ち込む。

だがそれも浅い。

怪物はぐらりとも揺れない。

逆に振り返りざまの肘打ち一つで、高円寺を数歩後退させた。

 

高円寺の表情から完全に笑みが消えていた。

それでも目だけは輝きを失っていない。

目の前の相手が、ようやく自分の肉体に本気を

要求してくる存在だと感じているのかもしれなかった。

 

須藤が叫びながら前へ出る。

 

「この野郎ッ!」

 

包丁を握ったまま、怪物の背後から跳びかかる。

その勇気そのものは本物だ。

だが、勇気と勝算は別だ。

 

怪物は振り返りもしない。

後ろ手の一振りだけで、須藤の身体を吹き飛ばす。

須藤は床を転がり、なんとか受け身を取るが、

顔を歪めて起き上がるまで数秒を要した。

 

堀北がその隙を埋めるように前へ出る。

距離の詰め方は慎重だ。

彼女は無謀ではない。

相手の軌道を読み、死角へ入ろうとする。

だが怪物の感知能力は、人間の視界だけに依存していないようだった。

堀北が包丁を振り下ろすより早く、怪物の腕が後ろへ伸びる。

 

伊吹澪が横から割って入った。

 

「下がれ!」

 

短い怒声。

伊吹の蹴りが怪物の膝裏へ入る。

人間相手なら体勢を崩すには十分な角度と速度。

しかし怪物の脚は大木のようにびくともしない。

 

逆に次の瞬間、伊吹は跳ね飛ばされるように距離を取らされる。

倒れはしない。

だが明らかに、これまで自分が通じさせてきた暴力の技術が、

この相手には根本から噛み合っていないと理解した顔だった。

 

綾小路は壁から離れ、再び立ち上がっていた。

 

呼吸を整えつつ、怪物の動きを観察する。

速い。

重い。

硬い。

しかも標的の選び方に、完全な無秩序ではない意図が見える。

 

これは単なる暴走体ではない。

 

ゾンビのように手近なものへ無差別に噛みつくのではなく、

戦力になりうる相手から優先的に排除しているように見える。

 

もしそうなら、いま手元にある斧や包丁だけで太刀打ちできる相手ではない。

 

坂柳が、その結論を言葉にした。

 

「無理です」

 

静かな声だった。

 

しかし、その一言は強く響いた。

 

「いまある装備では、太刀打ちできません」

 

その場にいたほとんどの者が、同じ結論へ達しかけていた。

だが、それを認めたくなかった。

認めれば、逃げるしかなくなるからだ。

 

しかし現実は残酷なまでに明白だった。

 

綾小路、高円寺、龍園、須藤、堀北、伊吹、アルベルト。

この場で前線に立てる戦力が一斉に当たっても、相手は止まらない。

まともなダメージが入っているようにすら見えない。

 

ならば結論は一つだった。

 

「退くしかない」

 

綾小路が低く言う。

 

「月城のところまで行く。

武器庫を開けるための鍵を取らない限り、ここで消耗するだけだ」

「チッ……!」

 

龍園は歯噛みするように舌打ちした。

逃げるという判断それ自体が不服なのではない。

目の前に気に入らない怪物がいるのに、

いまは殴り倒せないという事実が癪に障るのだろう。

 

「聞いたわね!移動するわよ!」

 

堀北が声を張る。

 

「前に出られる人は外側!一般生徒は中央へ寄せて!」

 

平田もすぐに続いた。

 

「押さないで!転んだ人を踏まないで!焦らなくていい、順番に!」

 

一之瀬もまた、自分のクラスの生徒たちへ必死に声をかける。

 

「みんな、まとまって!一人にならないで!」

 

だが、100人を超える大移動は、それだけで地獄だった。

 

教室単位の避難と違い、いまこの場には4クラスにまたがる生徒が混在している。

情報の伝達速度も、恐怖の共有度も違う。

誰かは指示に従う。

誰かは聞こえていない。

誰かは聞こえていても、恐怖に耐えきれず勝手に走り出す。

 

その一つ一つが、連鎖的に隊列を乱す。

 

怪物は、その乱れを見逃さなかった。

 

坂柳を背負った橋本が生徒たちを押しのけるようにルートを確保していたとき、

その脇から別方向へ逸れた一体のゾンビが坂柳へ伸びかけた。

そして同時に、背後から怪物本体が距離を詰める。

 

「坂柳!」

 

鬼頭隼が前へ出た。

 

躊躇はなかった。

坂柳を庇う。その一点だけで身体が動いている。

 

鬼頭はゾンビを蹴り飛ばし、坂柳へ向かう軌道をずらした。

だが、怪物本体に対しては、それでは足りない。

 

振り下ろされた腕が、鬼頭の身体を真正面から薙ぐ。

 

鬼頭の身体が大きく吹き飛び、床へ叩きつけられる。

そのまま動かない。

 

坂柳の表情が、ほんの一瞬だけ変わった。

 

取り乱しはしない。

悲鳴も上げない。

だがその瞳の奥には、確かな痛みが走っていた。

自分を庇って倒れた。

その事実だけは、どれほど理知的であっても無視できない。

 

「橋本くん、止まらないでください」

 

それでも彼女は言う。

声はかすかに硬かった。

 

神崎隆二もまた、全体を見ながら生徒たちの流れを整えようとしていた。

 

「こっちへ!詰まるな!横に広がるな!」

 

冷静だった。

状況を俯瞰できていた。

だからこそ、逆に狙われた。

 

混乱の中で進路を変えたゾンビが神崎の死角から飛び込み、彼は咄嗟に腕で庇う。

直撃は避けた。

だが、その代償として深い傷を負う。

 

「神崎くん!」

 

一之瀬が振り返る。

だがその一瞬、今度は別の場所で悲鳴が上がる。

 

白波千尋と網倉麻子。

 

一之瀬の親友たちが、将棋倒しのようになった生徒の流れに巻き込まれていた。

 

前の生徒が転んだ。

後ろから押された。

逃げようとする力は止まらない。

誰かを助けようと振り向く余裕もない。

 

「待っ――」

 

声は、騒音に呑まれる。

 

白波と網倉の姿が、人波の下へ消える。

誰かが手を伸ばしたが届かない。

次の瞬間には、怪物でもゾンビでもなく、

人間の恐怖そのものが二人を押し潰していた。

 

一之瀬の顔から血の気が引く。

 

だが、立ち止まれば今度は自分が飲まれる。

その現実が、彼女をさらに追い詰めた。

 

怪物はその混乱の中を、まるで障害物など存在しないかのように進んでくる。

 

ゾンビたちと違って、足が止まらない。

しかも狙いを絞っている。

 

その白濁した目が、一之瀬を捉えた。

 

なぜ彼女なのか。

理由は分からない。

あるいは、この場の中心にいるリーダー格を順に潰しているだけかもしれなかった。

 

一之瀬は、その視線を受けて身体が硬直する。

 

逃げなければ。

分かっている。

だが足が一瞬、地面に縫い止められたようになる。

 

怪物が踏み込む。

 

その一歩だけで、距離が一気に縮む。

重いはずなのに速い。

理屈が壊れている。

 

一之瀬は反射的に後退した。

 

それしかできない。

包丁を構えることも、受けることも無理だ。

あんなものを正面から止められるはずがない。

 

それでも、怪物の腕は迫る。

 

「一之瀬さん、走ってください!」

 

椎名ひよりの声が飛ぶ。

柔らかい声質の彼女からは想像できないほど、はっきりした指示だった。

 

葛城康平も別方向から叫ぶ。

 

「立ち止まるな!隊列を割るな!」

 

堀北と平田も、生徒たちの流れを必死に維持していた。

 

「前だけ見て!」

「後ろは気にしないで、動け!」

 

冷静な判断力がある者たちだけが、

どうにかこの100人規模の崩壊を完全な壊滅へ落とさないよう支えている。

 

それでも、一之瀬だけは間に合わない。

 

綾小路は、その光景を見ていた。

 

考えるより早く身体が動く。

怪物の進路へ割って入り、一之瀬とのあいだに立つ。

 

「下がれ!」

 

短く告げる。

 

一之瀬は息を呑みながらも、その声に押されるように後退した。

 

綾小路は再び怪物と向き合う。

 

さっきと同じではない。

相手の速さも、硬さも、いまの武器では足りないことも、すでに理解している。

それでも、この一瞬だけは止めなければならない。

 

怪物の腕が上がる。

綾小路も重心を落とす。

 

その瞬間。

 

「綾小路ィ!」

 

どこからか、荒っぽい声が飛んだ。

 

同時に、何かが空中を弧を描いてくる。

 

黒く、長い。

 

綾小路は視線だけでそれを捉え、ほとんど反射で片手を伸ばした。

 

ショットガン。

 

受け取った瞬間、その重みで分かる。

散弾銃特有の前寄りの重心。

使い慣れてはいないはずなのに、不思議と違和感がなかった。

 

綾小路はそのまま肩へ引き寄せ、照準を合わせる。

 

怪物の頭部。

 

距離は近い。

外すほうが難しい。

だが、確実に頭へ叩き込むには一瞬の静止がいる。

 

怪物の白目が、銃口を認識したようにわずかに動く。

 

発砲。

 

廊下に轟音が炸裂した。

 

それまで響いていた悲鳴や警報音が、一瞬だけ消し飛ぶ。

火薬の匂いが広がる。

反動が肩へ食い込む。

 

至近距離からまともに受けた散弾が、怪物の頭部を大きく揺らした。

 

巨体が、初めて明確によろめく。

 

後方へ半歩、二歩。

 

それだけで床が震えた。

 

だが――倒れない。

 

頭部へ直撃したはずなのに、膝をつくことすらない。

皮膚が裂け、ダメージは確かに入っている。

しかし、それは致命傷ではなかった。

 

この場にいた誰もが、その事実に別種の戦慄を覚える。

 

ショットガンですら、止めきれない。

 

綾小路は銃口を下げず、そのまま送り元へ視線だけを向けた。

他の2年生たちも、同じようにそちらを見る。

 

そこには、すでに銃器を手にした1年生たちの姿があった。

 

宝泉和臣。

 

口元に獰猛な笑みを浮かべ、

まるでこの地獄絵図さえ面白い余興だとでも言いたげに立っている。

その手には銃。

持ち方にためらいがない。

学校の生徒が持つにはあまりにも自然だった。

 

その隣には、七瀬翼。

周囲を油断なく観察しながら、

しかし必要な緊張だけを残した静かな目をしている。

混乱の中でも自己を見失っていない。

その姿勢は、彼女がこの状況に対して単なる恐怖以上のもの――

何か訓練された反応を持っていることを感じさせた。

 

そして、天沢一夏。

この崩壊した校舎の中にあってなお、場違いなほど軽やかな空気を纏っている。

だがその目は笑っていない。

面白がっているように見せながら、実際には状況を正確に舐め取っている目だ。

 

宝泉が、不敵に笑った。

 

「よう、2年。ずいぶん派手にやってんじゃねえか」

 

その声音には焦りがない。

恐怖もない。

むしろ、ここから先の戦いを楽しみにしているようですらあった。

 

綾小路はショットガンを構えたまま、その1年生たちを見据える。

 

武器を持っている。

しかも扱いにも慣れているように見える。

偶然拾ったのではない。

どこで手に入れたのか。

なぜ1年が先に銃器へ辿り着いているのか。

 

疑問は尽きない。

 

だが今は、それを問い詰める時間ではない。

 

よろめきながらも体勢を立て直しつつある怪物が、

再びこちらへ向き直ろうとしているからだ。

 

この場はまだ終わっていない。

むしろ、ここから戦局がさらに大きく動く。

 

ゾンビによる崩壊。

怪物の圧倒的暴力。

月城が残した武器庫の存在。

そして、武装した1年生たちの登場。

 

高度育成高等学校という巨大な箱の中で、

それぞれ別の思惑を抱えた人間たちが、今まさに一つの戦場へ収束し始めていた。

 

綾小路はショットガンのグリップを握り直す。

 

さっきまでのように、これはただの避難では済まない。

ここから先は、より明確な戦いになる。

 

そしてその戦いの中心に、

自分が引きずり出されつつあることを、彼はもう否定しなかった。




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